【ゴ】国分寺三田会ゴルフ会 2023年春例会

国分寺三田会ゴルフ会2023年春例会が、「昭和の森ゴルフコース」で、3月27日(月)に例会形式で行われました。
今年は例年よりも早く菜種梅雨にはいり、天候が直前まて気になりましたが、幸いにも雨の心配ない1日となり、午前中は北風が冷たく感じられましたが、午後には風も止みやや気温も上がりました。桜満開の中でのプレーを楽しみました。
最終的に19名にエントリーを頂き、アウト3組・イン2組の5組での開催となりました。
優勝は田中正治さん、準優勝は石塚健さん、3位は高杉忠明さんがそれぞれ入賞されました。 BG賞は、樋口稔さんが「87」で獲得しました。表彰式をゴルフ場コンペルームにて開催、ケーキセットで歓談後成績発表・入賞者スピートと続きました。
恒例の懇親会は、コロナ禍での自粛を継続して行いませんでした。

 

国分寺三田会ゴルフ会 2023年春例会

・ 開催日   令和5年3月27日 (月曜日)
・ 場 所   昭和の森ゴルフコース(東京都昭島市)
・ 時 間   9:35 outスタート3組 inスタート 2組 計5組
・ 競技方法  新ぺリア方式
・ 競技者   19名 (全員ホールアウト)

表彰式

・ 場 所  昭和の森ゴルフコース コンペルーム
・ 時 間  16:00~
・ 参加者  19名(競技参加者全員出席)

HP掲載写真

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次回以降ゴルフ会のお知らせ

・ 5月30日(火) 昭和の森ゴルフコース
   out/in 9:42 同時スータト 各3組 全6組
   「さよなら昭和の森ゴルフコース」として特別回を企画しました。
   環境が許せば、懇親会も企画したいと準備しています。
   準備が整いましたらご案内します。

・ 7月7日(金)  青梅ゴルフ倶楽部
   国分寺稲門会・国分寺三田会懇親合同ゴルフ会を企画しています。
     8:28 東→西、中→東 各4組 計8組
   国分寺三田会からの参加枠は16名です。
   準備できましたらご案内いたします。

【歴】第100回 歴史をひもとく会記念例会 開催報告

中世武蔵の国府と国分寺

 3月18日(土)、国分寺市立第四小学校のホールひだまりにおいて、記念すべき第100回例会が開催された。国分寺三田会全体に参加をよびかけたこともあり、冷たい雨が降る中ではあったが、49名という多くの方々が参加された。

IMG_5485(2) 講師は府中の森郷土博物館館長の深澤靖幸氏。先生は國學院大學史学科考古学専攻科をご卒業後、府中市郷土の森博物館の学芸員として、府中市を中心に近隣地域についても遺跡・文化財についての調査研究を深めてこられた。歴史をひもとく会においても、18年前の2005年の第19回例会において、「武蔵府中熊野神社古墳について」と題してご講演いただいている。

 お話の冒頭、まず故村山光一教授との思い出に触れられた。事前に配信した「歴史をひもとく会のあゆみ」にもあるように、村山先生は国分寺市在住で歴史をひもとく会の基礎を築かれた方。会員の気持ちを一気に惹きつけ、中世の武蔵国府と国分寺の話に入る。以下、先生のご講演内容を要約する。

 古代については1970年代から発掘調査が始まり、古代の姿を具体的に復元できるようになったが、中世についてはまだまだ十分とは言えない。中世においても政治拠点である武蔵国府は確かに存在していたし、武蔵国分寺も現在まで法灯を伝えているのだが、なぜか関心が薄く発掘調査も十分とは言えない。
当時の府中市は、六所宮(現在の大國魂神社)・高安寺・定光寺といった寺社中心のまとまりと複数の中世遺跡からなる複合体だった。六所宮は武蔵国の主要6神を合祀する総社で11世紀の創立と考えられる。武蔵武士の精神的支柱であり、北条政子の安産祈願など源氏の篤い崇敬も受けていた。度々の造営を物語る瓦も出土している。
高安寺は足利尊氏再興の伝承があり、14世紀後半から15世紀中頃には鎌倉公方の御所ともなり、公方出陣の際にはまず高安寺に来てそこで兵を集めた。15世紀前葉の瓦は鎌倉建長寺と同じ模様であり強いつながりがあったと推測される。
道路は六所宮周辺で結節しており、古代は国府中心にまちが広がっていたが、中世には六所宮という宗教施設を中心に密集して形成されたことが発掘調査から確認できる。江戸時代に開かれた甲州街道は東西路線だが、中世の鎌倉街道上道は古代の東山道武蔵路に近い南北路線であった。政治的・軍事的に重要路線と認識されており、まちの形成にも大きな影響を与えた。

