【歴】第103回 歴史をひもとく会 開催報告

会員による歴史談義

第103回歴史をひもとく会例会が、令和5年10月7日国分寺市本多公民館視聴覚室で40人が集い開催されました。今回は毎年恒例の「会員による歴史談義」で、講師は貫名泰男会員(S46経)、演題は「馬と歩んだ60年――私の歴史」でした。 日常、馬と全く関わりのない生活を送っている聴衆にとって、言葉の一つ一つが新鮮な驚きをもって感じられる内容の濃い講演でした。

 

「馬と歩んだ60年――私の歴史」

講師: 貫名 泰男 (昭和46年経済学部卒業)IMG_6603.jpg貫名講演12(2)

プロフィール:

小4から乗馬クラブで乗り始める
東京教育大学附属高等学校で馬術部入部、即主将
塾體育會馬術部入部、4年生で主将
三菱油化入社、本社の馬術部にも参加
四日市事業所へ転勤し昭和50年三重国体出場
2012年退職後塾體育會馬術部監督を2019年まで務めその後コーチ

 

[ 講演概要 ]

1.乗馬を始めたきっかけ

小学4年生から父の影響で乗馬を始めたきっかけの説明があった。

2.現在まで続けた歩み

高校馬術部時代、大学馬術部時代、社会人としての乗馬との関わりに分けて、その苦闘や作業状況に戦績を含めての説明。
高校馬術部では、1年生の時の苦闘と部を纏める事が新1年生にとっては厳しかったが貴重な良い経験になった。
大学馬術部では、厩舎作業内容、馬の世話、飼いの内容および実際の試合の模様等を、動画を含めて紹介。学生馬術連盟、全早慶戦の種目構成の説明、4年生での輝かしい戦績と苦しかった経験等。
レギュラーになれない部員が半数以上になるが、その部員全員の支えでレギュラー達の部生活が成り立っていた点が強調された。
会社では乗馬班で気楽に楽しみ始めていたが、昭和50年の三重国体を見据えての四日市勤務辞令。国体後の5回の転勤中は中断期間が有るものの乗馬は続いた。最後の勤務地札幌では北大を指導して中身の濃い乗馬生活を送る。

3.慶應義塾體育會馬術部監督

監督選任方法、塾体育会について等の説明と、技術指導以外に部の運営 やコンプライアンス指導、部員を塾体育会出身者として恥ずかしくない社会人として送り出すなどの監督任務についての説明。
監督を引き受ける時から高齢で有ることを懸念しつつ70歳を前に辞任を願い出るも認められなかった。7年務めて監督辞任後はコーチとして監督補佐、基礎技術指導、会計指導等を現在まで続けている。

4.乗馬と馬の事

馬の用途は、乗用、競走、荷役、農耕用など。乗馬の小史:人間がいつ頃から馬と言う動物に乗る様になったかが披露された。「銜(はみ)」を馬の歯の欠落部分に噛ませる事を人類が発明したことが歴史的出来事と言える。

5.余録:競走馬生産現場の話

生産 →(競り)→ 育成・調教 →調教師へ
種付け 2月中旬~    当て馬

 

※※ 全日本学生馬術競技大会 (兵庫県 三木ホースランドパーク)配信のお知らせ

11月2~6日  塾出場枠 障害:4 (2日 第1回走行、3日 第2回走行) 馬場:3 (4日 団体、5日 個人決勝)
総合:3 (5日 馬場、6日 野外・障害)
日本馬術連盟から実況配信   https://equitation-japan.com/jefm

代表世話人挨拶

代表世話人挨拶

講師紹介

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講演する 貫名さん

講演する 貫名さん

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講演する 貫名さん

講演する 貫名さん

【歴】第102回 歴史をひもとく会例会 開催報告

武蔵国分寺の話

〜国分寺建立の背景と武蔵国分寺の大伽藍〜

7月8日(土)、国分寺本多公民館視聴覚室において、第102回例会が開催され、蒸し暑い中ではあったが、37名の方が参加された。

IMG_6220(2)講師は国分寺市教育委員会ふるさと文化財課文化財保護係長(学芸員)の増井有真氏。先生は国分寺市の文化財保護と普及活動の中心となって活動しておられ、武蔵国分寺跡史跡指定100周年記念事業を中心となって推進された。歴史をひもとく会においても、2019年の2月23日の第88回例会で「武蔵国分寺以前の歴史~古墳時代から律令時代の黎明期を中心として~」と題してご講演いただいている。

 

ご講演内容要約

国分寺建立の意味を考える際には、なぜ建てられたか、そして人々がどのような思いをかけたのかが重要である。

それを知るためには、7〜8世紀の時代背景を知る必要がある。7世紀は豪族の連合政権に近かった4〜6世紀の古墳時代から、一転中央集権を目指した時代といえる。また、同時に国家の基本的理念として仏教が採用されていった時代でもある。中央集権を国家目標とした契機は3つ考えられる。

一つ目は天皇をも凌駕しかねない巨大権力をもった豪族が出現、それを排除する必要があり、乙巳の変により中大兄皇子らが蘇我氏を滅ぼしたが、このような事態の再来を防ぐため、中大兄皇子は自ら権力を握り、皇親政治により中央集権を強化していった。

二つ目は白村江の戦いで唐・新羅の連合軍に敗北した結果、唐による日本列島侵攻が現実的な危機となり、中央集権的な軍事体制の創設が急務となった。

三つ目は壬申の乱という内戦により、皇位継承のルール確立が必要となり、そのためには強い中央政府が必要となった。

中央集権の制度的骨格となったのが律令制だが、その中で地方の行政制度も確立されてゆき、武蔵国が置かれることとなった。中央から派遣された国司が国全体を統括したが、国司がいるのが国庁、それを囲むように国衙が造られ、周囲の街並みを含めて国府と称した。

武蔵国は国の格としては大国であり、21郡がおかれ、当初は東山道に属したが後に東海道に転属した。武蔵国府は現在の府中市にあり、武蔵国府関連遺跡の範囲は東西6.5km、南北1.8kmに及ぶ。

