【歴】第79回歴史をひもとく会 金沢文庫・金沢八景 歴史散歩

2017年5月30日、前日までの雨も止み、曇り~晴れの天気となりました。今回のテーマは『金沢区称名寺・金沢文庫を中心とした歴史をひもとく』。
講師は前回の横浜散歩で大変お世話になりました市川隼氏(鎌倉三田会。昭42年政、44年経)に再度お願いし、32名の参加となりました。

JR根岸線・新杉田駅に集合し、金沢シーサイドラインにて、長昌寺(ちょうしょうじ)に。ここは、芥川賞・直木賞で有名な直木三十五の墓がある寺。直木三十五の隣には直木賞作家の胡桃沢耕史の墓が。徒歩にて慶珊寺(けいさんじ)に。門前には岸信介元首相揮毫の「孫文上陸記念碑」、寺の裏に直木三十五の旧宅跡。なお、「上陸」というのに違和感がありましたが、実は、昔は寺の近くまでは海でした。

再び、金沢シーサイドラインに乗り、波がきらめく静かな金沢の海を見た後、一路、本日のメインイベントの「称名寺と金沢文庫」。静かな庭園の中の寺院を散策し、「国宝 金沢文庫展(称名寺聖教・金沢文庫文書国宝指定記念)」を開催中の金沢文庫へ。昨年8月に金沢文庫が管理する総計2万点余りが、一括して国宝に指定された記念の展覧会です。学芸員による懇切丁寧な説明を受け、鎌倉中期~後期の歴史について紐解きました。

ランチは、称名寺傍の「ふみくら茶屋」でアナゴの天婦羅等の懐石料理とお酒等で心身を癒しました。ここで一旦解散し、直帰グループと「金沢歴史の道」を経て帰るグループに分かれました。後者のグループは、途中、龍華寺において星野さん(昭42年経)のご尽力(ご縁?)で、ご住職ご夫妻とボランティアの方々による思いもかけない美味しい珈琲による「お接待」が。一同、大感激。その後、「金沢歴史の道」を進みつつ帰路につきました。15,000歩を優に超える、大変有益で充実した歴史散歩となりました。

【蕎】第49回「蕎麦っけの会」を開催しました。

第49回は、2017年5月27日(土)、新宿「大庵」で六大学野球慶早応援会とのコラボにて精鋭9名が参加して開催しました。慶早戦は「連勝すれば優勝」との初戦を観戦し、2イニング連続の満塁ホームランでの大勝利!その余韻を引きずっての「大庵」で、大いに盛り上がりました。

まずは、「六大学野球の生き字引き」東島さん(昭38文)による乾杯のご発声でスタート。引き続き、東島さんによる今季の慶應野球部の活躍および本日の勝利分析等、楽しく有益な講話へと続きました。

その後、歓談に移りましたが、料理は、いずれも逸品揃いで、一同、勝利の美酒(新潟の美酒「鶴齢」)に酔うととともに舌鼓み。大庵の常連の菅谷さんお勧めで、蕎麦っけの会としては珍しく久々のワインも注文。途中、店主の代表取締役安田様ご夫妻が、わざわざご挨拶に来られ一同恐縮。因みに、令夫人は塾ご出身です。

締めは、なんと数十年ぶりに慶早戦を観戦された丸山さん(昭30経)。「数十年ぶりの観戦で本当に楽しかった。大変に良い試合だった。ただ、チアガール達から少し遠い席だったのが残念!」とのご挨拶をいただき、誠に楽しい時間を過ごしました♪

さて、次回は大きな節目の第50回となります。具体案を現在、鋭意検討中です。

蕎麦っけ1

蕎麦っけ2

【ゴ】第15回国立・立川・国分寺合同コンペ

第15回立川・国立・国分寺三田会合同コンペが5月24日新緑の中「大月カントリークラブ」にて開催され、参加者は20名(国分寺 9名、立川 7名、国立 4名)でした。立川三田会が団体優勝となりました。個人優勝は立川三田会の森田さん、準優勝は立川三田会傳田口さん、ベスグロは立川三田会森田さんでした。国分寺三田会は3位に高杉さんが入ったのを筆頭に10位までに6人が入り健闘しました。プレイ終了後は、ゴルフ場にて成績発表を兼ねた懇親会が開催され、3三田会のメンバーの交流をすることができました。

 

スタート前に 練習グリーンをバックに記念撮影

スタート前に 練習グリーンをバックに記念撮影

第15回国立・立川・国分寺三田会合同ゴルフコンペ

・ 開催日   5月24日 (水曜日)
・ 場 所   大月カントリークラブ(大月市)
・ 時 間   8:52 インスタート5組
・ 競技方法  新ぺリア方式
・ 参加者   20名