 奈良時代に建立された武蔵国分寺は、発掘調査の結果、10世紀~11世紀には衰退期にあったと確認されている。国分尼寺跡北方の切通しに残る鎌倉街道が尼寺上を通っていることからは、尼寺が鎌倉時代には消滅していたとも推定される。
中世の国分寺を語る資料「医王山縁起」等によれば、永承庚寅年(1050)に源頼義が来訪し奥州合戦の加護を祈り、治承4年(1180)には文覚上人が頼朝の開運を祈願したとある。元弘3年(1333)には分倍河原の合戦により七堂伽藍は焼失したが、後に新田義貞が唯一焼け残った「薬師如来坐像」のために黄金を寄進し薬師堂が建立されたとも記されている。
この薬師如来の造像は平安時代末(12世紀)であり、この頃も国分寺の活動が継続していたことは確実である。国分寺の創建期の本尊は釈迦如来であったが、国分寺造営途上の天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒を目的に諸国に薬師像の造立が命じられた。武蔵国分寺をはじめ現存の諸国国分寺が薬師如来を本尊とする例が多いのはこのためであろうか。
また、深大寺住僧・長弁執筆の「私案抄」には、応永7年(1400)に武蔵国分寺薬師如来の脇侍である日光・月光菩薩像の勧進状が記されている。これに先立ち十二神将像を修造したらしいが、現在の十二神将像は元禄2年(1689)の作である。

 中世の考古情報は古代に比べ僅少で、特に11~12世紀の遺跡の少なさは東国で普遍的でありそれ以降も少ない。その原因は古代の土器・陶磁器に比べ中世は木器や漆器が使用されるようになったために発掘されにくいこと。10世紀ごろから大きな穴を残す竪穴建物が消滅し、掘立柱建物に移行したために小さな柱穴跡を見つけにくくなったことが考えられる。
国分寺市の中世遺構で発掘がある程度進んでいるのは、鎌倉街道添いの恋ヶ窪廃寺・伝祥応寺周辺である。恋ヶ窪廃寺跡からは、平安後期の礎石建物跡、13世紀末頃の掘立柱建物跡、14世紀後半から15世紀末にかけての土坑墓・火葬墓跡が発見されている。伝祥応寺跡は国分尼寺跡北方の台地上にあり、切通しの西に土塁と礎石建物・土坑墓跡が発掘されており、西には小高い塚が残されている。この2寺跡の存在は国分寺を中心に宗教活動が続けられていたことを示している。
この時期の文化財として府中市善明寺の鉄仏(国の重要文化財)がある。像高170.3㎝、380㎏という現存する最大の鉄仏である。左襟と左袖に銘があり、藤原姓の3名の女性が亡き父母の供養等を願って建長5年(1253)に建立、作者は黒鉄谷(くろがねやつ)の藤原助近とある。この像は江戸後期には六所宮にあったが明治の神仏分離により善明寺に移されたものであり、それ以前は現在の国分寺の地にあったと伝えられている。
一説には、国分寺の恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女との伝説に絡み、遊女の死を悼んだ畠山重忠が造立したと伝えられるが、畠山重忠の没年は1205年であり年代が合わない。有力なのは黒鉄谷・伝祥応寺旧在説である。重い鉄仏を遠方から運ぶことも考えにくく、伝祥応寺跡・尼寺跡近辺には今も「黒鐘」の地名が残っていることから、善明寺の鉄仏はそこに存在していたものである蓋然性が高い。