このような時代背景の中、国分寺建立の中心となった聖武天皇が登場する。聖武天皇は藤原氏の血を引く初めての天皇である。乙巳の変の立役者の一人中臣鎌足が藤原の姓を与えられたことで、藤原氏は成立したが、聖武天皇は鎌足の息子不比等の娘宮子と文武天皇の間に誕生した。しかし、彼は幼少期、母親の宮子の病のため母親を知らずに育ったことや、天皇即位後、宮子に「大夫人」の称号を与える勅を出したものの、長屋王の反対により勅を撤回せざるを得ないという事件、藤原氏と長屋王の権力闘争から長屋王が死に追い込まれた長屋王の変を経験した上、その治世は飢饉や天然痘の流行、藤原広嗣の乱などが相次ぐ波乱にとんだものだった。彼はそれらの災厄を全て自身の不徳と捉え、自身を責め続けたが、国民の幸福実現のためには仏教の力が必要との結論にいたった。そして、741年2月国分寺建立の詔がだされた。

「・・・金光明最勝王経には『もし広く世間でこの経を読み、敬い供養し、広めれば、われら四天王は常に来てその国を守り、一切の災いもみな取り除き、心中にいだくもの悲しい思いや疫病もまた消し去る。そしてすべての願いをかなえ、喜びに満ちた生活を約束しよう』とある。そこで、諸国にそれぞれ七重塔一基を敬って造り、併せて金光明最勝王経と妙法蓮華経を各十部ずつ写経させることとする。私もまた、金文字で金光明最勝王経を写し、塔ごとに一部ずつ納めたいと思う。」

聖武天皇はその後、華厳経と出会ったことから、大仏建立へと向かっていった。

このようにして、武蔵国分寺は建立されることとなったが、四神相応の地であることと国府の街並みから適度に離れていなければならないことからこの地に造られたと考えられる。規模は寺地が東西2km。南北1.5km、僧・尼寺を含む寺院地が東西870m、南北540mで、この規模は、東大寺を除くと諸国の国分寺の中で最大である。

国ごとに官寺をおく制度は中国にもあるが、尼寺を置くのは日本独自のもので、光明皇后の発案だという説がある。聖武天皇の仏教による国家運営には光明皇后の影響は非常に大きかったと考えられる。

当初は七重塔を中心とするプランでスタートしたが、造営が進まないことに剛を煮やした聖武天皇が国司ではなく、郡司層を中心としたプロジェクトに変更、協力の見返りに郡司職の世襲を認めたことから、郡司層の積極的な関与が実現し、計画が拡大・加速され、すでに建設されていた七重塔より西に拡張された結果、現在確認されているようなプランとなった。七重塔は2回建て替えられたことが、発掘調査から判明しているが、1回目と2回目の間に場所を変えて建設しようとした跡なども調査により見つかっている。ただし、これは途中で断念されたらしい。七重塔以外の施設としては、金堂、講堂、中門、塀、南門、東僧坊、北方建物、鐘楼、堂間通路などが判明している。また、国分寺を支える施設として、政所院、大衆院、苑院、花園院、東院、中院、修理院、講師院などの施設の存在が明らかとなっている。

最盛期は9世紀で、10世紀中頃から11世紀にかけて衰退し、1333年の分倍河原の戦いの折に焼失したが、薬師如来は残って現在に伝えられている。途中、塀が掘立柱から築地塀に造り替えられるなど地震対策が見られる。

国分寺の造営は20年余りが費やされたと考えられるが、境界となる溝の総延長は7800m、延べ5850人を動員、使用された礎石は約500個、延べ17000人を動員、瓦の数は約50万枚、瓦工延べ6700〜7800人、仕丁延べ13400〜15600人が動員されたと考えられるが、当時の武蔵国の人口は約13万人と考えられるので、農民にはかなり大きな負担となったと考えられる。総工費は現代の貨幣価値に換算すると、848億5千万円という巨額になると試算されている。

以上が先生にお話の概要だが、要約しきれないほど詳細で、かつ先生の国分寺愛がこめられた情熱的な語りで、素晴らしいご講演であった。

講演会終了後、国分寺駅北口のデンズキッチンにて懇親会を開催した。懇親会には講師の増井様も出席され盛り上がった懇親会となりました。

 

【歴】第101回 歴史をひもとく会 歴史散歩 開催報告

”足利学校、鑁阿寺” 歴史散歩と”花物語”フラワーパーク
ワイナリー昼食付 バスツアー

 

足利学校、鑁阿寺” 歴史散歩と”花物語”フラワーパーク、ワイナリー昼食付バスツアーを5月10日(水)実施した。

前日までのはっきりしない空模様から初夏を思わせる素晴らしい好天。参加予定者42名 誰一人欠けることもなく国分寺南口に集合し定刻前 7時25分に大型バスは出発した。

世話人会 紅一点の上原安江さんが名バスガイドに変身し 爽やかな車内アナウンスで萩観光のドライバーを紹介。続いて星野代表世話人の挨拶。この企画がコロナ禍で中断され3年越しで実現したことや 往路が都心の渋滞を避けるため中央道八王子ジャンクションから圏央道 鶴ヶ島JC、を経由する事と関連し広い武蔵の国の”東山道”や江戸時代の”新田開発”の話も織り交ぜた内容だった。

関越道 高坂SAでトイレ休憩の後 車内では斎藤さんから”足利学校”や”鑁阿寺”の由来、足利氏について斎藤さんの歴史観を交えて解説され、お陰で見学の興味も倍増した。

現地では2班に分かれてボランティアの観光案内人の説明を受け歴史散歩の意義を実感した。

12時20分”ココファームワイナリー”に到着。知的障害者の就労という福祉施設でもありその理念と努力に感動しつつワインのテイスティングと食事を楽しんだ。

14時30分 ”あしかがフラワーパーク”到着。今年は温暖化の影響か開花が大幅に早まり“大藤”は見られなかったものの薔薇を中心に百花繚乱 圧倒的な見応え“花物語”を鑑賞した。

帰路は東北自動車道佐野ICから首都高速池袋を経由して高井戸ICで降り18時35分国分寺南口に無事帰着した。

足利に縁の深い上原さんのアイディアとMC、世話人会のチームワークで運営上の難問をクリアーした。

そして何より参加者皆様のご協力により充実した楽しい一日となった。

 

 

【歴】第100回 歴史をひもとく会記念例会 開催報告

中世武蔵の国府と国分寺

 3月18日(土)、国分寺市立第四小学校のホールひだまりにおいて、記念すべき第100回例会が開催された。国分寺三田会全体に参加をよびかけたこともあり、冷たい雨が降る中ではあったが、49名という多くの方々が参加された。

