【歴】第108回 歴史をひもとく会 開催報告

三多摩の歴史~明治時代を中心に

 

明治維新後の新政府は、近代国家の建設を目指し、国家体制の変革を成し遂げていきます。その過程においては、様々な政変を経つつ専断的な政策・統治を押し進めます。激動の明治中期、地方を統治する仕組みが変革されていく中で、我々の住む多摩地方の様相は当時どのようなものであったのか。
今回、この問いへの答えを求めて、令和6年8月31日(土)に気鋭の史料編纂担当者である東京都公文書館専門員の宮崎翔一氏に講演をいただきました。

<< 講師プロフィール >>2024-03-03 331.JPG歴史例会講師1(2)

宮﨑 翔一氏  東京都公文書館専門員(史料編さん担当)
1983年5月生 神奈川県横浜市出身
専修大学文学部人文学科歴史学専攻卒業
同大学院文学研究科歴史学専攻修士課程卒業  同博士後期課程満期退学
八王子市役所市史編さん室 嘱託専門員(近現代部会担当)
法政大学大原社会問題研究所環境アーカイブズ RA
東京都公文書館 史料編さん担当 公文書館専門員(現在)

 

<< 講演内容 >>

冒頭、講師は配布資料に書かれた三つのテーマ(①廃藩置県後の地方自治体制の変遷、②三多摩における自由民権運動、③三多摩地域の東京府への移管問題に絡む政治活動)を基に、地政学的な解釈から説き起こし、当時、神奈川県に組込まれていた多摩地域を西北南の三郡に分けた仕組みや、郡区町村制が編成されていった経緯を説明していきます。
2024-03-03 335.JPG講演会次に三多摩における自由民権運動や政党活動の変遷を精緻な資料を基に解説し、明治14年の政変以降、国会開設運動の高まり等が三多摩地域をも巻き込んでいく様相を明快に解き明かしています。自由党や立憲改進党の動向や「壮士」といわれる過激な活動家を巻き込み、三多摩における政界の動向や衆議院選挙をめぐる紆余曲折などを詳細に説明。多摩地区は自由党系の強い地域に在りながら改進党の影響下にあるグループも混在するなど複雑な政治状況を呈しています。
更に三多摩の東京府への行政移管問題については、玉川上水の水源確保・水道管理強化の要請や、甲武鉄道の開通が交通事情の劇的な変化をもたらし、行政区画上でのミスマッチを起こし、境域変更に繋がっていく様を手に取るように解説しています。
何といっても秀逸なのは、講師から配布された資料が当時の古文書と、併記された精緻な説明文、解り易い描写がなされており、現存する資料に根付いた論述は信頼性が高いことです。特に近在の馴染みのある地域の古文書が豊富に掲載され、これに纏わる興味深い話が次々と紹介されて、聴衆も大いに引き込まれ、あっという間に講演時間満了となりました。

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迷走する超大型台風10号による天候不順にも拘わらず、会場(東京都公文書館研修室)に詰めかけた51名の参加者は、恰も、学生時代の教室に戻った様な雰囲気で咳払い一つ聞こえず、講師の話を聞き漏らすまいと、全員が真剣に配布資料を食い入るように眺め、古文書の文字を目で追いながら、時々頷いている姿が多く見られたのがとても印象的でした。
その脳裏には、わが町の当時の時代の様相が垣間見えていたのではないでしょうか、興味の尽きないところです。

以 上
(文責:小林千晃)

世話人代表挨拶

世話人代表挨拶

講演会 司会

講演会 司会

講演会 会場

講演会 会場

【歴】第107回 歴史をひもとく会 歴史散歩 開催報告

三島への歴史散歩  

山中城、スカイウォーク、三嶋大社、柿田川へ!

雨に煙る山中城跡障子堀

雨に煙る山中城跡障子堀

5月28日(火)、歴史をひもとく会第107回例会「三島地区歴史散策(バスハイク)」を実施しました。生憎の雨模様、しかも昼過ぎからはかなりひどくなるという予報でしたが、途中傘を畳んでいる時間もかなりあり、覚悟していたほどの荒天ではありませんでした。
総勢34名、7時半に国分寺駅南口を出発、一路西へ、予定より早く三島の山中城跡に到着、山中城跡を1時間散策して日本最長の歩行者専用吊り橋三島スカイウォークを遊覧する組とスカイウォークには行かず、山中城跡を2時間じっくり巡る組に別れ、昼食の伊豆フルーツパークで合流しました。

雨の中を歩く

雨の中を歩く

霧も出てきました

霧も出てきました

 

 

 

 

 

 