 以上のように、中世については発掘調査により少しずつ判明してきているが、国分寺については遺跡中心部での考古情報が少なく、13~14世紀が空白期となっている。今後は鉄仏の鋳造遺構が発掘される可能性もあり、現在の国分寺周辺をはじめ崖線下の発掘に期待したい。

 以上で先生のお話は終了したが、ご講演は我々の学習の空白部分を補っていただくに余りある内容であり、今も先生の張りのあるお声が耳に残る第100回記念にふさわしい素晴らしいご講演であった。               (文責 星野信夫)

 

【蕎】分科会だより    第61回 蕎麦っけの会

2023年3月31日(金)谷保「きょうや」で第61回「蕎麦っけの会」が開催されました。
好天に恵まれ、国立駅前通りの桜吹雪を楽しみながら26名の会員がお店に参集しました。
小笠原元代表世話役(S38)から3月19日に急逝された米屋精一さん(S39)、昨年鬼籍に入られた金城弘明さん(S35)同じく今年1月に鬼籍に入られた前原憲一さん(S45)への献杯と生前のご貢献とご活躍のお話が披露され開宴となりました。
前菜に始まり、旬の筍のお吸い物、鰹のたたき、天ぷら等を肴に、故菅谷さんがお好きだった「佐久の花」、小林隆夫さん(S39)お奨めの「吉乃川」を、最年長の丸山茂さん(S30)を始めとする酒豪揃いの会員が7升強を飲み干しました。
今回新たに入会された大石敏雄さん(S40)、石川誠さん(S43)、小島眞さん(S45)、貫名泰男さん(S46)、分部庸子さん(S58)も瞬く間に座に打ち解け楽しい交流に時を忘れました。最後は自慢のおそばで締め、春の宵を大いに楽しみ、お開きとなりました。
(第4代世話役 山田 健(S47経))

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【Y】第43回ザ・ヤングサロン「知と飲を満たしたサントリー府中工場見学」

 2023年3月26日(日)、33名が参加し、サントリー府中工場の工場見学を実施しました。7年ぶりの工場見学
になりました。概要は以下の通りです。
                      記
第43回ザ・ヤングサロン
            テーマ:サントリー府中ビール工場見学
1.サントリー府中工場の天然水ビール -つくりのこだわり-
 ・豊かな自然でろ過された天然水仕込み
 ・良質の麦芽、ホップの素材選び
 ・ダブルデコクション製法による仕込みと、アロマリッチホッピング製法によるホップの投入
2.技術と味を楽しんだ工場見学
   工場見学の人数制限もあり、18名と15名との2組に分かれて工場を訪問しました。
  当日は、あいにくの雨でしたが、分倍河原駅からの送迎バスに乗り、快適に移動ができました。
   工場見学では、案内係から工場の成り立ちと立地へのこだわりの説明を受けました。その後、
  初めに麦芽・ホップの素材をみて、それから仕込、発酵、貯酒、ろ過の工程の解説と製造現場を見学。
  無菌室内の自動パッケージングで完成という一連の製造工程を学びました。
   見学後には、出来上がった生ビールの試飲、3つの生ビールの飲み比べ、さらに試飲のおかわり。
  70分間の工場見学の終了時には、ほろ酔い気分。皆さん多くのお土産を買い、帰途につきました。

今回の工場見学は、参加者の皆さんからとても好評をいただきました。今後も、機会があれば、
ザ・ヤングサロンの中に、工場見学、企業訪問を取り入れていきたいと考えています。
(文責:小林(一) 写真:青木、小林(一))

 