IMG_5485(2) 講師は府中の森郷土博物館館長の深澤靖幸氏。先生は國學院大學史学科考古学専攻科をご卒業後、府中市郷土の森博物館の学芸員として、府中市を中心に近隣地域についても遺跡・文化財についての調査研究を深めてこられた。歴史をひもとく会においても、18年前の2005年の第19回例会において、「武蔵府中熊野神社古墳について」と題してご講演いただいている。

 お話の冒頭、まず故村山光一教授との思い出に触れられた。事前に配信した「歴史をひもとく会のあゆみ」にもあるように、村山先生は国分寺市在住で歴史をひもとく会の基礎を築かれた方。会員の気持ちを一気に惹きつけ、中世の武蔵国府と国分寺の話に入る。以下、先生のご講演内容を要約する。

 古代については1970年代から発掘調査が始まり、古代の姿を具体的に復元できるようになったが、中世についてはまだまだ十分とは言えない。中世においても政治拠点である武蔵国府は確かに存在していたし、武蔵国分寺も現在まで法灯を伝えているのだが、なぜか関心が薄く発掘調査も十分とは言えない。
当時の府中市は、六所宮(現在の大國魂神社)・高安寺・定光寺といった寺社中心のまとまりと複数の中世遺跡からなる複合体だった。六所宮は武蔵国の主要6神を合祀する総社で11世紀の創立と考えられる。武蔵武士の精神的支柱であり、北条政子の安産祈願など源氏の篤い崇敬も受けていた。度々の造営を物語る瓦も出土している。
高安寺は足利尊氏再興の伝承があり、14世紀後半から15世紀中頃には鎌倉公方の御所ともなり、公方出陣の際にはまず高安寺に来てそこで兵を集めた。15世紀前葉の瓦は鎌倉建長寺と同じ模様であり強いつながりがあったと推測される。
道路は六所宮周辺で結節しており、古代は国府中心にまちが広がっていたが、中世には六所宮という宗教施設を中心に密集して形成されたことが発掘調査から確認できる。江戸時代に開かれた甲州街道は東西路線だが、中世の鎌倉街道上道は古代の東山道武蔵路に近い南北路線であった。政治的・軍事的に重要路線と認識されており、まちの形成にも大きな影響を与えた。

 奈良時代に建立された武蔵国分寺は、発掘調査の結果、10世紀~11世紀には衰退期にあったと確認されている。国分尼寺跡北方の切通しに残る鎌倉街道が尼寺上を通っていることからは、尼寺が鎌倉時代には消滅していたとも推定される。
中世の国分寺を語る資料「医王山縁起」等によれば、永承庚寅年(1050)に源頼義が来訪し奥州合戦の加護を祈り、治承4年(1180)には文覚上人が頼朝の開運を祈願したとある。元弘3年(1333)には分倍河原の合戦により七堂伽藍は焼失したが、後に新田義貞が唯一焼け残った「薬師如来坐像」のために黄金を寄進し薬師堂が建立されたとも記されている。
この薬師如来の造像は平安時代末(12世紀)であり、この頃も国分寺の活動が継続していたことは確実である。国分寺の創建期の本尊は釈迦如来であったが、国分寺造営途上の天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒を目的に諸国に薬師像の造立が命じられた。武蔵国分寺をはじめ現存の諸国国分寺が薬師如来を本尊とする例が多いのはこのためであろうか。
また、深大寺住僧・長弁執筆の「私案抄」には、応永7年(1400)に武蔵国分寺薬師如来の脇侍である日光・月光菩薩像の勧進状が記されている。これに先立ち十二神将像を修造したらしいが、現在の十二神将像は元禄2年(1689)の作である。

 中世の考古情報は古代に比べ僅少で、特に11~12世紀の遺跡の少なさは東国で普遍的でありそれ以降も少ない。その原因は古代の土器・陶磁器に比べ中世は木器や漆器が使用されるようになったために発掘されにくいこと。10世紀ごろから大きな穴を残す竪穴建物が消滅し、掘立柱建物に移行したために小さな柱穴跡を見つけにくくなったことが考えられる。
国分寺市の中世遺構で発掘がある程度進んでいるのは、鎌倉街道添いの恋ヶ窪廃寺・伝祥応寺周辺である。恋ヶ窪廃寺跡からは、平安後期の礎石建物跡、13世紀末頃の掘立柱建物跡、14世紀後半から15世紀末にかけての土坑墓・火葬墓跡が発見されている。伝祥応寺跡は国分尼寺跡北方の台地上にあり、切通しの西に土塁と礎石建物・土坑墓跡が発掘されており、西には小高い塚が残されている。この2寺跡の存在は国分寺を中心に宗教活動が続けられていたことを示している。
この時期の文化財として府中市善明寺の鉄仏(国の重要文化財)がある。像高170.3㎝、380㎏という現存する最大の鉄仏である。左襟と左袖に銘があり、藤原姓の3名の女性が亡き父母の供養等を願って建長5年(1253)に建立、作者は黒鉄谷(くろがねやつ)の藤原助近とある。この像は江戸後期には六所宮にあったが明治の神仏分離により善明寺に移されたものであり、それ以前は現在の国分寺の地にあったと伝えられている。
一説には、国分寺の恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女との伝説に絡み、遊女の死を悼んだ畠山重忠が造立したと伝えられるが、畠山重忠の没年は1205年であり年代が合わない。有力なのは黒鉄谷・伝祥応寺旧在説である。重い鉄仏を遠方から運ぶことも考えにくく、伝祥応寺跡・尼寺跡近辺には今も「黒鐘」の地名が残っていることから、善明寺の鉄仏はそこに存在していたものである蓋然性が高い。

 以上のように、中世については発掘調査により少しずつ判明してきているが、国分寺については遺跡中心部での考古情報が少なく、13~14世紀が空白期となっている。今後は鉄仏の鋳造遺構が発掘される可能性もあり、現在の国分寺周辺をはじめ崖線下の発掘に期待したい。

 以上で先生のお話は終了したが、ご講演は我々の学習の空白部分を補っていただくに余りある内容であり、今も先生の張りのあるお声が耳に残る第100回記念にふさわしい素晴らしいご講演であった。               (文責 星野信夫)

 