合同ゴルフ懇親会

・ 場 所  大月カントリークラブ
・ 時 間  プレイ終了後
・ 参加者  プレイ参加者全員 20名

【Y】第24回ヤングサロンの会を開催しました

【テーマ:地方自治~現場の苦悩と喜び~】

 5月21日(日)、前国分寺市長、星野信夫さんを講師にお迎えし講演会を開催しました。開催場所も、星野さんにとっては市長時代に誘致を決めた思い出のある都立多摩図書館。天井も高く好環境の中で熱のこもった素晴らしい講演会でした。
講師は2001年に第5代国分寺市長に初当選され、以来2013年に退任されるまで、3期12年間の長期に亘り務められてこられました。まちづくりの理念として「共生、参加、創造」を、またスローガンとして「改革断行」を掲げて市政を担当してこられました。この間、「職員に支えられ市民に応援され市政を務められたと思う」と冒頭で述べられた感想が印象的でした。以下、就任当時の状況および大型事業への取り組みに的を絞り報告します。

 記

市政を振り返り:
最初の仕事は地域に相応しい「都立武蔵国分寺公園」の命名であった。最初の難題となったのが西国分寺駅東地区の再開発事業である。この案件は西国分寺駅近くに市民文化会館を建設する事業であったが、建設の是非を巡って議論の末住民投票が実施され、結果僅かに反対が賛成を上回り、幾多の経過を経て市民文化会館建設計画は廃止され、民間のスポーツクラブが建設される事に変更された。
市政に関して:
市長は市民から直接選挙で選ばれるので大きな権限を持ち、様々な案件の提案権を持っているが、あくまで決定権は議会にある。また国分寺市政は初代より保守、革新の市長が毎回入れ代わり、長期開発案件を遂行するには困難が伴う状況にあった。加えて国分寺市は府中市や小平市等と異なり、大規模事業所がなく市の歳入は個人市民税が中心である事から、大きな開発案件の遂行は財政的に困難な下地がある。一方、国分寺市の人口は市設立の当初5万6千人であったものが、高度成長期の波に乗り都内からの移動も多く人口が急激に増加し、現在は3倍の12万人に達している。こうした人口増加により下水道の整備・学校建設・ごみ処理施設の整備が急がれた。下水道の整備等では多額な借金を余儀なくされたが、バブルの崩壊と共に経済環境が悪化した為、多額の借入金返済に追われ、開発案件の計画・遂行上大きな障害となった状況がある。バブル崩壊後の失われた20年は国・地方の財政を著しく悪化させたが、実にその内の12年間が星野市政の期間でもあった。更に急速な少子高齢化が進み社会保障費が増大した時期にも重なっている。
国分寺駅北口再開発事業では:
1965年初代市長の代に最初の計画が掲げられたが、反対が多く長期に亘り進展がなかった。その間「開発よりも福祉優先」等の声が大きく挙がっていたが、星野市長は当再開発事業を継承し進める事とした。事業を進める上で大きな問題は地域に187名もの多くの権利者がおり、権利調整が難航した事であるが、その上2001年から始まったITバブルの崩壊が税収の大幅低下を招いた事が追い打ちをかける事となった。
一方、下水道の整備は開発工事と同時に着手すべきとの考え方から、駅周辺の下水道 が未整備状態にあり、一刻も早く開発工事を進める必要に迫られていた。更に万一開発を止める様な事になれば、損害賠償の問題等も発生する恐れがある為、事業の中断は許されず、如何に計画変更で難局を乗り越えられるかに焦点が絞られた。解決案として出されたのが、建物の建設場所を駅の近くに移し、建物の価値を高める事により商業床の販売収益を増加させ、以て開発費用の確保をする事であった。これにて一件落着と思いきや、またもやリーマンショックにより商業床が売れない事態が発生した。この問題については、「建物のスリム化と高層化」、且つ「商業床の多くを住宅床に変更」する事で開発事業は成功する目途が立った。市の想定を大幅に上回る額で落札され、建物除却の予算をつけてバトンタッチした。
ごみ処理の問題では:
複数の自治体で焼却炉を持つ場合は東京都から補助金が出る事や、大きな焼却炉設置による経済性、環境整備、自家発電設備保有等の利点がある事から平成16年、小金井市からの依頼により国分寺市と共同でゴミ処理する為の協議を開始した。
小金井市からは平成20年3月までに二枚橋近くにゴミ焼却場用地を確保する旨、またそれまでの間、小金井市のゴミを国分寺で処理願いたいとの申し出であった。しかし用地確定が出来ず問題が発生した。最終的に日野市長の決断により、国分寺及び小金井両市のゴミを受け入れる事で決着する事になった。当時日野市長はこの決断により逆に住民からの批判を招く事にもなったが、正しく日野市長の英断により難局が解決された次第である。
尚、日野市及び小金井市はゴミの減量化で現在全国一の優良自治体と言われているが、国分寺市は未だその域に至っていない。
都市計画道路整備について:
国分寺駅から北に登り、本多公民館の辺りで交わる道路が3・4・6号線(東西道路、日立中央研究所北川の道路)であるが、この道路は日本で一番時間がかかっている都市計画道路と言われている。新しい計画で道路が鉄道と交差する場合、立体交差とすべき事が道路法で定められている。この道路は西武線2本と交わるが、道路立体化には多額の費用がかかる為、都とも相談しながら進めているが、今後に残された課題もある。
都道3・2・8号線(南北道路、新府中街道)は中央線・西武線交差部分以外平面交差に改め計画推進中。この道路では小平市での反対運動は住民投票迄実行されたが、一応の決着を見ている。
講演出席者の質問に応え下記発言された事が印象に残っている:
大学は慶應義塾の経済学部、加藤寛ゼミで経済政策を勉強した。強く印象に残っている先生の言葉は、「マルクスは間違っていた。しかし、政策を論ずる者はマルクスの社会を変えて行こうとする社会的情熱に学ばなければならない」という言葉であった。
講演会後:
西国分寺駅近くの居酒屋に20名が集まり、大いに盛り上がった一日でした。

