【歴】第98回 歴史をひもとく会 開催報告

会員による歴史談義

歴史をひもとく会第98回例会(会員による歴史談義)が、 秋の青空が爽やかに広がった10月29日(土)国分寺本多公民館において、感染対策に十分に留意して開催されました。出席者35名。第一部は、樋口稔さんによる「私の音楽愛好史」、第二部は車伸一さんによる「東京23区に残る中世の主な城跡」でした。

 

第一部 「私の音楽愛好史」IMG_5047 (2)

講師:樋口 稔(昭和45年経済学部卒業)

昭和45年経済卒(駒場東邦高校)
青沼ゼミ
スキーやゴルフの名手、知る人ぞ知るクラシック音楽の愛好家です!

樋口さんの自分史のなかでクラシカル音楽との出会いについての説明し、それと対比して音楽の歴史に係る説明がなされた。特にピアノに関連する話を中心に短い4曲をカセットデッキに収録し披露して、これ枕に話を展開して説明した。

1曲目 「愛国行進曲」(昭和12年国民精神総動員令によって一般公募され国民歌謡唱となり日本初のミリオンヒットとなった)は小学校入学前に自宅の手回しの壊れかけた蓄音機でこの曲を聞くと気持ちがよくなり気に入っていた。しかしお母さんからは懸けてはダメと言われていた。

2曲目 SP盤は収録時間が短く楽曲の途中で途切れ音質の低下も著しいがピアノについてはレコード録音に代わる自動ピアノがあり紙のロールに記録していた。「パデレフスキーの自作自演のメヌエット」(20世紀最大のピアニストとも評され又、ポーランドの初代大統領でもある)。

3曲目 お母さんのピアノ教室で生徒が弾いた最も印象に残る曲「ハイドン ピアノソナタ37番第1楽章 エッシェンバッハの演奏」ハイドンの時代はクラビィーア楽曲でありチェンバロ=ハープシュコードで演奏され音量、音色が異なる。今エッシェンバッハが指揮者としても大活躍している。

4曲目 ウクライナ侵攻はクラシカル音楽界にも影響が出て国際コンクール連盟からチャイコフようスキーコンクールは除名された。ウクライナは世紀の大演奏家を輩出している。最後に早期の停戦を願ってウクライナ出身のヴァイオリンニスト アイザック・スターンの演奏で「クライスラー作曲 クープランのスタイルによる”才たけた貴婦人“」(樋口さんがクライスラーの中では最も好きな曲)で締め括った。

 

第二部 「東京23区に残る中世の主な城跡」IMG_5060 (2)

 講師:車 伸一(昭和46年経済学部卒業)

昭和46年経済卒(慶應義塾高校)
体育会 フェンシング部
歴史散歩の案内人を務めるなど、江戸のまち歩きの達人ですが、今回のテーマは中世(室町~戦国)です。

まず日本の城について、空堀と土塁で構成されていた中世の土の城と、天守が聳え石垣で囲まれた近世(安土城以降)の石の城との違いについて解説があり、現在の東京23区の中には戦国時代まで約100の中世の城があったといわれていること、その中から今日は12の城について紹介する旨が述べられた。
次に中世(室町時代から戦国時代)の関東の政治体制とその動きについて、28年も続き関東における戦国時代の始まりといえる享徳の乱および長尾景春の乱を中心に語られ、その中で今日紹介される12の城がこの2つの乱とどう関係していたか、扇谷上杉氏の家宰であった太田道灌がこれらの乱においていかに活躍したかについて簡潔に触れられた。
その後、いよいよ城跡の紹介となり、太田道灌が築城した江戸城(千代田区)、稲付城(北区)、豊島氏の城であった石神井城(練馬区)、練馬城(練馬区)、平塚城(北区)、道灌(扇谷上杉氏)が千葉氏に与えた赤塚城(板橋区)、志村城(板橋区)、石浜城(荒川区または台東区)、千葉氏が築いた中曽根城(足立区)、板橋氏が築きその後千葉氏に属した板橋城(板橋区)、足利一門の名家奥州吉良氏が築いた(世田谷城世田谷区)と奥沢城(世田谷区)の12の城について、築城者、築城時期、城跡の地形、主な城主、前述の2つの乱との関係、廃城となった時期と理由、城跡の現在地について、自らが撮影した写真と共に一つ一つ詳細な紹介があった。
参加者からは、現在の東京都心部にこれほど多くの城があったとは知らなかった。一度案内して欲しい等の声が聞かれた。