【歴】第99回 歴史をひもとく会 開催報告

古代武蔵国のなりたち

 12月17日(土)午後2時より、国分寺市立もとまち公民館の視聴覚室にて、歴史をひもとく会第99回例会が開催された。お迎えした講師は、慶應義塾大学文学部准教授の十川陽一先生である。
演題は先生の専門である古代史の中から、我々にも馴染みの深い「古代武蔵国のなりたち」という興味深いもので、46名が出席する盛会となった。6ページにもわたる豊富なレジュメとパワーポイントのスライドを駆使しての濃密な内容で、明るく情熱的な語りで参加者を引き込んでいった。

<講師紹介>十川陽一氏紹介写真

十川 陽一氏  慶應義塾大学文学部 准教授
1980年生まれ
2003年(平成15年) 慶應義塾大学文学部史学系日本史学専攻卒業
2010年 博士(史学)
2019年~ 慶應義塾大学文学部准教授

<講演内容>

 古代武蔵国は、現在の東京都・埼玉県・横浜市(南西部を除く)にわたる広大な領域を持つ国であり、『延喜式』によれば、多磨・都築・久良・橘樹・荏原・豊島・足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・賀美・児玉・那珂・秩父の21郡を所管する東海道の大国となっている。
この地域が最初に歴史に登場するのは埼玉古墳群の稲荷山古墳鉄剣銘で、この地域の豪族が「杖刀人首」として大王宮に奉仕したことがしるされている。
また、『先代旧事本紀』所引の国造本紀には无邪志、胸刺、知々夫の三国造が記されており、前2者の読みは「むさし」だと考えられ、国造に就任しうる氏族が2氏あり、1氏に絞ることができなかった可能性がある。
そして、『日本書紀』に武蔵の国造使主(おみ)と同族の小杵(おき)が国造の地位をめぐって争い、朝廷は使主を国造として小杵を誅したこと、乱の終息後、朝廷の直轄地であるミヤケを設置したことがしるされている。朝廷はこのように地方の内乱に介入することで、その影響力を強めていったと考えられる。
使主は北武蔵の豪族と考えられる一方、小杵は諸説あるが南武蔵の豪族とする説もある。当時、武蔵は東山道に属しており、主要な交通路は北武蔵から関東の中心であった上野(こうずけ)へと通じていたと考えられる。使主の勝利は朝廷の介入によるものだったが、朝廷も北武蔵を重視していたのかもしれない。
この状況は8世紀頃から変化してくる。それまでは東山道から北武蔵を経て南武蔵や相模へ行き、再び同じ道を北武蔵へと引き返してから上野へ向かうものだったが、東海道から相模、南武蔵、武蔵国府を経て東山道と合流するルートが成立してくるのである。南のルート上には国府はないもののいくつかの郡家が点在しており、人や物資の行き来があったのが、東海道と東山道を結びつける、駅路として認知されるようになっていったと考えられる。

『続日本紀』宝亀2年(771)10月己卯条 _

太政官奏すらく、武蔵国、山道に属すといえども、兼ねて海道を承け、公使繁多にして、祗供堪へ難し。其れ東山駅路、上野国新田駅より、下野国足利駅に達る。此れ便道なり。而るに枉まがりて上野国邑おは楽らぎ郡より五箇駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日に、また同じき道を取りて、下野国に向ふ。今東海道は、相模国夷い参さま駅より下総国に達るまで、其の間四駅にして往還便はち近し。而して此を去りて彼に就くこと、損害極めて多し。臣等商量するに、東山道を改めて、東海道に属さば、公私所を得て、人馬息ふこと有らむ。奏するに可とす。

 そこで、話題としたいのがKeio Museum Commonsの建設に伴って調査された三田二丁目町屋遺跡である。この遺跡からは古代の掘立柱建物と溝状遺構が検出され、円面硯など多くの遺物が出土した。溝状遺構は古代の官衙や豪族の居館の存在を示し、硯など出土も考えるとなんらかの官衙である可能性が考えられるのである。武蔵国分寺においても「三田」銘瓦も出土しており、三田が重要な地であった可能性がある。
ただ、南武蔵では荏原に有力郡家があったと考えられている。影向寺出土瓦から 7 世紀後半には荏原評の存在が確認できることに加え、隣接する橘樹郡の影向寺造営に関与するなど、大宝令以前の南武蔵における橘樹郡を核とした地域の繋がりも窺える。また、万葉集にも以下の歌がおさめられている。

『万葉集』巻 20(防人歌)

(4415)白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
右一首、主帳荏原郡物部歳徳

(4416)草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我は紐解かず寝む
右一首、妻椋椅部刀自売

(4418)我が門の片山椿まこと汝我が手触れなな地に落ちもかも
右一首、荏原郡上丁物部広足

上の歌には物部の名が見られるが、荏原郡内には当時の有力氏族である物部氏の分布が確認されており、主帳など郡司層との関連も指摘されている。
従って、三田二丁目町屋遺跡は郡家ではないものの駅等の官衙施設として新しい東海道からの南ルートの一翼を担っていたのかもしれない。

講師紹介

講師紹介

講演する 十川氏

講演する 十川氏

 

 

 

 

 

聴講者は満席でした

聴講者は満席でした

講演する 十川氏

講演する 十川氏

【歴】第98回 歴史をひもとく会 開催報告

会員による歴史談義

歴史をひもとく会第98回例会(会員による歴史談義)が、 秋の青空が爽やかに広がった10月29日(土)国分寺本多公民館において、感染対策に十分に留意して開催されました。出席者35名。第一部は、樋口稔さんによる「私の音楽愛好史」、第二部は車伸一さんによる「東京23区に残る中世の主な城跡」でした。

 

第一部 「私の音楽愛好史」IMG_5047 (2)

講師:樋口 稔(昭和45年経済学部卒業)

昭和45年経済卒(駒場東邦高校)
青沼ゼミ
スキーやゴルフの名手、知る人ぞ知るクラシック音楽の愛好家です!