山中城は、戦国末期の永禄年間に北条氏により小田原城の西の防御のため築城された山城で、山田川と来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた標高580メートルの自然の要害の地に造られており、城の範囲は、東西500メートル、南北1,000メートルに及んでいます。城の特徴としては、平坦面の造成にこだわらない尾根を区切る「すりばち曲輪」、上から見ると障子や田畑の畝に見えることからそう呼ばれている「障子堀」「畝堀」などで、これらは北条氏の城独特の形であり、関東ローム層の滑りやすい土壌を見事に活かした造りとなっています。前日来の雨の影響で山中城跡には水たまりも多く出来ており、かなり足場の悪い所もありましたが、両組とも全員無事踏破しました。

一瞬見えた駿河湾

一瞬見えた駿河湾

さらに視界が広がりました

さらに視界が広がりました

また、雨のスカイウォークでは、残念ながら景色はほぼ何も見えませんでしたが、それでも一瞬雲が切れ、駿河湾を望むことが出来ました。

 

 

 

三嶋大社

三嶋大社

フルーツパークで昼食

フルーツパークで昼食

午後は源頼朝が崇敬し、源氏再興を祈願したという東海随一の神格の神社三嶋大社に参拝し、最後に静寂の中、東洋一の湧出量を誇る、国指定天然記念物の柿田川湧水群のきれいな湧き水を見学、17時半に無事国分寺に戻りました。

 

 

 

マリンブルーの柿田川湧水

マリンブルーの柿田川湧水

湧水から流れ出た柿田川

湧水から流れ出た柿田川

悪天候が幸いしたかもしれませんが、訪問先の混雑も、道中の渋滞もなく、土産を買う時間も含めてすべて予定通りの楽しいバスハイクになりました。会員のみなさんのご協力の賜物と感謝いたします。

 

 

 

 

三嶋大社にて

三嶋大社にて

【歴】第106回 歴史をひもとく会 開催報告

古代武蔵国の豪族たちと律令国家

第106回例会は3月17日(日)午後2時より多摩図書館セミナールームで、慶應義塾大学文学部准教授の十川陽一先生を講師に招き開催された。今回は一昨年第99回で講演頂いた「古代武蔵国のなりたち」の続編である。会員52名が出席する盛会となった。引き続き懇親会も先生を囲んで29人が参加して楽しく終始した。

 

講演会、 20240317- 046(3)

<< 講師プロフィール >>

十川 陽一氏  慶應義塾大学文学部 准教授
1980年生まれ
2003年(平成15年) 慶應義塾大学文学部史学系日本史学専攻卒業
2010年 博士(史学)
2019年~ 慶應義塾大学文学部准教授

<< 講演内容 >>

律令国家の地方支配は、国司と郡司によって遂行され、地方豪族を巻き込みながら地方末端まで行政機構と官人制を展開した。

第一部は「国司と郡司」。郡司たちの任命は、家柄要因が強く、適任者が無ければ能力に依り、その候補者の能力差が無ければ国造からの登用が行われた。また、地方豪族たちはなぜ律令制を受容するのかという豪族の思惑が実例を挙げて語られた。その他、位階が上がるとどのような特典が得られるか、豪族たちによる郡司になるための自己推薦や私穀献上等の中央への活動、郡司の構成や制度の変化についての内容も近年の研究の進展を織り込んで語られた。

第二部は「地方支配体制の形成と展開」。古代国造制から、国・郡・里としての地方支配体制への移行と、租庸調による税制の仕組み解説。その中で租は意外に重税ではなかったことや、庸調の詳しい解説も興味深いものであった。また、郡司層の蓄財、貨幣経済推進のための蓄銭叙位令により蓄財と位階との結びつきも見られたこと等。

第三部は「武蔵国分寺と豪族たち」。国分寺造営開始後の督促内容を「続日本紀」の実文を引いて語られ、これに対する造営遅延に付いても再三細かい指示が下った事の詳しい解説がなされた。

今講演に当たって、先生のご専門が律令官人制なのを踏まえて、可能ならば古代武蔵国における国司・郡司の関係と律令制の様な内容を織り込んで頂けると幸甚との希望をさせて頂いたところ、快く聞き入れて今回の演題にして下さっただけでなく、当会の生い立ちをも勘案して、国分寺造営の開始から遅延や苦難まで織り込んでお話し下さった事を、先生への感謝を込めて記します。

 

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【歴】第105回 歴史をひもとく会 開催報告

スペイン・京都で体験する滞在型旅行の醍醐味

新春 最初の「歴史をひもとく会」は1月13日(日)本多公民館(視聴覚室)にて、伊東 克会員によるスペインと京都に数多く滞在し幅広く歴史、文化を肌で感じ、探究した内容の講演であった。質疑応答では参加者の中でスペイン京都それぞれの経験を踏まえた紹介もあり参加者44名 楽しく聞き入り盛況のまま終了した。

 

<< 講師プロフィル>>伊東氏顔写真

昭和39年経済学部卒 伊東ゼミ
40歳代より世界の風物・文化に惹かれて各地を旅する。
訪れた国は55か国に上る。旅の醍醐味を覚え、文化、歴史をより深く味わう目的で、スペインは3度訪れ、延べ7か月滞在する。 この間スペイン語習得で語学校に入学。
2012年頃からは京都滞在型旅行(年間平均45日)し、訪れた神社・仏閣は300以上に上る。