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< 次回の例会 >

令和4年12月17日(土)  もとまち公民館 14:00~

講師  十川陽一  慶應義塾大学文学部准教授
演題  「古代の武蔵国のなりたち」
会員の皆さんには、準備出来次第ご案内いたします。

 

【歴】第97回 歴史をひもとく会 開催報告

源氏物語の新解釈

―醜女末摘花と夕顔怪死事件の真相―

IMG_4798 (2) 7月30日(土)午後2時より国分寺市立四小の「ホールひだまり」にて、歴史をひもとく会第97回例会が開催された。久しぶりに外部からお迎えした講師は井真弓(いのもとまゆみ)先生。東京女子大で国文学を学び大阪大学で博士号を取得され、現在は東京女子大・法政大等で講師をされている。

 演題は「源氏物語の新解釈―醜女末摘花と夕顔怪死事件の真相―」と興味深いものであったが、コロナ禍と猛暑ということもあり、出席はいつもより若干少なめの36名。8ページにわたる豊富な資料を用意され、明るく歯切れ良い口調で講義が始まった。まずは「第一部、醜女末摘花の真実の姿とは」である。

 源氏物語は映画・ドラマで何度も演じられているが、光源氏が愛した紫上や藤壺は大原麗子のような美女が演じるのに、末摘花は泉ピン子というように源氏物語きっての不美人という扱いを受けている。そのような女性が何故に当代きっての人気者である光源氏の相手となり得たのだろうか。光源氏は生涯にわたり多くの女性と愛を深めるが、そのきっかけは様々である。末摘花の場合、父が常陸宮(親王)で母もやむごとなき筋の方ということから、光源氏は興味を抱き始める。

 先生は末摘花の真実の姿を様々な観点から明らかにしていく。持ち物(七絃の琴、秘色の器,鏡台の唐櫛笥や唐櫃、香)や装束(衣服が白茶けている、毛皮に執着する等)にふれた後、いよいよ問題の「容貌」の話に入る。まず高身長・色白で額は突起していて面長、鼻は「普賢菩薩の乗り物(象)のように長い、鼻高で先が赤色」と表現する。ここで、末摘花の「花」は「鼻」を暗示しているのだと理解できる。末摘花の顔立ちの表現は、来日した外国人(インド人の菩提僊那、ソグド人の安如宝等)から考え出されたのかもしれないとのお話に納得。

 末摘花の性格については、一途さ(貞節)、控えめ、従順、父への孝心(遺訓順守)を挙げ、さらに「昼寝の夢に故宮(末摘花の父)の見えたまひければ」とあるように、性格形成の要因に「亡き父の霊力」があるのではないかと指摘された。また、光源氏が須磨退去後に末摘花を訪ね、あまりの零落した姿に驚いて手厚い支援を進めた心境として「人の心ばへ(本性)を見たまふに、あはれに思し知る」(蓬生巻)ということがあったのではないかと説明された。最後に、雨夜の品定めで左馬頭(さまのかみ)が「女性の美徳は容姿ではなく心根の強さ」と述べている点にもふれ、二人の出逢いについて蓬生巻の最後の言葉「昔の契り(前世からの因縁)なめりかし)」と締めくくられたのが印象的であった。

 休憩を挟んで第二部は「夕顔怪死事件の真相とは」に入る。夕顔とは光源氏の乳母の隣家に住む女性で板塀に咲く白い夕顔の花にちなんで名づけられている。

 夕顔との逢瀬を重ねるうちに、源氏は彼女を牛車に乗せ隠れ家(五条近くの古びた院)に連れ込む。とある晩、夕顔と二人で寝入っていたところ枕元に「いとをかしげなる女(物の怪)」が現れ「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで・・・」とつぶやいた。夕顔はあまりの恐怖に命を失うのだが、この物の怪の言葉をどう解釈するかで正体は異なる。