樋口さんの自分史のなかでクラシカル音楽との出会いについての説明し、それと対比して音楽の歴史に係る説明がなされた。特にピアノに関連する話を中心に短い4曲をカセットデッキに収録し披露して、これ枕に話を展開して説明した。

1曲目 「愛国行進曲」(昭和12年国民精神総動員令によって一般公募され国民歌謡唱となり日本初のミリオンヒットとなった)は小学校入学前に自宅の手回しの壊れかけた蓄音機でこの曲を聞くと気持ちがよくなり気に入っていた。しかしお母さんからは懸けてはダメと言われていた。

2曲目 SP盤は収録時間が短く楽曲の途中で途切れ音質の低下も著しいがピアノについてはレコード録音に代わる自動ピアノがあり紙のロールに記録していた。「パデレフスキーの自作自演のメヌエット」(20世紀最大のピアニストとも評され又、ポーランドの初代大統領でもある)。

3曲目 お母さんのピアノ教室で生徒が弾いた最も印象に残る曲「ハイドン ピアノソナタ37番第1楽章 エッシェンバッハの演奏」ハイドンの時代はクラビィーア楽曲でありチェンバロ=ハープシュコードで演奏され音量、音色が異なる。今エッシェンバッハが指揮者としても大活躍している。

4曲目 ウクライナ侵攻はクラシカル音楽界にも影響が出て国際コンクール連盟からチャイコフようスキーコンクールは除名された。ウクライナは世紀の大演奏家を輩出している。最後に早期の停戦を願ってウクライナ出身のヴァイオリンニスト アイザック・スターンの演奏で「クライスラー作曲 クープランのスタイルによる”才たけた貴婦人“」(樋口さんがクライスラーの中では最も好きな曲)で締め括った。

 

第二部 「東京23区に残る中世の主な城跡」IMG_5060 (2)

 講師:車 伸一(昭和46年経済学部卒業)

昭和46年経済卒(慶應義塾高校)
体育会 フェンシング部
歴史散歩の案内人を務めるなど、江戸のまち歩きの達人ですが、今回のテーマは中世(室町~戦国)です。

まず日本の城について、空堀と土塁で構成されていた中世の土の城と、天守が聳え石垣で囲まれた近世(安土城以降)の石の城との違いについて解説があり、現在の東京23区の中には戦国時代まで約100の中世の城があったといわれていること、その中から今日は12の城について紹介する旨が述べられた。
次に中世(室町時代から戦国時代)の関東の政治体制とその動きについて、28年も続き関東における戦国時代の始まりといえる享徳の乱および長尾景春の乱を中心に語られ、その中で今日紹介される12の城がこの2つの乱とどう関係していたか、扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌がこれらの乱においていかに活躍したかについて簡潔に触れられた。
その後、いよいよ城跡の紹介となり、太田道灌が築城した江戸城(千代田区)、稲付城(北区)、豊島氏の城であった石神井城(練馬区)、練馬城(練馬区)、平塚城(北区)、道灌(扇谷上杉氏)が千葉氏に与えた赤塚城(板橋区)、志村城(板橋区)、石浜城(荒川区または台東区)、千葉氏が築いた中曽根城(足立区)、板橋氏が築きその後千葉氏に属した板橋城(板橋区)、足利一門の名家奥州吉良氏が築いた(世田谷城世田谷区)と奥沢城(世田谷区)の12の城について、築城者、築城時期、城跡の地形、主な城主、前述の2つの乱との関係、廃城となった時期と理由、城跡の現在地について、自らが撮影した写真と共に一つ一つ詳細な紹介があった。
参加者からは、現在の東京都心部にこれほど多くの城があったとは知らなかった。一度案内して欲しい等の声が聞かれた。

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< 次回の例会 >

令和4年12月17日(土)  もとまち公民館 14:00~

講師  十川陽一  慶應義塾大学文学部准教授
演題  「古代の武蔵国のなりたち」
会員の皆さんには、準備出来次第ご案内いたします。

 

【歴】第97回 歴史をひもとく会 開催報告

源氏物語の新解釈

―醜女末摘花と夕顔怪死事件の真相―

IMG_4798 (2) 7月30日(土)午後2時より国分寺市立四小の「ホールひだまり」にて、歴史をひもとく会第97回例会が開催された。久しぶりに外部からお迎えした講師は井真弓(いのもとまゆみ)先生。東京女子大で国文学を学び大阪大学で博士号を取得され、現在は東京女子大・法政大等で講師をされている。

 演題は「源氏物語の新解釈―醜女末摘花と夕顔怪死事件の真相―」と興味深いものであったが、コロナ禍と猛暑ということもあり、出席はいつもより若干少なめの36名。8ページにわたる豊富な資料を用意され、明るく歯切れ良い口調で講義が始まった。まずは「第一部、醜女末摘花の真実の姿とは」である。

 源氏物語は映画・ドラマで何度も演じられているが、光源氏が愛した紫上や藤壺は大原麗子のような美女が演じるのに、末摘花は泉ピン子というように源氏物語きっての不美人という扱いを受けている。そのような女性が何故に当代きっての人気者である光源氏の相手となり得たのだろうか。光源氏は生涯にわたり多くの女性と愛を深めるが、そのきっかけは様々である。末摘花の場合、父が常陸宮(親王)で母もやむごとなき筋の方ということから、光源氏は興味を抱き始める。

 先生は末摘花の真実の姿を様々な観点から明らかにしていく。持ち物(七絃の琴、秘色の器,鏡台の唐櫛笥や唐櫃、香)や装束(衣服が白茶けている、毛皮に執着する等)にふれた後、いよいよ問題の「容貌」の話に入る。まず高身長・色白で額は突起していて面長、鼻は「普賢菩薩の乗り物(象)のように長い、鼻高で先が赤色」と表現する。ここで、末摘花の「花」は「鼻」を暗示しているのだと理解できる。末摘花の顔立ちの表現は、来日した外国人(インド人の菩提僊那、ソグド人の安如宝等)から考え出されたのかもしれないとのお話に納得。

 末摘花の性格については、一途さ(貞節)、控えめ、従順、父への孝心(遺訓順守)を挙げ、さらに「昼寝の夢に故宮(末摘花の父)の見えたまひければ」とあるように、性格形成の要因に「亡き父の霊力」があるのではないかと指摘された。また、光源氏が須磨退去後に末摘花を訪ね、あまりの零落した姿に驚いて手厚い支援を進めた心境として「人の心ばへ(本性)を見たまふに、あはれに思し知る」(蓬生巻)ということがあったのではないかと説明された。最後に、雨夜の品定めで左馬頭(さまのかみ)が「女性の美徳は容姿ではなく心根の強さ」と述べている点にもふれ、二人の出逢いについて蓬生巻の最後の言葉「昔の契り(前世からの因縁)なめりかし)」と締めくくられたのが印象的であった。

 休憩を挟んで第二部は「夕顔怪死事件の真相とは」に入る。夕顔とは光源氏の乳母の隣家に住む女性で板塀に咲く白い夕顔の花にちなんで名づけられている。

 夕顔との逢瀬を重ねるうちに、源氏は彼女を牛車に乗せ隠れ家(五条近くの古びた院)に連れ込む。とある晩、夕顔と二人で寝入っていたところ枕元に「いとをかしげなる女(物の怪)」が現れ「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで・・・」とつぶやいた。夕顔はあまりの恐怖に命を失うのだが、この物の怪の言葉をどう解釈するかで正体は異なる。