 

<< 講演内容要約 >>

第一部は高校時代スペイン内戦を題材にした映画 ”誰がために鐘は鳴る”に感銘を受け、以来特別に関心を持ち続けて3回 延べ7か月に及びスペイン語学校に入りながらスペイン各地を廻った体験談。最初は一人旅のセルビアから始まった。スペインはセルビアを含めて南半分を700年に亘りアラブに占領されていた。レコンギスタ(国土回復運動)により1492年回復した。2回目は、ご家族で行ったバルセロナ;ガウディとモンタネールの天才建築家建造物(サグラダファミリヤ、グエル公園、カタルーニャ音楽堂等)に感動し周辺のタラゴナやサンチャゴ・デ・コンポステーラではキリスト教の巡礼の歴史等考察した事。3回目の旅でマドリード;特にアランフェス宮殿の美しさにロドリーゴの音楽と共に感激した事等々。その他、ご自身の旅行中予期せぬ事件に遭遇した事を交えて幅広く紹介された。
第二部は京都検定1級資格を持つ幅広い歴史、文化の識者ですが今回は正信に始まり400年続いた絵師集団狩野派の成立と千利休等に見いだされた永遠のライバル長谷川等伯の歴史考察を”元信” ”永徳” ”探幽” ”等伯“の作品を交えて解説された。

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【歴】第104回 歴史をひもとく会 開催報告

〜小金井桜名勝指定99周年~

12月9日(土)14時半より、東京都公文書館研修室において、第104回例会が開催され、第102回例会の講師を務めて頂いた国分寺市学芸員の増井有真氏を含め45名の方が参加された。初めて利用した公文書館は、建屋が新しいこともあり、きれいで部屋も広々としており参加されたみなさんにも好評であった。

2023-12-09 2023,12,9歴史講演会(小金井桜) 026A講師は小金井市教育委員会生涯学習課(学芸員)の高木翼郎氏。テーマは、国の名勝に指定されて来年で100周年を迎える「小金井桜」。JR武蔵小金井駅の発車メロディーが「さくらさくら」である理由の「小金井桜」について、その誕生から名勝指定、観光地化のあと危機を迎え、それを乗り越えてきた歴史、そして保存のための取り組みを様々な写真をまじえて分りやすくお話し頂き、小金井在住の参加者からも、初めて知る内容も多く、有意義だったとの感想を頂いた。

 

<< 講演内容要約 >>

武蔵野台地は、江戸時代までは不毛の台地で人が住みにくい地域だった。この地域に画期的な変化をもたらしたのが玉川上水の完成で、玉川上水から枝分かれした分水が上水沿岸の武蔵野台地の細部に行き渡ることとなり、この地域の新田開発に大きな役割を果たした。

八代将軍徳川吉宗は桜好きで、隅田川(墨堤)や飛鳥山等に桜を植樹し観桜客が押し寄せるようになっていた。1737年頃玉川上水にも桜並木をという動きが起き、吉宗の指示で代官川崎平右衛門が奈良の吉野山、茨城の桜川等各地のヤマザクラの名品種を取り寄せ小金井橋を中心とする玉川上水の東西6km(小平市〜小金井市〜西東京市〜武蔵野市)に植樹したのが小金井桜の始まり。なお、「ソメイヨシノ」ではなく江戸文化を継承する「ヤマザクラ」で構成される桜の名所で、現在まで残っているのは「名勝小金井桜」のみとのこと。

2023-12-09 2023,12,9歴史講演会(小金井桜) 019その桜の美しさを江戸の文人等が紀行文で紹介、歌川広重が錦絵に描いたことから、江戸近郊の桜の名所となった。明治6年には明治天皇の行幸がありさらにその名声は高まった。その後開通した甲武鉄道は、その開業日を小金井桜の花見シーズンに合わせ、小金井桜の最寄り駅だった国分寺、境の両停車場は大変な人出だったという。また植物学者の三好學博士の研究や地元の保護活動が実り、1924年12月9日に奈良「吉野山」、京都「御室桜」、茨城「桜川」とともに名勝「小金井桜」として国の名勝に指定された。桜の名所の名勝指定はこの4箇所が全国第一号。その後、花の季節だけに臨時停車場として開業していた武蔵小金井停車場が正式に停車場となるなど小金井桜は街の発展の礎となった。2023-12-09 2023,12,9歴史講演会(小金井桜) 025しかしながら1965年の淀橋浄水場の廃止により用水路としての役割を終えた玉川上水の水が止まり、空堀となった水路は荒廃、ケヤキやエノキが生い茂ることとなり、桜にとって生育環境が極めて悪化、美しい桜並木は姿を変えていった。そんな中、2003年、近世・近代の土木遺構としての学術価値が認められ、玉川上水の素掘りが残る範囲が国の史跡に指定され、そこから文化財を守るために玉川上水及び小金井桜の整備事業が始まり、エノキ、ケヤキなどの高木を伐採し、ツツジ、マユミなどの低木を残して市民団体や都立農業高校と協力連携して多様なヤマザクラの苗木を育成、植樹、それに伴い桜の足下にはクサボケ、ノカンゾウ、ニリンソウ、ツルボ、ワレモコウ等の豊かな在来植物が育つという自然環境が復活しており、様々なDNAを持つヤマザクラのグラデーションが玉川上水の両岸彩る日も近いとのこと。大いに期待したいと思います。