 従来の口語訳では「私がまことに立派な方とお慕い申し上げているのに(源氏が六条御息所のもとを)尋ねようともお思いにならず」というように、物の怪の正体を六条御息所ととらえる解釈ばかりであった。しかし、文法的には「私がまことにご立派と考えるお方(六条御息所)を源氏は尋ねようともお思いにならず」と解釈できる、すなわち文法的に解釈すると「私(物の怪)」は六条御息所ではないと先生は述べられた。

 夕顔の命を奪った物の怪の候補としては、A「廃院のあやかし」、B「六条御息所の生霊」、C「AとBの融合」、D「源氏の心の鬼(良心の呵責)」が従来考えられてきたが、先生の文法的解釈をふまえれば、定説のBは考えられず他のいずれか、あるいはそれらの融合と考えられる。

 Aの「廃院」とは源氏が夕顔との逢瀬の場とした隠れ家(古びた院)のことだが、その院は光源氏のモデルと考えられている源融(みなもととおる)の邸宅「河原院」が廃院となったことを想定していると考えられる。源融は陽成天皇退位の際に皇位継承権を主張したが、藤原基経により臣籍降下して源姓となったものが皇位を継承したことはないと退けられている。つまり、廃院となった河原院には源融の怨念すなわちあやかし(妖怪)がこもっていると考えられるのである。また先生は物の怪の怒りの理由として、桐壺帝が六条御息所との付き合いを軽く考えている光源氏をたしなめる言葉を挙げられた。次から次へと恋の相手を代える源氏ではあるが、さすがに父の言葉は心に響きDの心の鬼(良心の呵責)へと繋がったのだろう。

 すなわち、夕顔怪死事件は「六条御息所の生霊」だけの仕業ではなく、「六条御息所の生霊、廃院のあやかし、源氏の心の鬼」が複合した物の怪によるものだったのである。そのほかにも先生のお話は登場人物と史実との重ね合わせや六条御息所と明石の君との類似性などにも及び、興味深く熱い語りが続き、出席者一同圧倒されるうちに予定を30分ほど超過して講演は終了した。

(文責、星野信夫)

【歴】第96回 歴史をひもとく会 開催報告

会員による歴史談義・江戸の食文化

 第96回例会(会員による歴史談義)が、3月12日(土)国分寺公民館ホールにおいて出席者55名、感染対策に十分に留意して開催されました。講師は沼野義樹さんと菅谷国雄さんです。当初、昨年7月に開催する予定でしたが、コロナ禍の影響で延期を重ね、3月の開催となりました。
 最初に星野世話人代表よりあいさつがあり、4度目の正直でついに開催できたことへの感謝の言葉とパックス・トクガワーナとも言える260年余りの江戸時代の平和が日本独自の文化である俳句や浮世絵、和食を生み出したとのお話がありました。続いて、お二人の講師による魅惑的な歴史談義が始まりました。

 

第1部 「江戸の食文化・江戸の料理を学ぶ」

講師:沼野義樹(昭和48年経済学部卒)IMG_4615 (2)

昭和48年経済卒(桐朋高校)

 

尾崎ゼミ  考古学研究会
国分寺三田会幹事
La Madre Cooking(料理の会) 代表世話人
江戸料理本(豆腐百珍など)を参考に江戸町人の料理を調理再現
料理人の知恵に学び調理を知的に楽しむ