【C】第29回La Madre Cooking 開催報告

「骨正月の郷土料理を堪能」

今回のうたい文句は「温まる昔ながらの味をどうぞ!」。季節は‘雨水’の2月20日、三寒四温の天候に身体が面食らっている今の時節にピッタリの郷土料理でした。

献立は三品。具が沢山で栄養豊富な「鮭の粕汁」は汁物というより主菜。上品な‘あご出汁’に溶けた酒粕が塩鮭や野菜などのうま味と絡み合い、やさしくまろやかな味わい、何とも言えません。「つくねの照り焼き」は、玉ねぎと生姜のしぼり汁が鶏のうま味を引き立て、ご飯との相性が抜群でした。柚子のしぼり汁の風味が漂う「柚子大根の甘酢漬け」は爽やかな名脇役でした。
毎回のことながら、先生にあれこれ聞きながら調理に苦戦する時間は心のオアシスです。
また、先生から「昔は1月20日に粕汁を食べる習慣がありました」といった粕汁の発祥をお聞きし、粕汁への興味が一層かきたてられました。
以下に‘月20日と粕汁の深い結びつき’について簡潔に触れます。

1月20日は正月の終わりとなる節目の日といわれ、「二十日正月」とか「祝い納め」と呼ばれています。正月にお迎えした‘歳神様’が帰られる日と言い伝えられていますが、1月20日が「祝い納め」となった理由についての定説はないようです。
大晦日に用意した鰤や鮭などの「歳取り魚」を正月に少しずつ食べ、1月20日に骨になるまで食べ尽くすので、1月20日は「骨正月」とも呼ばれています。「歳取り魚」を最後まで食べきる工夫から生まれた料理が‘粕汁’や‘ぶり大根’、「始末の料理」とも呼ばれています。「骨正月」は‘SDGs’の‘食品ロスの削減’を真っ先に実践した日本が誇れる風習だと思います。
ところで、粕汁は地域によって多様です。京都の粕汁の具材は豚肉。有名店の粕汁は西京味噌がたっぷり加わり、深みのある味わいだそうです。大阪の粕汁は‘かやくご飯’がつきもので、池波正太郎は随筆「むかしの味」の中で好物だと高く評価しています。

鬼が笑うかもしれませんが、来年の大寒である1月20日は、京都で「粕汁」と「ぶり大根」で身体をポカポカにし、翌21日は東寺の「初弘法」で露店を廻り、身体がヒエヒエになったところでアツアツの「粕汁」をアテにして一杯。今からワクワクしています。
発酵食品‘酒粕’には肝臓を保護する働きや生活習慣病の予防効果があります。酒粕がタップリ溶け込んだ粕汁と末永く付き合っていければと思います。

「歳取り魚」…新年に‘歳神様’を迎えるためのご馳走‘歳取り膳’に供される魚。縁起物として、東日本では塩鮭、西日本では塩鰤が定番。

以下に当日調理した‘粕汁’と参加者の笑顔を掲載します。       (文責、写真:沼野義樹)

                                          以上

【歩】「歩こう会」再開第1回を終えて

                                          昭和50年 広田 茂
「歩こう会」再開第1回を終えて
 当会は2019年7月「横須賀軍港巡り」を最後に約3年半の実質休会を余儀なくされていましたが、この度世話役の再構築を図り、満を持しての再開にこぎ付けました。当初は新春「柴又七福神巡り」の実現を公表していましたが、事前下見の結果、急遽「寅さんとその故郷柴又帝釈天を訪ねて」と銘打ち、寒い時期ではありますが会員総数19名の参加を得て実施致しました。
 当日朝の集合場所である国分寺駅ホームでは、冷たい北風が吹き荒れ余りの寒さに耐えきれず、皆様ホームの待合室に避難していました。多摩地域の会員にとり馴染みの薄い北総線で江戸川を渡り、松戸市「矢切駅」に降り立ちスタート。先ずは伊藤左千夫の「野菊の墓文学碑」を見学。次に「矢切の渡し場」へ向かおうと、船頭さんへ事前確認電話をしたところ「本日は強風の為欠航」と言われ全員ガッカリ。気を取り直し、1駅戻り葛飾区「新柴又駅」から柴又へ向かいました。定番コース「寅さん記念館・山田洋次ミュージアム」は多くの会員にとり郷愁が蘇った事と思います。また「帝釈天」は素晴らしい欄間と立派で大きな庭園に感動しました。その後「川千家」にて美味しい鰻重をビール・熱燗と共に頂きますと、懇談は頂点へ! これにて解散後、各自参道お土産店へ。4時前には国分寺駅に帰着、満足顔で帰宅されました。会員の計測に拠れば当日の歩数は約11,700歩でした。
 これからも魅力ある企画を提案したいと思います。