 

 

【歴】第103回 歴史をひもとく会 開催報告

会員による歴史談義

第103回歴史をひもとく会例会が、令和5年10月7日国分寺市本多公民館視聴覚室で40人が集い開催されました。今回は毎年恒例の「会員による歴史談義」で、講師は貫名泰男会員(S46経)、演題は「馬と歩んだ60年――私の歴史」でした。 日常、馬と全く関わりのない生活を送っている聴衆にとって、言葉の一つ一つが新鮮な驚きをもって感じられる内容の濃い講演でした。

 

「馬と歩んだ60年――私の歴史」

講師: 貫名 泰男 (昭和46年経済学部卒業)IMG_6603.jpg貫名講演12(2)

プロフィール:

小4から乗馬クラブで乗り始める
東京教育大学附属高等学校で馬術部入部、即主将
塾體育會馬術部入部、4年生で主将
三菱油化入社、本社の馬術部にも参加
四日市事業所へ転勤し昭和50年三重国体出場
2012年退職後塾體育會馬術部監督を2019年まで務めその後コーチ

 

[ 講演概要 ]

1.乗馬を始めたきっかけ

小学4年生から父の影響で乗馬を始めたきっかけの説明があった。

2.現在まで続けた歩み

高校馬術部時代、大学馬術部時代、社会人としての乗馬との関わりに分けて、その苦闘や作業状況に戦績を含めての説明。
高校馬術部では、1年生の時の苦闘と部を纏める事が新1年生にとっては厳しかったが貴重な良い経験になった。
大学馬術部では、厩舎作業内容、馬の世話、飼いの内容および実際の試合の模様等を、動画を含めて紹介。学生馬術連盟、全早慶戦の種目構成の説明、4年生での輝かしい戦績と苦しかった経験等。
レギュラーになれない部員が半数以上になるが、その部員全員の支えでレギュラー達の部生活が成り立っていた点が強調された。
会社では乗馬班で気楽に楽しみ始めていたが、昭和50年の三重国体を見据えての四日市勤務辞令。国体後の5回の転勤中は中断期間が有るものの乗馬は続いた。最後の勤務地札幌では北大を指導して中身の濃い乗馬生活を送る。

3.慶應義塾體育會馬術部監督

監督選任方法、塾体育会について等の説明と、技術指導以外に部の運営 やコンプライアンス指導、部員を塾体育会出身者として恥ずかしくない社会人として送り出すなどの監督任務についての説明。
監督を引き受ける時から高齢で有ることを懸念しつつ70歳を前に辞任を願い出るも認められなかった。7年務めて監督辞任後はコーチとして監督補佐、基礎技術指導、会計指導等を現在まで続けている。

4.乗馬と馬の事

馬の用途は、乗用、競走、荷役、農耕用など。乗馬の小史:人間がいつ頃から馬と言う動物に乗る様になったかが披露された。「銜(はみ)」を馬の歯の欠落部分に噛ませる事を人類が発明したことが歴史的出来事と言える。

5.余録:競走馬生産現場の話

生産 →(競り)→ 育成・調教 →調教師へ
種付け 2月中旬~    当て馬

 

※※ 全日本学生馬術競技大会 (兵庫県 三木ホースランドパーク)配信のお知らせ

11月2~6日  塾出場枠 障害:4 (2日 第1回走行、3日 第2回走行) 馬場:3 (4日 団体、5日 個人決勝)
総合:3 (5日 馬場、6日 野外・障害)
日本馬術連盟から実況配信   https://equitation-japan.com/jefm

代表世話人挨拶

代表世話人挨拶

講師紹介

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講演する 貫名さん

講演する 貫名さん

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講演する 貫名さん

講演する 貫名さん

【歴】第102回 歴史をひもとく会例会 開催報告

武蔵国分寺の話

〜国分寺建立の背景と武蔵国分寺の大伽藍〜

7月8日(土)、国分寺本多公民館視聴覚室において、第102回例会が開催され、蒸し暑い中ではあったが、37名の方が参加された。

IMG_6220(2)講師は国分寺市教育委員会ふるさと文化財課文化財保護係長(学芸員)の増井有真氏。先生は国分寺市の文化財保護と普及活動の中心となって活動しておられ、武蔵国分寺跡史跡指定100周年記念事業を中心となって推進された。歴史をひもとく会においても、2019年の2月23日の第88回例会で「武蔵国分寺以前の歴史~古墳時代から律令時代の黎明期を中心として~」と題してご講演いただいている。