 最初に江戸の食材と調味料について深い研究成果が披露され、続いて江戸町人の食生活が具体的に生き生きと描かれ、最後に沼野さんが実際に復元調理された江戸料理の数々が実物の写真と共に紹介され、江戸時代にタイムスリップして食べ歩いているかのような豊かな気持ちとなってお話が終わりました。
 江戸時代の町人の食事の特徴は地域に根ざした食材と発酵食品をうまく使ったことにあるそうです。
 地域に根ざした食材は幕府の政策と深い関わりがあったそうです。魚介に関しては、幕府が摂津の漁師を招いて佃島を開いたことにより、上方の優れた漁法が定着し、種類、量とも豊富に供給されるようになりました。クロダイ、カレイ、スズキ、イワシ、アジ、コハダ、シラウオ、マグロなどの海水魚、ウナギ、ドジョウなどの淡水魚、シジミ、アサリ、ハマグリといった貝類が食卓を彩ったようです。
 また、野菜については幕府が摂津農民を招き、進んだ農業技術を広めたことに加え、諸藩が地元の農民を呼び寄せたことなどもあり、品質の良い野菜が作られるようになり、将軍家に献上したことからブランド野菜が誕生したようです。夏野菜を3月に献上したりしたため、初物フィーバーの起源となったそうです。小松菜、練馬大根、砂村ネギ・ナスなどが知られるようになりました。砂村では魚河岸の生ごみの発酵熱を利用した促成栽培が行われたり、江戸の下肥を肥料として効率的に利用する仕組みができ、野菜の栽培が発展したようです。下肥は良い物を食べている家の下肥が高く買われたという面白い話もありました。また、下肥の収入は大家の収入となり、それによって正月に店子にもちがふるまわれたりしたそうです。
 続いて、これらをどのように調理したか、調味料や味についての興味深いお話が続きました。江戸時代初期には肉体労働者が多かったため、塩辛いものが好まれ、上方のものが優勢だったのですが、中期以降は生活が安定したのと、町人が甘さを知ったことで、甘辛いものが好まれるようになり、同時に江戸のものが広まりました。
 江戸の味の中心となったのが濃口醤油と甘味噌で、これに砂糖や鰹節が加わって、そば、うなぎ、にぎりずし、天ぷら、ドジョウ鍋に欠かせない調味料となり、これが現代まで続いているわけです。
 続いて、お話は江戸町人の食生活に移っていきました。
 江戸町人の生活に欠かせないのがお酒です。酒については上方からの下りものがずっと好まれたようで、特に灘の酒は人気があったようです。高価なので、薄めて出されることが多く、アルコール度は4〜5度程度だったそうで、7〜8升の大酒飲みが良く話にでてきますが、かなり割り引いて聞く必要がありそうです。

 元禄時代には1日3食が定着したようで、男は1日4〜5合の白米を食べていたようで、カッケにかかるものが多く、江戸患いなどと言われていたようです。『守貞漫稿』という書物によると、飯は朝にまとめて炊き、朝は味噌汁とつけもの、昼は冷や飯とおかず、夜は茶漬けか粥とつけものが一般的だったようです。
 また、江戸は男の人口が過剰で独り者も多かったことから、外食産業が発達しました。高級料亭もありましたが、水茶屋、屋台見世、一膳飯屋、煮売茶屋、居酒屋などがどこに行っても見られるようになりました。一膳飯屋では当時人気の奈良茶飯や深川飯などが売られ、屋台見世は立ち食いも多かったようで、天ぷら、そば、すしが売られました。居酒屋は酒の小売りが、店頭でも飲めるようになり、やがて肴も提供するようになり居酒屋となりました。豊島屋が有名でした。
 江戸で人気の食べ物はそば切り、かばやき、天ぷら、にぎりずし、ドジョウ、初物だそうで、それに関わる面白い川柳が話題にされました。(「丑の日にかごでのりこむ旅うなぎ」)
 お話の最後に沼野さんが実際に復元調理された料理が写真と共に紹介され、思わずお腹が鳴ってしまった人も多かったようです。奈良茶飯、スズキの鮭焼き、鰻もどき、利休卵など十数種類に及び、食欲をそそったところで第1部は終了しました。
 沼野さんは伝統ある慶應義塾大学考古学研究会に所属されていたのですが、慶應考古学の実証的精神が深く感じられるお話でした。

 

第2部 「江戸の食文化・そば切り今昔」

講師:菅谷国雄(昭和37年経済学部卒)IMG_4649 (2)