【歴】第78回 歴史をひもとく会 講演会 報告

  • 講演 ; 演題「福澤諭吉とその人生を開いてくれた恩師・恩人について」
          講師・柴田利雄先生(帝京八王子中学高等学校校長)

 

  • 日時 ; 4月22日(土)午後3時00分~5時00分
  • 会場 ; 本多公民館・視聴覚室(B1)
  • 参加者; 48名

 

【講師プロフィール】 柴田利雄先生
略歴; 1947年:東京都町田市生まれ、  1966年:早稲田高等学校卒業、
1970年:慶應義塾大学文学部日本史専攻卒業後、同大大学院進学、特に日本文化史を探求
1972年:慶應義塾高等学校日本史教諭として勤務、以後、同校主事、慶應義塾評議員などを経て、2013年3月同校定年退職
2014年4月より帝京八王子中学高等学校校長に就任、今日に至る
歴史に関する講演も多数、慶應義塾賞受賞、慶應義塾名誉教諭、福沢諭吉協会会員、日英協会会員。
著書;『福澤諭吉のレガシー』(丸善)、『幕末維新のすべてがわかる本』(ナツメ社)、『やさしく語る「古事記」』(ベスト新書)

 

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影 *ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影
*ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵

【講演内容】
福澤諭吉は1862年27歳の時に、幕府の随行員として約1年間訪欧している。
写真①はその時撮影したものだが、何とりりしい品格ある姿だろうか?
20歳代後半でこれだけの気品に満ちているというのは、どういう前半生を過ごしてきたのだろうか?
その福澤諭吉に大きな影響を与えた2人の人物がいる。
一人は恩師である緒方洪庵、もう一人は恩人・木村芥舟。
それぞれどんな出会いがあり、どのような影響を受けたのか、これからお話ししたい。

(1)福澤家とその家族
福澤家の故郷は長野県茅野であり、奥平家に仕えていた。
奥平家は武田信玄の家臣であったが、後、徳川家康の家臣となり、徳川幕府成立後は譜代大名として中津(大分県)に封じられた。
福澤諭吉の父の名は咸(かん、通称・百助)、母は橋本お順。*当時は夫婦別姓
兄弟は2男3女で諭吉は末っ子。
父は大阪で中津(奥平)藩の年貢米を換金する仕事をしていた。
諭吉は大阪で生まれ、1歳半頃に父親が死去、家族は中津に戻る。

(2)蘭学、そして恩師・緒方洪庵との出会い
19歳の時、兄に勧められ、家老家子息・奥平壱岐の話し相手(かばん持ち)として長崎に行き、そこで山本物次郎と出会う。
山本はオランダ語に通じた軍学者で、西洋の戦術を導入した。
眼の不自由な山本を助けつつ、諭吉はオランダ語を学んだ。
また奥平壱岐が買い入れた築城書(蘭人ペル著)を借りて写し取り、オランダ語を覚えていった。   *この築城書で五稜郭(函館、長野龍岡城)が造られた。