 

ご講演内容要約

国分寺建立の意味を考える際には、なぜ建てられたか、そして人々がどのような思いをかけたのかが重要である。

それを知るためには、7〜8世紀の時代背景を知る必要がある。7世紀は豪族の連合政権に近かった4〜6世紀の古墳時代から、一転中央集権を目指した時代といえる。また、同時に国家の基本的理念として仏教が採用されていった時代でもある。中央集権を国家目標とした契機は3つ考えられる。

一つ目は天皇をも凌駕しかねない巨大権力をもった豪族が出現、それを排除する必要があり、乙巳の変により中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼしたが、このような事態の再来を防ぐため、中大兄皇子は自ら権力を握り、皇親政治により中央集権を強化していった。

二つ目は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北した結果、唐による日本列島侵攻が現実的な危機となり、中央集権的な軍事体制の創設が急務となった。

三つ目は壬申の乱という内戦により、皇位継承のルール確立が必要となり、そのためには強い中央政府が必要となった。

中央集権の制度的骨格となったのが律令制だが、その中で地方の行政制度も確立されてゆき、武蔵国が置かれることとなった。中央から派遣された国司が国全体を統括したが、国司がいるのが国庁、それを囲むように国衙が造られ、周囲の街並みを含めて国府と称した。

武蔵国は国の格としては大国であり、21郡がおかれ、当初は東山道に属したが後に東海道に転属した。武蔵国府は現在の府中市にあり、武蔵国府関連遺跡の範囲は東西6.5km、南北1.8kmに及ぶ。

このような時代背景の中、国分寺建立の中心となった聖武天皇が登場する。聖武天皇は藤原氏の血を引く初めての天皇である。乙巳の変の立役者の一人中臣鎌足が藤原の姓を与えられたことで、藤原氏は成立したが、聖武天皇は鎌足の息子不比等の娘宮子と文武天皇の間に誕生した。しかし、彼は幼少期、母親の宮子の病のため母親を知らずに育ったことや、天皇即位後、宮子に「大夫人」の称号を与える勅を出したものの、長屋王の反対により勅を撤回せざるを得ないという事件、藤原氏と長屋王の権力闘争から長屋王が死に追い込まれた長屋王の変を経験した上、その治世は飢饉や天然痘の流行、藤原広嗣の乱などが相次ぐ波乱にとんだものだった。彼はそれらの災厄を全て自身の不徳と捉え、自身を責め続けたが、国民の幸福実現のためには仏教の力が必要との結論にいたった。そして、741年2月国分寺建立の詔がだされた。

「・・・金光明最勝王経には『もし広く世間でこの経を読み、敬い供養し、広めれば、われら四天王は常に来てその国を守り、一切の災いもみな取り除き、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた消し去る。そしてすべての願いをかなえ、喜びに満ちた生活を約束しよう』とある。そこで、諸国にそれぞれ七重塔一基を敬って造り、併せて金光明最勝王経と妙法蓮華経を各十部ずつ写経させることとする。私もまた、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めたいと思う。」

聖武天皇はその後、華厳経と出会ったことから、大仏建立へと向かっていった。

このようにして、武蔵国分寺は建立されることとなったが、四神相応の地であることと国府の街並みから適度に離れていなければならないことからこの地に造られたと考えられる。規模は寺地が東西2km。南北1.5km、僧・尼寺を含む寺院地が東西870m、南北540mで、この規模は、東大寺を除くと諸国の国分寺の中で最大である。

国ごとに官寺をおく制度は中国にもあるが、尼寺を置くのは日本独自のもので、光明皇后の発案だという説がある。聖武天皇の仏教による国家運営には光明皇后の影響は非常に大きかったと考えられる。

当初は七重塔を中心とするプランでスタートしたが、造営が進まないことに剛を煮やした聖武天皇が国司ではなく、郡司層を中心としたプロジェクトに変更、協力の見返りに郡司職の世襲を認めたことから、郡司層の積極的な関与が実現し、計画が拡大・加速され、すでに建設されていた七重塔より西に拡張された結果、現在確認されているようなプランとなった。七重塔は2回建て替えられたことが、発掘調査から判明しているが、1回目と2回目の間に場所を変えて建設しようとした跡なども調査により見つかっている。ただし、これは途中で断念されたらしい。七重塔以外の施設としては、金堂、講堂、中門、塀、南門、東僧坊、北方建物、鐘楼、堂間通路などが判明している。また、国分寺を支える施設として、政所院、大衆院、苑院、花園院、東院、中院、修理院、講師院などの施設の存在が明らかとなっている。

最盛期は9世紀で、10世紀中頃から11世紀にかけて衰退し、1333年の分倍河原の戦いの折に焼失したが、薬師如来は残って現在に伝えられている。途中、塀が掘立柱から築地塀に造り替えられるなど地震対策が見られる。