昭和37年経済卒(慶応高校)
島崎ゼミ  ワンダーフォーゲル部(KWV)
国分寺三田会 第4代会長
福沢諭吉読書会
蕎麦切り30余年
ゴルフ他趣味多彩

 菅谷さんは、二百数十年に及ぶ平和の時代、パックス・トクガワーナが生み出した日本文化は必ず後世に継承しなければならない貴重な財産であり、その中の一つとしてそばを取り上げられました。300年近い平和が人類史の中でいかに稀有のものかは、他にはクレオパトラで知られるプトレマイオス朝の260年の平和があるくらいである。それほど稀有なものであるから、そこから生まれたものも人類全体の財産と言っても良いくらい貴重なものであるというお話でした。
 そばのルーツは諸説あるが、奈良時代の遣唐使が持ち帰った粉製品が僧侶の精進料理として食されたのが始まりとされるそうです。その後、伊吹山中腹の太平護国寺で水田に適さない傾斜地で、救荒食物としての蕎麦が栽培されたが、ここは昼夜の寒暖差が大きく蕎麦の栽培に適していて美味であり、客人にも評判となり、彦根藩から江戸幕府に献上されたという記録があるそうです。室町・戦国時代までは小麦粉に混ぜて、団子や蕎麦がきとして食べられていましたが、江戸時代になってそば切りが流行するようになり、江戸時代末期には食べ物屋6000軒のうち、3000軒の蕎麦屋があったと伝えられています。蕎麦の普及については、そばによって江戸患いと言われたカッケを克服しようとしたという説を批判的に紹介され、そばの普及は江戸町人の嗜好という文化的要因ではないかと推測されました。
 お話の中では人口学について言及があり、平和が続いた江戸時代に非常に人口が増加し、これが江戸文化の創造に大きく貢献したということが紹介されました。
 最後は、柳家小さんの「時そば」を聞き、大いに笑うと共に、江戸文化がどれほど現代人にも根付いており、また継承していかなければならないかを実感して素敵な時間が終わりました。菅谷さんのお話には、なにか落語家のはなしのような雰囲気が感じられて引き込まれ、伝統というものの意味を感じさせられました。

 

【歴】第95回 歴史をひもとく会 開催報告

皇居東御苑への歴史散歩

コロナ禍に見舞われる前、歴史をひもとく会では年に1度「歴史散歩」と称して歴史を訪ね遠方に出かけることを恒例としていました。今回も当初は足利への歴史散歩を計画していましたが延期を余儀なくされ結局中止。5月には、近場の皇居東御苑へと変更しましたがこれも延期。
IMG_4482 (2) 12月16日、素晴らしい好天のもと、ついにやりました! 3度目の正直です!
午前10時半大手門前に集合、好天に恵まれ定刻には全員29名が集合。
案内人の車伸一さん手作りのレジュメと東御苑のパンフレットを配布。入り口では厳重な手荷物チェックとコロナ対策。すぐに車さんの名調子で解説が始まります。
詳しいはずです。車さんは知る人ぞ知る「江戸城天守を再建する会」の小平支部長ですから。
(左写真、車さんの説明に耳傾ける参加者)
当日は、大手門(東御苑内へ)~大手三の門(同心番所)~百人番所~中之門~大番所~中雀門~富士見櫓~松の大廊下跡~本丸跡(大芝生)~富士見多聞~大奥跡~天守台~寛永度天守模型~本丸休憩所(休憩)~展望台~汐見坂~白鳥壕~二の丸雑木林~新雑木林~二の丸庭園~諏訪の茶屋~都道府県の木~平川門~竹橋門跡~清水門(北の丸公園へ)~田安門と回りました。
車さん用意の膨大なレジュメの中から、ごく一部を紹介し当日を再現してみましょう。
そもそも皇居東御苑とは、将軍の住まいと政務の場である本丸御殿があった江戸城の核心部分で、面積は11,373坪、他に天守・大奥などがありました。
大手門最初の大手門(右写真)は江戸城の正面玄関、大名登城の際はここから大手三の門、中之門、中雀門と四つの門を通って本丸御殿にたどり着きました。大手三の門は下乗門とも呼ばれ、駕籠に乗ったまま通れるのは尾張・紀伊・水戸の御三家だけで他の大名はここで降ろされました。お供の者はここで主人の帰りを待ちながら情報交換をしたそうで、それが「下馬評」の語源との説明に、一同「なるほど!」と大喜び。
中之門の石垣は江戸城の中でも最大級の巨石が使用され、目地の殆どない、整層・布積みの石垣は「凄い!」の一言。こんな巨大な石をどうやって運びどのように設置したのか、当時の人たちの技術力に圧倒されるばかりでした。
途中には、同心番所・百人番所・大番所があり入城のチェックを受けます。
百人番所には忍者で知られる伊賀組・甲賀組・根来組などが詰めていました。忍者も平時にはこんなふうに活躍していたんですね。
富士見櫓左写真は江戸城に残る三つの櫓のうち、唯一本丸地区に残る「富士見櫓」です。江戸城遺構として残る唯一の三重櫓で、現存する櫓は、1657年の明暦の大火で焼失後、1659年に再建され、再建後は天守の代わりとして使用されていました。残念ながら当日は途中工事中で見ることができませんでした。浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「松の大廊下跡」を過ぎると本丸跡・大奥跡の大芝生が目に飛び込んできます。今は何もない芝生を見ながら、ここで展開されたであろう様々なドラマに思いを馳せました。