その後、福澤諭吉は中津に戻るが、蘭学を学びたいという気持ちが強く、大阪に行き、兄の勧めで有名な緒方洪庵の適塾へ入る。
適塾は当時100名弱の塾生がおり、8級から1級に分けられ、その上に特級があり、塾長1人が置かれていた。
8級から1級は上の級が下の級を教える、半学・半教(半分学び半分教える)という仕組みであり、特級だけが緒方洪庵から直接教えてもらうことができた。
諭吉は短期間(在学は実質約2年)で塾長になった。
緒方洪庵は名医として稼いだお金で蘭学を広め、亡くなるまでに塾生は延べ3000人になった。
諭吉は緒方洪庵の、私財を投げ打って学問を広げることに感銘を受けるとともに、人間はどうやって真理を究明するのか、ということを教わった。

(3)慶應義塾の創立と英語との出会い
1858年(安政5年)福澤諭吉は奥平藩の指示で江戸(奥平屋敷)に行き、蘭学塾を開く(慶應義塾の創立)。
1858年に日米修好通商条約が結ばれ、この時期に福澤諭吉は横浜に行き、英語の時代が来たことを痛感した。
「敢為(かんい)の精神」で新たに英語を学ぶことを決意する。   *敢為=物事を思い切って行うこと
英語を学ぶために、英語通訳として活躍していた森山多吉郎に教えを乞うたが、森山が多忙でなかなか進まなかった。
奥平藩が蘭英辞書を買い取ったことにより、諭吉の英語習得は一気に進んだ。

(4)木村芥舟との出会いとアメリカ渡航
1858年、日米友好通商条約締結。
1860年、条約批准のため、幕府は米船ミシシッピ号で新見正興を全権としてアメリカへ送ることにした。
同時に、副使として木村芥舟を咸臨丸で送ることにした。
福澤諭吉は木村芥舟に乗船することを何度も頼み込み、結局「海軍奉行木村芥舟従僕」として同行することになった。
苦難の末、咸臨丸は無事サンフランシスコに到着。
ミシシッピ号もワシントンDCに到着し、条約は無事批准された。
この航海の経験が福澤諭吉の活躍の出発点となり、終生、木村芥舟を恩人として敬愛した。

(5)恩師・恩人への感謝の気持ち(恩返し)
緒方洪庵は幕末に死去。
福澤諭吉は大阪に行くたびに奥様のヤエに、「お見舞い」と称してお金を持って行った。
初めは遠慮していたヤエも「福澤先生は倹約家で清廉潔癖な方で、きれいなお金だろうから」と頂くことにした。
ヤエが病気の時には、そっと100円(現在の100万円)を布団の下に入れていった。
ヤエの死後、福澤諭吉は大阪に行く度に墓参りに行って、墓を自ら洗った。
「これは自分の仕事だから。」と言って、他の人にはさせなかった。
木村芥舟に対しても、盆暮の挨拶を欠かさず、「お見舞い(お金)」を持って行った。
日が経って、木村芥舟の長男・浩吉が「お見舞い」を遠慮したい旨を伝えると
「私のお父さんに対するささやかな恩返しだ。」と言って、その後も続けた。

(6)講演会で話された福澤諭吉に関するそのほかの話
①明日4月23日は慶應義塾の開校記念日である。
これは創立(1858年)以来、3か所目となる現在の三田の山に移転・開校した1875年(明治5年)旧暦3月23日を西暦4月23日と判断して決定したもの。
福澤諭吉の生誕記念日1月10日、命日は2月3日。

②福澤諭吉の後半生はあまりにも有名で、知らない日本人はいないと言っていいくらいだ。
生涯に115冊の単行本を出版し、時事新報にて2000以上の社説を書いている。
30年前の学者の試算によると、福澤諭吉の明治10年の前後5年、計10年間を平均すると1年間の総収入は10億円であったとのこと。
そのお金で慶應義塾を作り、時事通信社や交詢社なども作った。
また多くの寄付の依頼にも応じていたが記録は残さなかった。

③福澤諭吉は咸臨丸でサンフランシスコに行った時、写真屋で記念写真を撮った。
その後、写真屋の13歳の娘と一緒に写真を撮っている。
この事は福翁自伝に書かれているが、本や話の中で妻の錦(きん)以外の女性が登場するのは極めて珍しい。  *この女性との写真は慶應義塾に寄贈されている。

④福澤諭吉は日記は書いていない。
多くの著作があるが、自分の手柄話はほとんど書いていない。
「憲政の神様」と言われた尾崎幸雄が述懐した。
「福澤先生の晩年、自分は慶應義塾で学んだが、その時はそんな偉い人だとは思わなかった。言論や本を読んで後でわかったことだが、福澤先生は日本人ではまれにみる偽悪者だ(自分を悪ぶっている)。
福澤先生はすべての分野に精通している。これほどの総合的な教養人はいない。」

 

*最後に質問をお受けしました。
菅谷国雄会員の質問; 福澤諭吉のバランス感覚というか、現実主義的な思想はどなたの影響があったのだろうか?