国分寺の造営は20年余りが費やされたと考えられるが、境界となる溝の総延長は7800m、延べ5850人を動員、使用された礎石は約500個、延べ17000人を動員、瓦の数は約50万枚、瓦工延べ6700〜7800人、仕丁延べ13400〜15600人が動員されたと考えられるが、当時の武蔵国の人口は約13万人と考えられるので、農民にはかなり大きな負担となったと考えられる。総工費は現代の貨幣価値に換算すると、848億5千万円という巨額になると試算されている。

以上が先生にお話の概要だが、要約しきれないほど詳細で、かつ先生の国分寺愛がこめられた情熱的な語りで、素晴らしいご講演であった。

講演会終了後、国分寺駅北口のデンズキッチンにて懇親会を開催した。懇親会には講師の増井様も出席され盛り上がった懇親会となりました。

 

【歴】第101回 歴史をひもとく会 歴史散歩 開催報告

”足利学校、鑁阿寺” 歴史散歩と”花物語”フラワーパーク
ワイナリー昼食付 バスツアー

 

足利学校、鑁阿寺” 歴史散歩と”花物語”フラワーパーク、ワイナリー昼食付バスツアーを5月10日(水)実施した。

前日までのはっきりしない空模様から初夏を思わせる素晴らしい好天。参加予定者42名 誰一人欠けることもなく国分寺南口に集合し定刻前 7時25分に大型バスは出発した。

世話人会 紅一点の上原安江さんが名バスガイドに変身し 爽やかな車内アナウンスで萩観光のドライバーを紹介。続いて星野代表世話人の挨拶。この企画がコロナ禍で中断され3年越しで実現したことや 往路が都心の渋滞を避けるため中央道八王子ジャンクションから圏央道 鶴ヶ島JC、を経由する事と関連し広い武蔵の国の”東山道”や江戸時代の”新田開発”の話も織り交ぜた内容だった。

関越道 高坂SAでトイレ休憩の後 車内では斎藤さんから”足利学校”や”鑁阿寺”の由来、足利氏について斎藤さんの歴史観を交えて解説され、お陰で見学の興味も倍増した。

現地では2班に分かれてボランティアの観光案内人の説明を受け歴史散歩の意義を実感した。

12時20分”ココファームワイナリー”に到着。知的障害者の就労という福祉施設でもありその理念と努力に感動しつつワインのテイスティングと食事を楽しんだ。

14時30分 ”あしかがフラワーパーク”到着。今年は温暖化の影響か開花が大幅に早まり“大藤”は見られなかったものの薔薇を中心に百花繚乱 圧倒的な見応え“花物語”を鑑賞した。

帰路は東北自動車道佐野ICから首都高速池袋を経由して高井戸ICで降り18時35分国分寺南口に無事帰着した。

足利に縁の深い上原さんのアイディアとMC、世話人会のチームワークで運営上の難問をクリアーした。

そして何より参加者皆様のご協力により充実した楽しい一日となった。

 

 

【歴】第100回 歴史をひもとく会記念例会 開催報告

中世武蔵の国府と国分寺

 3月18日(土)、国分寺市立第四小学校のホールひだまりにおいて、記念すべき第100回例会が開催された。国分寺三田会全体に参加をよびかけたこともあり、冷たい雨が降る中ではあったが、49名という多くの方々が参加された。

IMG_5485(2) 講師は府中の森郷土博物館館長の深澤靖幸氏。先生は國學院大學史学科考古学専攻科をご卒業後、府中市郷土の森博物館の学芸員として、府中市を中心に近隣地域についても遺跡・文化財についての調査研究を深めてこられた。歴史をひもとく会においても、18年前の2005年の第19回例会において、「武蔵府中熊野神社古墳について」と題してご講演いただいている。

 お話の冒頭、まず故村山光一教授との思い出に触れられた。事前に配信した「歴史をひもとく会のあゆみ」にもあるように、村山先生は国分寺市在住で歴史をひもとく会の基礎を築かれた方。会員の気持ちを一気に惹きつけ、中世の武蔵国府と国分寺の話に入る。以下、先生のご講演内容を要約する。

 古代については1970年代から発掘調査が始まり、古代の姿を具体的に復元できるようになったが、中世についてはまだまだ十分とは言えない。中世においても政治拠点である武蔵国府は確かに存在していたし、武蔵国分寺も現在まで法灯を伝えているのだが、なぜか関心が薄く発掘調査も十分とは言えない。
当時の府中市は、六所宮(現在の大國魂神社)・高安寺・定光寺といった寺社中心のまとまりと複数の中世遺跡からなる複合体だった。六所宮は武蔵国の主要6神を合祀する総社で11世紀の創立と考えられる。武蔵武士の精神的支柱であり、北条政子の安産祈願など源氏の篤い崇敬も受けていた。度々の造営を物語る瓦も出土している。
高安寺は足利尊氏再興の伝承があり、14世紀後半から15世紀中頃には鎌倉公方の御所ともなり、公方出陣の際にはまず高安寺に来てそこで兵を集めた。15世紀前葉の瓦は鎌倉建長寺と同じ模様であり強いつながりがあったと推測される。
道路は六所宮周辺で結節しており、古代は国府中心にまちが広がっていたが、中世には六所宮という宗教施設を中心に密集して形成されたことが発掘調査から確認できる。江戸時代に開かれた甲州街道は東西路線だが、中世の鎌倉街道上道は古代の東山道武蔵路に近い南北路線であった。政治的・軍事的に重要路線と認識されており、まちの形成にも大きな影響を与えた。