 

 

 

 

天守台前広場より

 

右写真は「天守台」です。江戸城天守はまず家康が築き、秀忠・家光がそれぞれ建て直しましたが、冨士見櫓同様に明暦の大火で焼失、天守台は前田家が再建しましたが、天守の工事は「江戸の町の再建に金を回せ」という将軍後見役の保科正之(会津藩主)の建言で行われませんでした。車さんはその再建をめざしているのです!

 

 

 

寛永度天守模型などを見学した後、左写真は紅葉残る雑木林に向かう一行です。昭和天皇のご意向で自然のままに残された武蔵野の雑木林が懐かしさを感じさせてくれました。都道府県の木を見学し平川門(桜田門、大手門と並ぶ江戸城三大門)から東御苑を出て、竹橋門跡・清水門跡を経て、田安門に向かいます。
清水門・田安門の門内には、かつて清水家・田安家(8代将軍吉宗が創設した御三卿)の屋敷がありました。
田安門から城内を出ると土橋の右側は牛ケ渕、左側は千鳥ヶ淵。千鳥ヶ淵の水位の方が約10m高くなっています。内堀の一部ではありますが、「淵」と呼ぶのはダムの意味だそうで、家康が江戸に入った直後に自然河川を堰き止めて飲料水用の貯水池を造ったことがその起源です。

楽しかった歴史散歩もここで終了、車さんに感謝し記念写真を撮って名残を惜しみつつ解散しました。

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次回は3月12日「歴史談義(講師は菅谷・沼野両会員)」です。

(文責=星野、撮影=斎藤・車・塚原)

【歴】第94回 歴史をひもとく会 開催報告

江戸~明治、多摩・国分寺界隈の村々と人々

第94回例会(講演会)が、12月5日(土)国立のエソラホールにおいて出席者32名で開催されました。講師は歴史をひもとく会代表世話人の星野信夫さんです。本講演会は、当初7月に開催する予定でしたが、コロナ禍の影響で3月に予定していた塚原正典さんの講演が延期を重ね10月開催となったため、12月の開催となったものです。 今回も、公民館ではコロナ感染対策のため入場可能人数が限定されるため、10月の第93回に続いて、国立駅前のエソラホールで開催としました。同ホールは、比較的換気も可能で、収容人数がある程度見込める会場です。

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< 講師紹介 >

1944年、国分寺町(市)生まれ。
昭和42年経済部卒
現在は国分寺市観光協会会長。

 

< 講演内容 >

今回の講演の主題は、江戸から明治にかけての多摩・国分寺がどのように発展してきたのか、またどのような社会であったのか、それはどのような人々に支えられてきたのかということでした。歴史をひもとく会の今年度のテーマは「江戸」としていますので、星野さんには今までの講演続きという講演となりました。

講演は、まず多摩地区が、鎌倉時代から江戸時代にかけてのほとんどの時代が幕府の直轄地であったということから始まりました。途中、後北条氏の統括の時代があったとのことですが、それを除くと幕府の直轄地であったとのことです。話が12世紀の終りから19世紀の半ばの明治時代へと、約800年間のお話しとなりました。

話しの中心は江戸時代の多摩・国分寺界隈がどのように開発されて来たかということでした。講師の話にも熱がこもり、会場もそれに反応するように食い入るように聴講し、あっというまに1時間が経過し、換気・トイレ休憩となりました。休憩時には、会場の天窓も開放しやや冷たい空気がさっと会場をながれ、換気がされているという実感がありました。休憩後は、一気に幕末から明治にかけての流れの話になり、講演終了予定時刻(正午)を33秒超過したところで、講演予定内容のすべてのお話が終わりました。