 従来の口語訳では「私がまことに立派な方とお慕い申し上げているのに(源氏が六条御息所のもとを)尋ねようともお思いにならず」というように、物の怪の正体を六条御息所ととらえる解釈ばかりであった。しかし、文法的には「私がまことにご立派と考えるお方(六条御息所)を源氏は尋ねようともお思いにならず」と解釈できる、すなわち文法的に解釈すると「私(物の怪)」は六条御息所ではないと先生は述べられた。

 夕顔の命を奪った物の怪の候補としては、A「廃院のあやかし」、B「六条御息所の生霊」、C「AとBの融合」、D「源氏の心の鬼(良心の呵責)」が従来考えられてきたが、先生の文法的解釈をふまえれば、定説のBは考えられず他のいずれか、あるいはそれらの融合と考えられる。

 Aの「廃院」とは源氏が夕顔との逢瀬の場とした隠れ家(古びた院)のことだが、その院は光源氏のモデルと考えられている源融(みなもととおる)の邸宅「河原院」が廃院となったことを想定していると考えられる。源融は陽成天皇退位の際に皇位継承権を主張したが、藤原基経により臣籍降下して源姓となったものが皇位を継承したことはないと退けられている。つまり、廃院となった河原院には源融の怨念すなわちあやかし(妖怪)がこもっていると考えられるのである。また先生は物の怪の怒りの理由として、桐壺帝が六条御息所との付き合いを軽く考えている光源氏をたしなめる言葉を挙げられた。次から次へと恋の相手を代える源氏ではあるが、さすがに父の言葉は心に響きDの心の鬼(良心の呵責)へと繋がったのだろう。

 すなわち、夕顔怪死事件は「六条御息所の生霊」だけの仕業ではなく、「六条御息所の生霊、廃院のあやかし、源氏の心の鬼」が複合した物の怪によるものだったのである。そのほかにも先生のお話は登場人物と史実との重ね合わせや六条御息所と明石の君との類似性などにも及び、興味深く熱い語りが続き、出席者一同圧倒されるうちに予定を30分ほど超過して講演は終了した。

(文責、星野信夫)

【歴】第96回 歴史をひもとく会 開催報告

会員による歴史談義・江戸の食文化

 第96回例会(会員による歴史談義)が、3月12日(土)国分寺公民館ホールにおいて出席者55名、感染対策に十分に留意して開催されました。講師は沼野義樹さんと菅谷国雄さんです。当初、昨年7月に開催する予定でしたが、コロナ禍の影響で延期を重ね、3月の開催となりました。
 最初に星野世話人代表よりあいさつがあり、4度目の正直でついに開催できたことへの感謝の言葉とパックス・トクガワーナとも言える260年余りの江戸時代の平和が日本独自の文化である俳句や浮世絵、和食を生み出したとのお話がありました。続いて、お二人の講師による魅惑的な歴史談義が始まりました。

 

第1部 「江戸の食文化・江戸の料理を学ぶ」

講師:沼野義樹(昭和48年経済学部卒)IMG_4615 (2)

昭和48年経済卒(桐朋高校)

 

尾崎ゼミ  考古学研究会
国分寺三田会幹事
La Madre Cooking(料理の会) 代表世話人
江戸料理本(豆腐百珍など)を参考に江戸町人の料理を調理再現
料理人の知恵に学び調理を知的に楽しむ

 最初に江戸の食材と調味料について深い研究成果が披露され、続いて江戸町人の食生活が具体的に生き生きと描かれ、最後に沼野さんが実際に復元調理された江戸料理の数々が実物の写真と共に紹介され、江戸時代にタイムスリップして食べ歩いているかのような豊かな気持ちとなってお話が終わりました。
 江戸時代の町人の食事の特徴は地域に根ざした食材と発酵食品をうまく使ったことにあるそうです。
 地域に根ざした食材は幕府の政策と深い関わりがあったそうです。魚介に関しては、幕府が摂津の漁師を招いて佃島を開いたことにより、上方の優れた漁法が定着し、種類、量とも豊富に供給されるようになりました。クロダイ、カレイ、スズキ、イワシ、アジ、コハダ、シラウオ、マグロなどの海水魚、ウナギ、ドジョウなどの淡水魚、シジミ、アサリ、ハマグリといった貝類が食卓を彩ったようです。
 また、野菜については幕府が摂津農民を招き、進んだ農業技術を広めたことに加え、諸藩が地元の農民を呼び寄せたことなどもあり、品質の良い野菜が作られるようになり、将軍家に献上したことからブランド野菜が誕生したようです。夏野菜を3月に献上したりしたため、初物フィーバーの起源となったそうです。小松菜、練馬大根、砂村ネギ・ナスなどが知られるようになりました。砂村では魚河岸の生ごみの発酵熱を利用した促成栽培が行われたり、江戸の下肥を肥料として効率的に利用する仕組みができ、野菜の栽培が発展したようです。下肥は良い物を食べている家の下肥が高く買われたという面白い話もありました。また、下肥の収入は大家の収入となり、それによって正月に店子にもちがふるまわれたりしたそうです。
 続いて、これらをどのように調理したか、調味料や味についての興味深いお話が続きました。江戸時代初期には肉体労働者が多かったため、塩辛いものが好まれ、上方のものが優勢だったのですが、中期以降は生活が安定したのと、町人が甘さを知ったことで、甘辛いものが好まれるようになり、同時に江戸のものが広まりました。
 江戸の味の中心となったのが濃口醤油と甘味噌で、これに砂糖や鰹節が加わって、そば、うなぎ、にぎりずし、天ぷら、ドジョウ鍋に欠かせない調味料となり、これが現代まで続いているわけです。
 続いて、お話は江戸町人の食生活に移っていきました。
 江戸町人の生活に欠かせないのがお酒です。酒については上方からの下りものがずっと好まれたようで、特に灘の酒は人気があったようです。高価なので、薄めて出されることが多く、アルコール度は4〜5度程度だったそうで、7〜8升の大酒飲みが良く話にでてきますが、かなり割り引いて聞く必要がありそうです。