 奈良時代に建立された武蔵国分寺は、発掘調査の結果、10世紀~11世紀には衰退期にあったと確認されている。国分尼寺跡北方の切通しに残る鎌倉街道が尼寺上を通っていることからは、尼寺が鎌倉時代には消滅していたとも推定される。
中世の国分寺を語る資料「医王山縁起」等によれば、永承庚寅年(1050)に源頼義が来訪し奥州合戦の加護を祈り、治承4年(1180)には文覚上人が頼朝の開運を祈願したとある。元弘3年(1333)には分倍河原の合戦により七堂伽藍は焼失したが、後に新田義貞が唯一焼け残った「薬師如来坐像」のために黄金を寄進し薬師堂が建立されたとも記されている。
この薬師如来の造像は平安時代末(12世紀)であり、この頃も国分寺の活動が継続していたことは確実である。国分寺の創建期の本尊は釈迦如来であったが、国分寺造営途上の天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒を目的に諸国に薬師像の造立が命じられた。武蔵国分寺をはじめ現存の諸国国分寺が薬師如来を本尊とする例が多いのはこのためであろうか。
また、深大寺住僧・長弁執筆の「私案抄」には、応永7年(1400)に武蔵国分寺薬師如来の脇侍である日光・月光菩薩像の勧進状が記されている。これに先立ち十二神将像を修造したらしいが、現在の十二神将像は元禄2年(1689)の作である。

 中世の考古情報は古代に比べ僅少で、特に11~12世紀の遺跡の少なさは東国で普遍的でありそれ以降も少ない。その原因は古代の土器・陶磁器に比べ中世は木器や漆器が使用されるようになったために発掘されにくいこと。10世紀ごろから大きな穴を残す竪穴建物が消滅し、掘立柱建物に移行したために小さな柱穴跡を見つけにくくなったことが考えられる。
国分寺市の中世遺構で発掘がある程度進んでいるのは、鎌倉街道添いの恋ヶ窪廃寺・伝祥応寺周辺である。恋ヶ窪廃寺跡からは、平安後期の礎石建物跡、13世紀末頃の掘立柱建物跡、14世紀後半から15世紀末にかけての土坑墓・火葬墓跡が発見されている。伝祥応寺跡は国分尼寺跡北方の台地上にあり、切通しの西に土塁と礎石建物・土坑墓跡が発掘されており、西には小高い塚が残されている。この2寺跡の存在は国分寺を中心に宗教活動が続けられていたことを示している。
この時期の文化財として府中市善明寺の鉄仏(国の重要文化財)がある。像高170.3㎝、380㎏という現存する最大の鉄仏である。左襟と左袖に銘があり、藤原姓の3名の女性が亡き父母の供養等を願って建長5年(1253)に建立、作者は黒鉄谷(くろがねやつ)の藤原助近とある。この像は江戸後期には六所宮にあったが明治の神仏分離により善明寺に移されたものであり、それ以前は現在の国分寺の地にあったと伝えられている。
一説には、国分寺の恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女との伝説に絡み、遊女の死を悼んだ畠山重忠が造立したと伝えられるが、畠山重忠の没年は1205年であり年代が合わない。有力なのは黒鉄谷・伝祥応寺旧在説である。重い鉄仏を遠方から運ぶことも考えにくく、伝祥応寺跡・尼寺跡近辺には今も「黒鐘」の地名が残っていることから、善明寺の鉄仏はそこに存在していたものである蓋然性が高い。

 以上のように、中世については発掘調査により少しずつ判明してきているが、国分寺については遺跡中心部での考古情報が少なく、13~14世紀が空白期となっている。今後は鉄仏の鋳造遺構が発掘される可能性もあり、現在の国分寺周辺をはじめ崖線下の発掘に期待したい。

 以上で先生のお話は終了したが、ご講演は我々の学習の空白部分を補っていただくに余りある内容であり、今も先生の張りのあるお声が耳に残る第100回記念にふさわしい素晴らしいご講演であった。               (文責 星野信夫)

 