【C】第28回La Madre Cooking 開催報告

「ローストビーフでクリスマスパーティ-!」

   12月19日(月)午前より‘ひかりプラザ生活実習室’にて14名(先生入れて15名)が参加して開催しました。
実習に先立ち、伊藤先生の今年1年間の熱血指導に対して、メンバーを代表して丸山さんから伊藤先生に
感謝の意を表した品を贈呈しました。
調理した料理はクリスマスらしく、①ローストビーフ、②オニオンスープ、③カラフルサラダ、④明太クリ
ームチーズ、⑤柴キャベツの酢漬け、⑥マッシュルームとえびのピンチョス、⑦ホワイトチョコレートと
ラズベリーのパフェの合計7品、バケットを添えてた調理後の食事は大層豪華でした。
<ローストビーフについて>
ローストビーフはイギリスの伝統料理で、一般的には牛肉の塊をオーブンでじっくりと焼きます。
その起源は古く、古代ローマ軍がイギリスに駐留していたときに、牛肉の塊を焚き火で焼いて食べたこと
が始まりと言われています。
かつてイギリス貴族の間では「サンデーロースト」という、日曜日に牛を1頭さばいてローストビーフを
作る習慣があったそうです。しかし、牛1頭分のローストビーフを1日で食べきることはできないので、平
日も同じものを食べ続けることになります。このような食生活を長年続けた結果、ローストビーフはイギ
リスの食文化に深く根付きましたが、それが原因でほかの料理が発展しなかったのではないか、とも言わ
れています。
イギリスの家庭では、ローストビーフを作るときにはポテトを一緒に添えて焼き、天板に残った焼き汁
をヨークシャー・プディングに使い、そして、各人の皿にローストビーフ、ヨークシャー・プディング、ホ
ースラディッシュソース、ポテトを盛り付けて食べるのが一般的だそうです。
<料理実習での調理>
今回は、オーブンを使った伝統的な調理法でなく、フライパンで肉の表面全体に焼き色をつけてからジ
プロックに入れ、70℃の湯を入れた炊飯器の中で40分保温(保温機能を利用)してじっくりと火を通す調
理法(低温調理)を実習しました。
<食材の購入>
小林一夫さん、高橋さん、小林和憲さん、岩下さん、先生、沼野が担当しました。
食材によっては最寄りのスーパーで取扱っていないものもあり、苦労したようです。
<後片付けチェック>
久保田さんと平林さんが、ひかりプラザの職員と一緒に入念にチェックしました。
<写真>
1段目…①感謝品贈呈、②実習前の説明
2段目…①実習指導A、②実習指導B
3段目…①ローストビーフ、②完成です!!
4段目…①チームA(小沼、小林(一)、丸山、宮西)、②チームB(岩下、川口、久保田、平林)
5段目…①チームC(小林(和)、野口、広田)、②チームD(内野、高橋、沼野)

【歴】第99回 歴史をひもとく会 開催報告

古代武蔵国のなりたち

 12月17日(土)午後2時より、国分寺市立もとまち公民館の視聴覚室にて、歴史をひもとく会第99回例会が開催された。お迎えした講師は、慶應義塾大学文学部准教授の十川陽一先生である。
演題は先生の専門である古代史の中から、我々にも馴染みの深い「古代武蔵国のなりたち」という興味深いもので、46名が出席する盛会となった。6ページにもわたる豊富なレジュメとパワーポイントのスライドを駆使しての濃密な内容で、明るく情熱的な語りで参加者を引き込んでいった。