(7)柴田先生はご返答に替えて、以下の話を披露されました。
①福澤諭吉の話
「人間は、10歳までは家の教育、10歳からは寺子屋や学校の教育、
20歳を過ぎたら心を磨かなければならない。」

②母(橋本お順)が諭吉に話した父の話
「父は『門閥は親の仇』とよく言っていた。
父は、大変な儒学者で少ない収入でも多くの本を買っていた。
また良い学者がいると聞くと、遠くても歩いて会いに行きその人に学んだ。
帆足万里(大分県日出(ひじ)の儒学者・理学者)や伊藤仁斎とその息子・東涯(ともに儒学者)にはぞっこんであった。」

福澤諭吉の話
「母が常に亡き父のことを話していたので、父の顔は覚えていないが、父は生きているが如くいつもそばにいた。」 *父は諭吉1歳半の時に死去
諭吉の『自由に才能を生かせる世の中を作りたい』という思いは、父から受け継いだのではないか?

③これこそが福澤家の家訓、「屋漏(おくろう)に恥じず」
屋漏とは屋根裏の雨漏り(見えない雨漏りのこと)。
中国では屋漏の神様がいるといわれており、その神様が見ていても恥じないことをする。
人が見ていてもいなくても、恥じない行いをするということ。

(講演終了)
最後に、星野代表世話人よりお礼の品を差し上げお開きとなりました。

柴田先生は、歴史家としての豊富な知識と講談師顔負けの巧みな話術で、2時間余りにわたって、出席者を魅了されました。
講演会終了時には大きな拍手と歓声が上がりました。

その後、会場を国分寺駅北口・中華料理「プリンセスライラ」に移し、懇親会を行いました。 柴田先生を含む35名が参加し、大いに盛り上がりました。

 

第78回担当 井上徹(世話人)

 

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影
*ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵
写真②③④;講演会

【E】第99回 Oh ! Enkaの会を開催しました。

1.日時:   平成29年4月16日(日)10:00~12:00
2.会場:   いずみホール・Bホール
3.出席者:  会員および同伴者62名、西澤ことは先生(ピアノ)、平井俊邦氏(講演)
4.プログラム:
・ 第1部  カレッジソング(①塾歌 ②三色旗の下に ③慶應讃歌)
・ 第2部  講演  演題:『オーケストラ経営~音楽の力の素晴らしさ』
・      講師  平井俊邦氏(日本フィルハーモニー交響楽団理事長)
・ 第3部  西澤ことは先生によるピアノ独奏
・     (①日本古謡 さくらさくら ②ショパン ノクターン2番)
・ エール交歓 (若き血)

・いつも通り起立しての塾歌斉唱、カレッジソングで例会第1部が始まりました。今回は森川先生のご都合が悪く、西澤ことは先生にピアノ伴奏をお願いしました。
・第2部は今回の特別企画です。公益財団法人日本フィルハーモニー交響楽団理事長平井俊邦氏をお招きして、『オーケストラ経営~音楽の力の素晴らしさ』の演題でご講演いただきました。塩井代表世話役の先輩であることから実現した大変興味深い貴重なお話でした。塩井さんが新入社員の頃、7,8人の同期で銀座を歩いているとき、ばったり出くわした平井先輩に全部おごっていただいて、その太っ腹を未だ鮮明に記憶しているというエピソードも紹介されました。音楽そのものの素晴らしさ、オーケストラの普段は聞けない面白い裏話、オーケストラの経営のむずかしさ、そしてご自身の人生について熱く語っていただきました。
・第3部は西澤ことは先生によるピアノ独奏で、日本古謡「さくらさくら」とショパン ノクターン2番を演奏していただきました。満開の桜の華やかさ、散る桜のはらはらとした律動感が見事に表現され、日本人で良かったなあと感じる素敵な演奏でした。ショパンのノクターンも、やっと暖かくなった春の夜を髣髴とさせる透明感あるピアノでした。
・最後はこれも恒例通り肩を組んで「若き血」のエールです。今日はいつもの平林会員はお休みで、 井上徹会員(S49政)が代わって音頭をとり力強く締めました。