 元禄時代には1日3食が定着したようで、男は1日4〜5合の白米を食べていたようで、カッケにかかるものが多く、江戸患いなどと言われていたようです。『守貞漫稿』という書物によると、飯は朝にまとめて炊き、朝は味噌汁とつけもの、昼は冷や飯とおかず、夜は茶漬けか粥とつけものが一般的だったようです。
 また、江戸は男の人口が過剰で独り者も多かったことから、外食産業が発達しました。高級料亭もありましたが、水茶屋、屋台見世、一膳飯屋、煮売茶屋、居酒屋などがどこに行っても見られるようになりました。一膳飯屋では当時人気の奈良茶飯や深川飯などが売られ、屋台見世は立ち食いも多かったようで、天ぷら、そば、すしが売られました。居酒屋は酒の小売りが、店頭でも飲めるようになり、やがて肴も提供するようになり居酒屋となりました。豊島屋が有名でした。
 江戸で人気の食べ物はそば切り、かばやき、天ぷら、にぎりずし、ドジョウ、初物だそうで、それに関わる面白い川柳が話題にされました。(「丑の日にかごでのりこむ旅うなぎ」)
 お話の最後に沼野さんが実際に復元調理された料理が写真と共に紹介され、思わずお腹が鳴ってしまった人も多かったようです。奈良茶飯、スズキの鮭焼き、鰻もどき、利休卵など十数種類に及び、食欲をそそったところで第1部は終了しました。
 沼野さんは伝統ある慶應義塾大学考古学研究会に所属されていたのですが、慶應考古学の実証的精神が深く感じられるお話でした。

 

第2部 「江戸の食文化・そば切り今昔」

講師:菅谷国雄(昭和37年経済学部卒)IMG_4649 (2)

昭和37年経済卒(慶応高校)
島崎ゼミ  ワンダーフォーゲル部(KWV)
国分寺三田会 第4代会長
福沢諭吉読書会
蕎麦切り30余年
ゴルフ他趣味多彩

 菅谷さんは、二百数十年に及ぶ平和の時代、パックス・トクガワーナが生み出した日本文化は必ず後世に継承しなければならない貴重な財産であり、その中の一つとしてそばを取り上げられました。300年近い平和が人類史の中でいかに稀有のものかは、他にはクレオパトラで知られるプトレマイオス朝の260年の平和があるくらいである。それほど稀有なものであるから、そこから生まれたものも人類全体の財産と言っても良いくらい貴重なものであるというお話でした。
 そばのルーツは諸説あるが、奈良時代の遣唐使が持ち帰った粉製品が僧侶の精進料理として食されたのが始まりとされるそうです。その後、伊吹山中腹の太平護国寺で水田に適さない傾斜地で、救荒食物としての蕎麦が栽培されたが、ここは昼夜の寒暖差が大きく蕎麦の栽培に適していて美味であり、客人にも評判となり、彦根藩から江戸幕府に献上されたという記録があるそうです。室町・戦国時代までは小麦粉に混ぜて、団子や蕎麦がきとして食べられていましたが、江戸時代になってそば切りが流行するようになり、江戸時代末期には食べ物屋6000軒のうち、3000軒の蕎麦屋があったと伝えられています。蕎麦の普及については、そばによって江戸患いと言われたカッケを克服しようとしたという説を批判的に紹介され、そばの普及は江戸町人の嗜好という文化的要因ではないかと推測されました。
 お話の中では人口学について言及があり、平和が続いた江戸時代に非常に人口が増加し、これが江戸文化の創造に大きく貢献したということが紹介されました。
 最後は、柳家小さんの「時そば」を聞き、大いに笑うと共に、江戸文化がどれほど現代人にも根付いており、また継承していかなければならないかを実感して素敵な時間が終わりました。菅谷さんのお話には、なにか落語家のはなしのような雰囲気が感じられて引き込まれ、伝統というものの意味を感じさせられました。

 

【歴】第95回 歴史をひもとく会 開催報告

皇居東御苑への歴史散歩

コロナ禍に見舞われる前、歴史をひもとく会では年に1度「歴史散歩」と称して歴史を訪ね遠方に出かけることを恒例としていました。今回も当初は足利への歴史散歩を計画していましたが延期を余儀なくされ結局中止。5月には、近場の皇居東御苑へと変更しましたがこれも延期。
IMG_4482 (2) 12月16日、素晴らしい好天のもと、ついにやりました! 3度目の正直です!
午前10時半大手門前に集合、好天に恵まれ定刻には全員29名が集合。
案内人の車伸一さん手作りのレジュメと東御苑のパンフレットを配布。入り口では厳重な手荷物チェックとコロナ対策。すぐに車さんの名調子で解説が始まります。
詳しいはずです。車さんは知る人ぞ知る「江戸城天守を再建する会」の小平支部長ですから。
(左写真、車さんの説明に耳傾ける参加者)
当日は、大手門(東御苑内へ)~大手三の門(同心番所)~百人番所~中之門~大番所~中雀門~富士見櫓~松の大廊下跡~本丸跡(大芝生)~富士見多聞~大奥跡~天守台~寛永度天守模型~本丸休憩所(休憩)~展望台~汐見坂~白鳥壕~二の丸雑木林~新雑木林~二の丸庭園~諏訪の茶屋~都道府県の木~平川門~竹橋門跡~清水門(北の丸公園へ)~田安門と回りました。
車さん用意の膨大なレジュメの中から、ごく一部を紹介し当日を再現してみましょう。
そもそも皇居東御苑とは、将軍の住まいと政務の場である本丸御殿があった江戸城の核心部分で、面積は11,373坪、他に天守・大奥などがありました。
大手門最初の大手門(右写真)は江戸城の正面玄関、大名登城の際はここから大手三の門、中之門、中雀門と四つの門を通って本丸御殿にたどり着きました。大手三の門は下乗門とも呼ばれ、駕籠に乗ったまま通れるのは尾張・紀伊・水戸の御三家だけで他の大名はここで降ろされました。お供の者はここで主人の帰りを待ちながら情報交換をしたそうで、それが「下馬評」の語源との説明に、一同「なるほど!」と大喜び。
中之門の石垣は江戸城の中でも最大級の巨石が使用され、目地の殆どない、整層・布積みの石垣は「凄い!」の一言。こんな巨大な石をどうやって運びどのように設置したのか、当時の人たちの技術力に圧倒されるばかりでした。
途中には、同心番所・百人番所・大番所があり入城のチェックを受けます。
百人番所には忍者で知られる伊賀組・甲賀組・根来組などが詰めていました。忍者も平時にはこんなふうに活躍していたんですね。
富士見櫓左写真は江戸城に残る三つの櫓のうち、唯一本丸地区に残る「富士見櫓」です。江戸城遺構として残る唯一の三重櫓で、現存する櫓は、1657年の明暦の大火で焼失後、1659年に再建され、再建後は天守の代わりとして使用されていました。残念ながら当日は途中工事中で見ることができませんでした。浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「松の大廊下跡」を過ぎると本丸跡・大奥跡の大芝生が目に飛び込んできます。今は何もない芝生を見ながら、ここで展開されたであろう様々なドラマに思いを馳せました。