<講師紹介>十川陽一氏紹介写真

十川 陽一氏  慶應義塾大学文学部 准教授
1980年生まれ
2003年(平成15年) 慶應義塾大学文学部史学系日本史学専攻卒業
2010年 博士(史学)
2019年~ 慶應義塾大学文学部准教授

<講演内容>

 古代武蔵国は、現在の東京都・埼玉県・横浜市(南西部を除く)にわたる広大な領域を持つ国であり、『延喜式』によれば、多磨・都築・久良・橘樹・荏原・豊島・足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・賀美・児玉・那珂・秩父の21郡を所管する東海道の大国となっている。
この地域が最初に歴史に登場するのは埼玉古墳群の稲荷山古墳鉄剣銘で、この地域の豪族が「杖刀人首」として大王宮に奉仕したことがしるされている。
また、『先代旧事本紀』所引の国造本紀には无邪志、胸刺、知々夫の三国造が記されており、前2者の読みは「むさし」だと考えられ、国造に就任しうる氏族が2氏あり、1氏に絞ることができなかった可能性がある。
そして、『日本書紀』に武蔵の国造使主(おみ)と同族の小杵(おき)が国造の地位をめぐって争い、朝廷は使主を国造として小杵を誅したこと、乱の終息後、朝廷の直轄地であるミヤケを設置したことがしるされている。朝廷はこのように地方の内乱に介入することで、その影響力を強めていったと考えられる。
使主は北武蔵の豪族と考えられる一方、小杵は諸説あるが南武蔵の豪族とする説もある。当時、武蔵は東山道に属しており、主要な交通路は北武蔵から関東の中心であった上野(こうずけ)へと通じていたと考えられる。使主の勝利は朝廷の介入によるものだったが、朝廷も北武蔵を重視していたのかもしれない。
この状況は8世紀頃から変化してくる。それまでは東山道から北武蔵を経て南武蔵や相模へ行き、再び同じ道を北武蔵へと引き返してから上野へ向かうものだったが、東海道から相模、南武蔵、武蔵国府を経て東山道と合流するルートが成立してくるのである。南のルート上には国府はないもののいくつかの郡家が点在しており、人や物資の行き来があったのが、東海道と東山道を結びつける、駅路として認知されるようになっていったと考えられる。

『続日本紀』宝亀2年(771)10月己卯条 _

太政官奏すらく、武蔵国、山道に属すといえども、兼ねて海道を承け、公使繁多にして、祗供堪へ難し。其れ東山駅路、上野国新田駅より、下野国足利駅に達る。此れ便道なり。而るに枉まがりて上野国邑おは楽らぎ郡より五箇駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日に、また同じき道を取りて、下野国に向ふ。今東海道は、相模国夷い参さま駅より下総国に達るまで、其の間四駅にして往還便はち近し。而して此を去りて彼に就くこと、損害極めて多し。臣等商量するに、東山道を改めて、東海道に属さば、公私所を得て、人馬息ふこと有らむ。奏するに可とす。

 そこで、話題としたいのがKeio Museum Commonsの建設に伴って調査された三田二丁目町屋遺跡である。この遺跡からは古代の掘立柱建物と溝状遺構が検出され、円面硯など多くの遺物が出土した。溝状遺構は古代の官衙や豪族の居館の存在を示し、硯など出土も考えるとなんらかの官衙である可能性が考えられるのである。武蔵国分寺においても「三田」銘瓦も出土しており、三田が重要な地であった可能性がある。
ただ、南武蔵では荏原に有力郡家があったと考えられている。影向寺出土瓦から 7 世紀後半には荏原評の存在が確認できることに加え、隣接する橘樹郡の影向寺造営に関与するなど、大宝令以前の南武蔵における橘樹郡を核とした地域の繋がりも窺える。また、万葉集にも以下の歌がおさめられている。

『万葉集』巻 20(防人歌)