【講演要旨】
1.音楽の持つ不思議な力
・日本フィルは通常の演奏会の他に様々な活動をしているが、東北4県の被災地に音楽を贈ろう、という活動に力を入れている。どうしていいかわからない被災者に目を向けて室内楽を贈ったり、花を植えたりと我々にできる活動を行っている。音楽は言葉が要らないものだからこうした大災害の時に特にその力を発揮する。
・私はかつて広上淳一さんの第九を聴いて涙が止まらなかったことがある。フィンランド大使ご夫妻は「フィンランディア」を聴かれると必ず泣いてしまうそうだ。認知症で他のことには反応しないおばあさんが懐かしい歌に反応したり、全く他人から疎外されているような方が、ガーシュウィンの音楽に反応し、昔のご自身のアメリカ生活について話し始め、それから多くの方々とコミュニケーションを取れるようになったとか、演奏を聴いて思わず車椅子から立ち上がり、数歩歩み寄ってきて拍手をしたというようなことがたくさんある。 このように音楽は何か独特の不思議な力を持っており、日常音楽に接しているとその力が生まれてくるし、大きな支えにもなる。
・東日本大震災に日本フィルはリハーサルの直前に遭遇した。当日夜、翌日2時の公演を実施すべきかどうか、決断を迫られた。最終的には、安全性が確保され、提供できる環境にあればやるべきだと私が決断した。当日77名、翌日758名の方々が会場においでになった。テレビで被災状況を見てやりきれない気持ちを持っていた方々は、音楽を聴いて救われたような感じを持たれたという。これからも被災地をはじめ多くの方々にこの不思議な力を持つ「音楽」をお届けし続けたい。
2.オーケストラは面白い
・私自身は正直音楽に詳しいわけではない。楽団に入ってみるとそういう素人の目から見ても面白いなあと思うことがたくさんある。
・オーケストラは大体90人くらいの所帯。打楽器・弦楽器・金管楽器・木管楽器のセクションがあり、それぞれに首席演奏者がいる。特に第1ヴァイオリンの首席をコンサートマスターといい、彼の役割が非常に大きい。指揮者と90人の芸術家の対峙は戦いの場でもある。コンサートマスターは指揮者の考え方を団員に伝える、また団員の考え方を指揮者に伝えるという重要な役割がある。
・団員を1人補充するにも大変厳しいオーディションがある。時には競争率が100倍を超える。首席奏者も3年に1回投票で評価し、3分の2の賛成が得られないと交代させられる。
・団員の平均年収は400万円。日本を代表するオーケストラの給与がこれで良いのか、一般企業とのあまりの差に愕然とした。バレエや演劇など歩合制でなおひどい状況だそうだ。それではいけない、何とか改善したいと考えているがそう楽なことではない。
・ヴァイオリン等小さい楽器は個人所有、コントラバスとか太鼓のように大きい楽器は楽団所有だが、億近い楽器は決して素人には持ち運びすらさせない。年収400万円ではとても採算が合うとは思えない。
・管楽器奏者と弦楽器奏者は仲が良いとは言えない。弦はしょっちゅう演奏しなければいけないが、管は時々出番があるだけだから。ヴァイオリンをずっと弾き続けているのと、シンバルを1発鳴らすのと同じ給料だからお互いにおかしいのではと思う訳だ。月給制なのだ。
・オーケストラの運営は企業経営の見本ではないかという方がいるが、企業並みにはやれない。オーケストラは個人事業主の集団であると考えると良く機能する。また演奏家は評価されることが大嫌いなので企業並みの体系ではうまくいかない。
・日本フィルは、8年間ボリショイ劇場の芸術監督兼首席指揮者だったアレクサンドル・ラザレフを招聘した。