 

 

 

 

天守台前広場より

 

右写真は「天守台」です。江戸城天守はまず家康が築き、秀忠・家光がそれぞれ建て直しましたが、冨士見櫓同様に明暦の大火で焼失、天守台は前田家が再建しましたが、天守の工事は「江戸の町の再建に金を回せ」という将軍後見役の保科正之(会津藩主)の建言で行われませんでした。車さんはその再建をめざしているのです!

 

 

 

寛永度天守模型などを見学した後、左写真は紅葉残る雑木林に向かう一行です。昭和天皇のご意向で自然のままに残された武蔵野の雑木林が懐かしさを感じさせてくれました。都道府県の木を見学し平川門(桜田門、大手門と並ぶ江戸城三大門)から東御苑を出て、竹橋門跡・清水門跡を経て、田安門に向かいます。
清水門・田安門の門内には、かつて清水家・田安家(8代将軍吉宗が創設した御三卿)の屋敷がありました。
田安門から城内を出ると土橋の右側は牛ケ渕、左側は千鳥ヶ淵。千鳥ヶ淵の水位の方が約10m高くなっています。内堀の一部ではありますが、「淵」と呼ぶのはダムの意味だそうで、家康が江戸に入った直後に自然河川を堰き止めて飲料水用の貯水池を造ったことがその起源です。

楽しかった歴史散歩もここで終了、車さんに感謝し記念写真を撮って名残を惜しみつつ解散しました。

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次回は3月12日「歴史談義(講師は菅谷・沼野両会員)」です。

(文責=星野、撮影=斎藤・車・塚原)

【歴】第94回 歴史をひもとく会 開催報告

江戸~明治、多摩・国分寺界隈の村々と人々

第94回例会(講演会)が、12月5日(土)国立のエソラホールにおいて出席者32名で開催されました。講師は歴史をひもとく会代表世話人の星野信夫さんです。本講演会は、当初7月に開催する予定でしたが、コロナ禍の影響で3月に予定していた塚原正典さんの講演が延期を重ね10月開催となったため、12月の開催となったものです。 今回も、公民館ではコロナ感染対策のため入場可能人数が限定されるため、10月の第93回に続いて、国立駅前のエソラホールで開催としました。同ホールは、比較的換気も可能で、収容人数がある程度見込める会場です。

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< 講師紹介 >

1944年、国分寺町(市)生まれ。
昭和42年経済部卒
現在は国分寺市観光協会会長。

 

< 講演内容 >

今回の講演の主題は、江戸から明治にかけての多摩・国分寺がどのように発展してきたのか、またどのような社会であったのか、それはどのような人々に支えられてきたのかということでした。歴史をひもとく会の今年度のテーマは「江戸」としていますので、星野さんには今までの講演続きという講演となりました。

講演は、まず多摩地区が、鎌倉時代から江戸時代にかけてのほとんどの時代が幕府の直轄地であったということから始まりました。途中、後北条氏の統括の時代があったとのことですが、それを除くと幕府の直轄地であったとのことです。話が12世紀の終りから19世紀の半ばの明治時代へと、約800年間のお話しとなりました。

話しの中心は江戸時代の多摩・国分寺界隈がどのように開発されて来たかということでした。講師の話にも熱がこもり、会場もそれに反応するように食い入るように聴講し、あっというまに1時間が経過し、換気・トイレ休憩となりました。休憩時には、会場の天窓も開放しやや冷たい空気がさっと会場をながれ、換気がされているという実感がありました。休憩後は、一気に幕末から明治にかけての流れの話になり、講演終了予定時刻(正午)を33秒超過したところで、講演予定内容のすべてのお話が終わりました。

講演にあたっては、時節柄、マスクをしたままでの講演をお願いしましたが、持ち前の声質・声量で会場に十分届き、時には得意の歌声も挟んでの講演でした。

講演資料として、A4で6ページにわたるレジュメが配られ、また適宜ホワイトボードを使っての説明に、聴講者が迷子になることもなく、講演についていくことが出来ました。講演終了とともに大きな拍手となりました。

 

[ 講演内容の概要 ]

講演は、7つの単元から構成されていました。

単元1は、多摩地区が、鎌倉時代から江戸時代にかけて、幕府の直轄地あったこと、そして徳川家薬の鷹狩の地であるとともに、江戸の街にとっての水・食料その他いろいろな物資の供給地であったことの説明でした。
単元2は、多摩地区に村々が開発に伴い出来てきたわけですが、開発時期により3つの時期にわけてその特徴が説明されました。その時期は、第1期は街道に沿って、第2期は玉川上水の利用、そして第3期は享保の改革による新田開発の奨励ということでした。
単元3では、江戸の街との交流や多摩の村々を支えた人々の話でした。その中には、近藤勇の流派でも知られる「天然理心流」の話も出てきました。
単元4は激動する幕末の多摩として、明治維新の直前から維新までの話、そして単元5は明治維新により新政府の動きがどう影響したというお話でした。
単元6は、多摩地区における「自由民権運動」の話、そして、最後の単元7では、国分寺地域の各村から、合併による大きな村への流れ、その中には国分寺村、小金井村の成立もありました。そして、「多摩」が神奈川県から東京府に移管された話で終わりました。

 ※ 当日会場で配布したレジュメは、会員専用頁(分科会)に掲載しています。

 

入場時に手の消毒と検温を実施しました

入場時に手の消毒と検温を実施しました

ホワイトボードを使っての講演

ホワイトボードを使っての講演

 

 

 

 

 

 

 

講演受講の様子 椅子と椅子の間隔を保持

講演受講の様子 椅子と椅子の間隔を保持

講演終了後、各自椅子をアルコール消毒

講演終了後、各自椅子をアルコール消毒