(4415)白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
右一首、主帳荏原郡物部歳徳

(4416)草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我は紐解かず寝む
右一首、妻椋椅部刀自売

(4418)我が門の片山椿まこと汝我が手触れなな地に落ちもかも
右一首、荏原郡上丁物部広足

上の歌には物部の名が見られるが、荏原郡内には当時の有力氏族である物部氏の分布が確認されており、主帳など郡司層との関連も指摘されている。
従って、三田二丁目町屋遺跡は郡家ではないものの駅等の官衙施設として新しい東海道からの南ルートの一翼を担っていたのかもしれない。

講師紹介

講師紹介

講演する 十川氏

講演する 十川氏

 

 

 

 

 

聴講者は満席でした

聴講者は満席でした

講演する 十川氏

講演する 十川氏

【蕎】分科会だより 第60回蕎麦っけの会

2022年12月23日と12月16日に第60回「蕎麦っけの会」を谷保「きょうや」で開催しました。2019年12月21日に第3代代表世話役野田敏明さんによる忘年会から実に3年ぶりの開催となりました。野田さんは翌年の花見を計画されていましたがコロナで中止となり、その後病に倒れついに昨年早世されました
コロナに開催を阻まれた長いトンネルを、“えい、withコロナじゃ”とばかりに思い切って抜け出しました。
また、本会の創設者であり、初代代表世話役の菅谷國雄さんが11月に急逝され、図らずも忘年会兼偲ぶ会にもなってしまいました。
コロナ禍の中、蜜を防ぎつつも菅谷さんのご遺志を尊び参加希望者全員と開催できないかいろいろ模索した結果、2日に分けての開催となりました。
12月23日はまさに菅谷さんご自身が10月初旬お決めになった日程でした。
23日は第2代代表世話役小笠原さん、16日は星野さんの献杯で開宴となり、菅谷さんが愛したお酒「佐久の花」を味わいつついつも通りの懇親に突入、おいしいお蕎麦とお酒を堪能しました。
さらに特に関係の深かった方々から思い出やエピソードをご披露いただき、菅谷さんを偲びました。学生時代からのワンダーフォーゲル部でのご活躍や我々後輩への温かい気配りなど懐かしく聴かせていただきました。
16日(9人)と23日(21人)合わせて30人が参加し、しめやかに楽しく3年ぶりの蕎麦と酒を堪能しました。来年の皆さんのご健康とご活躍を約して散会となりました。
(第4代世話役 山田 健(S47経))

【Y】第42回ザ・ヤングサロン「激動の世界におけるJICAの事業展開」を開催

 2022年11月27日(日)、並木公民館にて32名参加の下、第42回The Young Salonを開催、当国分寺三田会会員でもある小島眞さんの紹介で、講師としてJICA企画部長の原昌平氏をお迎えし、首題をテーマにお話し頂きました。原氏は、1989年に慶應義塾大学経済学部を卒業後、(旧)海外経済協力基金に入社され、大蔵省出向などを経て、1999年から国際協力銀行で中央アジア・コーカサスを担当、2008年から国際協力機構(JICA)でイラク事務所長、南アジア部長、民間連携事業部長、本年10月から企画部長を歴任されている方す。
 一方で、新型コロナ感染症の第8波が始まりつつある状況のなか、感染症対策には万全を期した上で講演会を開催、懇親会の実施は見送りました。講演の概要は以下の通りです。
                      
                        記
第42回ヤングサロン講演会
                                            2022年11月27日
                激動の世界におけるJICAの事業展開
                                 国際協力機構(JICA) 企画部長 原 昌平