大震災当日もリハーサルをし、当日夜、翌日午後演奏会をしたが、震災のことに全く触れず、淡々と指揮台に立った。モスクワの奥様から帰ってくるように懇願され、不眠となり腰を痛めたのにもかかわらず、翌週香港での演奏会にも行ってくれた。自分の苦しい状況は一言も口に出さず、演奏会の開催決断や香港行きに対して私を全面的に信頼して従ってくれた。日本人がこんな惨状の中お互いに助け合い、励まし合う姿に感激していた。音楽をすることだけが自分の使命だと考え、すべての演奏を見事にやり遂げた。私も極限状態で音楽に立ち向かう彼の姿に感心し、全幅の信頼を置いている。
・彼が8年前の来日以来日本フィルの音楽を全く変えてしまった。評価も上がり、特にロシアものをやれば日本一と言われる。なぜこれほど変わったかというと、音楽に向かう真摯な姿勢で、リハーサルの取り組み一つにしろ劇的に変えてしまった。彼自身楽譜を丹念に読み、綿密な計画の下団員を厳しく指導した結果である。
・彼は作曲家とその作品を誰よりも知らなくてはいけないという信念を持っている。大変な勉強家で、作曲家の訴えることを追求し、解釈をとらえること、またそれを聴く人にどのように伝えていくかが自分の楽しみであり使命だと考えている。練習は厳しいが、本番になるとすべてを開放して、伸び伸びと演奏させるようにしている。・オーケストラが良くなればお客様も増え、団員の意識も上がる。一人の指揮者によって音楽性が全く変わることを彼が証明した。
・皆さんにも是非リハーサルを聴いていただきたいと思う。リハーサルを聴いて本番を聴くと音楽づくりの過程や違いが分かって非常に面白い。
3.オーケストラの台所は火の車
・日本フィルは1956年に渡邉曉雄を指揮者に文化放送の交響楽団として創立された。1972年にある事件で解散を余儀なくされ、紆余曲折を経てやっと1985年に新しい財団に生まれ変わった。
・バブル崩壊後日本フィルも、2001年から2004年まで赤字を垂れ流していた。その後黒字に転じたものの、2010年度は大震災、リーマンショックの影響もあり赤字に。そのとき、2013年11月末までに公益財団法人に移行できなければ解散という法律が施行され、大ピンチに。それから財務の健全性、経営のガバナンスに大きな努力を。また、多くの方々からのご支援により、2012年度には債務超過から脱却し、2013年度にはやっと公益財団としての認可をされた。債務超過解消には10年を要した。
・日本フィルの事業規模は年間13億円。演奏会チケット収入と演奏会の出前で9億円稼ぎ、国の補助が1億円、企業の寄付が2億円、民間・個人の助成が1億円、これでカツカツ。10~14億円の助成金のあるN響、都響、読響など恵まれた団体もあるが、都市圏のオーケストラはどこも経営が苦しい。海外のオーケストラより内容も良くお安いですから、皆さん是非聴きに来てください。日本での国内外のオーケストラの中で、昨年のランキングでは、ラザレフ指揮日本フィル演奏のショスタコーヴィチ交響曲第15番がトップだった。長い間苦しんできた楽団であるが、皆さんの応援を得て、感謝の心を持った、多くの人の心の襞までわかる数少ない楽団に成長したと思っている。被災地への訪問の他、80名のがん患者さんと第九を歌うイベントも実施した。地味ではあるが、広く長くこうした活動を続けていきたいと思っている。非効率で利益がなくても、暖かい音楽を届け続けていきたいと思っている。
4.人生の第四コーナー(65歳でのオーケストラとの出会い)
・自分自身まさかこの世界に入るとは思ってもみなかったが、まだまだいろいろなところに活動の場はあるものだ。また多くの方の応援も欲しいなあと感じている。
・音楽を志す若い人がたくさん出ているのに、やっとオーケストラに入っても先ほど申し上げた待遇だから、そういう人に少しでも多く場を提供したり、いろいろなお世話をしていくことが大事ではないかと思う。この場の塾員の皆様にも是非ご協力いただきたい。60歳からの楽器教室もやっているので活用願いたい。
・経済中心の日本の社会の中で、これからも芸術家や文化を大事にする社会づくりに専心したいと思っている。