【歴】第99回 歴史をひもとく会 開催報告

古代武蔵国のなりたち

 12月17日(土)午後2時より、国分寺市立もとまち公民館の視聴覚室にて、歴史をひもとく会第99回例会が開催された。お迎えした講師は、慶應義塾大学文学部准教授の十川陽一先生である。
演題は先生の専門である古代史の中から、我々にも馴染みの深い「古代武蔵国のなりたち」という興味深いもので、46名が出席する盛会となった。6ページにもわたる豊富なレジュメとパワーポイントのスライドを駆使しての濃密な内容で、明るく情熱的な語りで参加者を引き込んでいった。

<講師紹介>十川陽一氏紹介写真

十川 陽一氏  慶應義塾大学文学部 准教授
1980年生まれ
2003年(平成15年) 慶應義塾大学文学部史学系日本史学専攻卒業
2010年 博士(史学)
2019年~ 慶應義塾大学文学部准教授

<講演内容>

 古代武蔵国は、現在の東京都・埼玉県・横浜市(南西部を除く)にわたる広大な領域を持つ国であり、『延喜式』によれば、多磨・都築・久良・橘樹・荏原・豊島・足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・賀美・児玉・那珂・秩父の21郡を所管する東海道の大国となっている。
この地域が最初に歴史に登場するのは埼玉古墳群の稲荷山古墳鉄剣銘で、この地域の豪族が「杖刀人首」として大王宮に奉仕したことがしるされている。
また、『先代旧事本紀』所引の国造本紀には无邪志、胸刺、知々夫の三国造が記されており、前2者の読みは「むさし」だと考えられ、国造に就任しうる氏族が2氏あり、1氏に絞ることができなかった可能性がある。
そして、『日本書紀』に武蔵の国造使主(おみ)と同族の小杵(おき)が国造の地位をめぐって争い、朝廷は使主を国造として小杵を誅したこと、乱の終息後、朝廷の直轄地であるミヤケを設置したことがしるされている。朝廷はこのように地方の内乱に介入することで、その影響力を強めていったと考えられる。
使主は北武蔵の豪族と考えられる一方、小杵は諸説あるが南武蔵の豪族とする説もある。当時、武蔵は東山道に属しており、主要な交通路は北武蔵から関東の中心であった上野(こうずけ)へと通じていたと考えられる。使主の勝利は朝廷の介入によるものだったが、朝廷も北武蔵を重視していたのかもしれない。
この状況は8世紀頃から変化してくる。それまでは東山道から北武蔵を経て南武蔵や相模へ行き、再び同じ道を北武蔵へと引き返してから上野へ向かうものだったが、東海道から相模、南武蔵、武蔵国府を経て東山道と合流するルートが成立してくるのである。南のルート上には国府はないもののいくつかの郡家が点在しており、人や物資の行き来があったのが、東海道と東山道を結びつける、駅路として認知されるようになっていったと考えられる。

『続日本紀』宝亀2年(771)10月己卯条 _

太政官奏すらく、武蔵国、山道に属すといえども、兼ねて海道を承け、公使繁多にして、祗供堪へ難し。其れ東山駅路、上野国新田駅より、下野国足利駅に達る。此れ便道なり。而るに枉まがりて上野国邑おは楽らぎ郡より五箇駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日に、また同じき道を取りて、下野国に向ふ。今東海道は、相模国夷い参さま駅より下総国に達るまで、其の間四駅にして往還便はち近し。而して此を去りて彼に就くこと、損害極めて多し。臣等商量するに、東山道を改めて、東海道に属さば、公私所を得て、人馬息ふこと有らむ。奏するに可とす。

 そこで、話題としたいのがKeio Museum Commonsの建設に伴って調査された三田二丁目町屋遺跡である。この遺跡からは古代の掘立柱建物と溝状遺構が検出され、円面硯など多くの遺物が出土した。溝状遺構は古代の官衙や豪族の居館の存在を示し、硯など出土も考えるとなんらかの官衙である可能性が考えられるのである。武蔵国分寺においても「三田」銘瓦も出土しており、三田が重要な地であった可能性がある。
ただ、南武蔵では荏原に有力郡家があったと考えられている。影向寺出土瓦から 7 世紀後半には荏原評の存在が確認できることに加え、隣接する橘樹郡の影向寺造営に関与するなど、大宝令以前の南武蔵における橘樹郡を核とした地域の繋がりも窺える。また、万葉集にも以下の歌がおさめられている。

『万葉集』巻 20(防人歌)

(4415)白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
右一首、主帳荏原郡物部歳徳

(4416)草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我は紐解かず寝む
右一首、妻椋椅部刀自売

(4418)我が門の片山椿まこと汝我が手触れなな地に落ちもかも
右一首、荏原郡上丁物部広足

上の歌には物部の名が見られるが、荏原郡内には当時の有力氏族である物部氏の分布が確認されており、主帳など郡司層との関連も指摘されている。
従って、三田二丁目町屋遺跡は郡家ではないものの駅等の官衙施設として新しい東海道からの南ルートの一翼を担っていたのかもしれない。

講師紹介

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講演する 十川氏

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聴講者は満席でした

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