1.JICAの略歴
 1950年代に技術協力が立ち上がり1974年に国際協力事業団(JICA)発足。 2008年にJICAと国際協力銀行(JBIC)のODA部門が統合され独立行政法人国際協力機構(新JICA)が発足し、政府開発援助における技術協力、有償・無償の資金協力を行っている。 旧JICA発足時に海外移住事業団がJICAに統合されたが、その後時代の趨勢を反映し海外移住事業は縮小されている。
現在常勤の職員は約2000名弱、期限付きのスタッフや海外の現地スタッフを合わせると、全世界でさらに多い人員が開発協力に携わっている。
2.JICAを取り巻く環境
 最新の開発協力大綱は2015年に定められたが、現在見直し中。 2015年に採択されたSDGsの実現に向けてJICAも役割を果たして行く。 今国家安全保障戦略の議論がされており、自由で開かれたインド太平洋構想にODAがいかに貢献していくのかが課題となっている。 また、国内での地方活性化等の政権が掲げている課題への対応も行っている。
 それらの環境の中でJICAの組織ミッションとして「人間の安全保障の実現と質の高い成長の実現」を、またビジョンとして「信頼で世界をつなぐ」を掲げている。 中期計画として ①自由で開かれたインド太平洋の実現に向けて国際社会で日本のリーダーシップを発揮するための貢献 ②国の発展を担う親日派・知日派リーダーの育成 ③気候変動への取り組み ④国内での地方活性化への貢献 を4つの重点領域とし、信頼関係の構築などの4つのアプローチの重視を挙げている。
3.JICAの業務
 法律上では開発途上地域の経済及び社会の開発若しくは復興又は経済の安定に寄与することを通じて、国際協力の促進並びに我が国及び国際経済社会の健全な発展に資することを目的とすると規定されている。 即ち、相手の国の為になることを行なう業務を通じて、国際的に皆で協力しようという気運を作り、日本及び国際経済社会の健全な発展の為に貢献するということ。
 具体的には研修員受入・専門家派遣・機材供与等の技術協力、円借款及び海外投融資の有償資金協力、無償資金協力、海外協力隊によるボランティア、海外移住支援、緊急援助隊による災害援助協力、人材養成等幅広い業務を行っており、その一環として中小企業・SDGsビジネス支援を通じた地方創生にも取り組んでいる。
一般会計におけるODA予算は2011年以降1997年の約半額に減っているが、ODAを使って日本を信頼してくれる仲間を増やすことは非常に重要だと思っている。
4.JICAの組織
 本部機能として地域毎の担当部署と分野毎の担当部署がある。 海外向けの仕事が中心だが国内にも14か所の拠点があり、語学を中心とした協力隊員の訓練、日本に来た研修員の受入れ、研究機関・大学・企業等とのコーディネイション、協力隊員の募集、中小企業との連携等を行う。
 海外では先進国を除くほぼ全世界に拠点を持つが、海外におけるノウハウは長期間その地に勤務するナショナルスタッフに溜まっており、これをいかに生かしていくかが大きな課題。
5.最近のハイライト
 現在コロナが大きな課題で、コロナ対策の支出や南アジアを中心に海外からの出稼ぎの送金の減少等で財政上困っている国々に約3,800億円の円借款による財政支援を行う一方で、病院建設等を通じて治療体制強化、予防体制強化、研究・警戒態勢強化への貢献を進めている。
 次に気候変動対策では、緩和策としてインドでのデリー地下鉄建設やケニアでの地熱発電所改修の支援を、適応策としてフィリピンでの河川改修の支援を、また緩和策・適応策横断型としてインドでの森林開発への支援等を実施。 2050年のカーボンニュートラルが国際公約だが、エネルギー消費の伸びを見込んでいる貧しい国々に一律でそれを求めるのかが難しい課題で、バランスを考えながらより環境への負荷が低いエネルギー源に移行していく為の支援を考えていかなければならない。
 他にも民間部門と公共部門が共同で行う事業への支援や開発途上国の起業家への支援も行っており、その例としてケニアにおけるバイオリサイクル事業への出資やベトナムでの風力発電事業への支援等がある。 また外国人材受入に関して「世界の労働者から信頼され選ばれる・日本」となることを目指した活動など、国内の地方を中心とした国際化を進める取り組みを行っている。
 デジタル化に関しては、いろいろな方々と連携して取り組む必要を痛感している。
 国際紛争への対応として今一番ホットなのはウクライナで、今までに780億円の財政支援を行い、更に日本の災害経験の共有を進めている。 また、JICAの支援で地雷除去の経験を積んだカンボジアの人たちから地雷除去のノウハウを共有してもらうための支援を行っている。
                                     (文責:小林(一) 作成:板橋)