【平井俊邦氏プロフィール】
塾員。S40経(高木ゼミ)。三菱銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)の取締役香港支店長、本店第二営業部長、常勤監査役を歴任。千代田化工建設専務取締役、インテックホールディングス取締役副社長兼共同最高経営責任者を経て、平成19年4月日本フィルハーモニー交響楽団理事、同年7月専務理事、平成26年より現職。

【応】六大学野球慶早戦応援会を開催します

新緑の神宮球場で5月27日(土)に慶早戦が開催されます。学生席で応援歌を歌い、ホームランに酔いしれて応援してみませんか。慶早戦応援会を下記開催します。奮ってご参加下さい。

  1. 日時、集合場所:5月27日(土)午前10時JR中央線国分寺駅上りホーム最後部に集合。
    四谷駅までの乗車券を用意のこと。尚、直接球場三塁側に来所しての参加も可能です。
  2. 持参するもの :昼食、会費500円。なお、今回は「蕎麦っけの会」とコラボしています。
  3. 申 込 み 期 限  :5月20日(学生席購入のため)
  4. 申  込  み  先   :畠山 秀

【蕎】第48回「蕎麦っけの会」を開催しました。

第48回は、2017年4月1日(土)、阿佐ヶ谷の「柿ざわ」で、お花見とセットで22名にて開催しました。

前半戦は、地下鉄南阿佐ヶ谷駅から徒歩10分の「善福寺川公園緑地」で16名が参加しての「お花見」散策。誠に残念ながら、桜はまだ3分咲きの状態。しかし、一同、準備していたコップ酒を片手に握りしめ、柿ピーをポケットに入れながら、グビグビ・ポリポリと善福寺川沿いをそぞろに歩けば、「オハナ~ミ」という外国人学生とおぼしき十数名のグループやワイン瓶数本を転がして早くも酩酊状態の若手サラリーマンのグループ等と遭遇。日本酒で冷えた身体を温めながら、お花見気分を満喫しました。

後半戦は、直行組も合流しての本丸の「柿ざわ」。小笠原さん(昭38法)の乾杯のご発声でスタート。「春キャベツと新生姜のお浸し」・「蕗とカラスミの和えもの(絶品!)」等の八寸を皮切りに、刺身・揚げ物・煮物、どの料理も全て「まいう~」。特に、「鰊の一口蕎麦」は、鰊の甘辛が良い塩梅で「椅子から転げ落ちそうな」美味しさ。そして、何といっても「蕎麦っけの会」の最大のミッションである締めの蕎麦は、「香り、歯ごたえ、出汁の奥深さ」にて一同大感激。なお、宴たけなわの頃合いには、今回が初参加の北澤さん(昭38年経)から「本当に楽しい会です!」との嬉しいお言葉がありました。

また、料理と並行しての飲み物は、前半戦のコップ酒もなんのその、乾杯のビールの後は『宮城・「伯楽星」純米吟醸⇒島根・「開春」純米超辛口⇒和歌山・「黒牛」純米の厳選日本酒を繰り返し』ての鯨飲(若干の脚色あり・・)。

締めは、蕎麦の泰斗・菅谷さん(昭37経)から「最近は「蕎麦っけ」の「け」の方が強い印象だったが、今日の蕎麦には感動した!!」と小泉・元首相のような力強いご挨拶。22名全員が楽しい時間を過ごしました♪

次回第49回は、慶早戦応援会とのコラボで5月27日(土)夕刻に新宿の「大庵」を予定しています。

蕎麦っけの会4.1

【ゴ】第51回国分寺三田会ゴルフ会

国分寺三田会第51回ゴルフ会が、桜のつぼみが日に日に膨らんでいる「昭和の森ゴルフコース」で開催されました。
優勝はベストグロス賞にも輝かれた若手の実力者・別名賞金ハンター高橋さん、準優勝は樋口さん、3位は北村さんがそれぞれ獲得されました。
PLAY終了後は、場所を西国分寺「庄や」に変え、親睦会を兼ねた成績発表会が開催され、吉村さんと鶴谷さんを除く全員が参加され、大変盛り上がり楽しい時間をすごすことが出来ました。

第51回国分寺三田会ゴルフコンペ

・ 開催日   3月28日 (火曜日)
・ 場 所   昭和の森ゴルフコース
・ 時 間   8:36 IN5組
・ 競技方法  新ぺリア方式
・ 参加者   20名

表彰式・忘年会

・ 場 所  西国分寺 「庄や 西国分寺店」
・ 時 間  18:00~
・ 参加者  18 名

開会式後 クラブマスター室を背景に記念撮影
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【Y】第23回The Young Salonの会を報告します

【テーマ:ラテンアメリカから日本を考える】

3月25日(土)、ラテンアメリカ協会の専務理事、工藤章氏をお迎えしての講演会を実施し、31名の多くの皆様に参加頂きました。中南米諸国で構成するラテンアメリカは6億人を超える大きな市場であると共に同地域には200万人を超える日系人ネットワークがあります。
食料資源も鉱物資源も豊かなこの地域は、わが国にとりこれまで少し遠い世界と考えられてきましたが、親日的な地域であり、近年日本企業の進出も目覚ましく、今後共大切な存在として協力関係を発展させていく為、ラテンアメリカ協会がは動を続けているという事です。
講師は商社マンとして同地域に通算22年の長期に亘り駐在されたご経験から、地域の政治・経済・文化・社会状況をいくつかのキーワード(註)を基に様々な角度から解説され、私達は書物等からは中々得られない貴重な生の姿・情報を得る事が出来ました。今後共絶えず激動を続ける世界にあって、共に発展する国際社会のパートナーとして同地域との関係を強化して行く事が大切と考えます。
(註)単一民族、民主主義、女性の活躍、地域統合、食糧、企業のグローバル化、日本の海外依存、日系人、外交、日本の海外援助、世界平和、豊かさとは