講演にあたっては、時節柄、マスクをしたままでの講演をお願いしましたが、持ち前の声質・声量で会場に十分届き、時には得意の歌声も挟んでの講演でした。

講演資料として、A4で6ページにわたるレジュメが配られ、また適宜ホワイトボードを使っての説明に、聴講者が迷子になることもなく、講演についていくことが出来ました。講演終了とともに大きな拍手となりました。

 

[ 講演内容の概要 ]

講演は、7つの単元から構成されていました。

単元1は、多摩地区が、鎌倉時代から江戸時代にかけて、幕府の直轄地あったこと、そして徳川家薬の鷹狩の地であるとともに、江戸の街にとっての水・食料その他いろいろな物資の供給地であったことの説明でした。
単元2は、多摩地区に村々が開発に伴い出来てきたわけですが、開発時期により3つの時期にわけてその特徴が説明されました。その時期は、第1期は街道に沿って、第2期は玉川上水の利用、そして第3期は享保の改革による新田開発の奨励ということでした。
単元3では、江戸の街との交流や多摩の村々を支えた人々の話でした。その中には、近藤勇の流派でも知られる「天然理心流」の話も出てきました。
単元4は激動する幕末の多摩として、明治維新の直前から維新までの話、そして単元5は明治維新により新政府の動きがどう影響したというお話でした。
単元6は、多摩地区における「自由民権運動」の話、そして、最後の単元7では、国分寺地域の各村から、合併による大きな村への流れ、その中には国分寺村、小金井村の成立もありました。そして、「多摩」が神奈川県から東京府に移管された話で終わりました。

 ※ 当日会場で配布したレジュメは、会員専用頁(分科会)に掲載しています。

 

入場時に手の消毒と検温を実施しました

入場時に手の消毒と検温を実施しました

ホワイトボードを使っての講演

ホワイトボードを使っての講演

 

 

 

 

 

 

 

講演受講の様子 椅子と椅子の間隔を保持

講演受講の様子 椅子と椅子の間隔を保持

講演終了後、各自椅子をアルコール消毒

講演終了後、各自椅子をアルコール消毒

 

【歴】第93回 歴史をひもとく会 開催報告

考古学から見える日本の歴史

―公の系譜を探るー

第93回講演会が、10月3日(土)国立のエソラホールにおいて出席者35名で開催されました。講師は歴史をひもとく会の会員である塚原正典さんです。本講演会は、当初3月に開催する予定で準備を進めていたものが、コロナ禍の影響で7月に延期になり、さらに延期されて、ようやく開催できたものです。新年度の最初の講演として開催しました。
今回は、公民館ではなくエソラホールで開催したのは、公民館ではコロナ感染対策のため入場可能人数が限定されるため、比較的換気も可能で、収容人数がある程度見込めるエソラホールにて開催することとしたものです。

< 講師紹介 >IMG_2827 (2)

塚原正典氏は神戸市生まれ。
昭和54年文学部卒、58年院卒(考古学専攻)後、
湘南藤沢中学高校の教師を務める。
著書に「なすな原遺跡1984」「配石遺構」等。

< 講演内容 >

 講演は、まず最古の前方後円墳といわれる箸墓古墳の話からはいりました。一説には卑弥呼の墓ともいわれる古墳でもあります。文献資料や写真などを織り込み3世紀からの時代を追っての話に、皆さん食い入るように聴き入っていました。途中換気のため10分程度の休憩をはさみ、予定の12時に講演を終了しまた。

[ 講演内容の概要 ]
日本という国の原型ができたのは、3世紀後半から6世紀の古墳時代と言われています。当時、国造りに最も重要だったのは鉄でしたが、当時、国内で製鉄はできませんでした。そこで、朝鮮半島南部でつくられる鉄の入手が国造りにとって最優先課題でした。この鉄を手に入れるために、小さなクニの集合体だった日本(当時の倭)は巨大な同盟を結成する道を選んだのです。そこに日本の公の起源があるのですが、講演ではその過程をできるだけ詳しくお話しさせて頂きました。

―――本講演の講演録を、講師の塚原さんご自身にまとめて頂きましたので、会員専用頁の「分科会-歴史をひもとく会」欄に掲載しました。講演詳細はこちらを参照ください。――

入場時に手の消毒と検温を実施しました

入場時に手の消毒と検温を実施しました

パワーポイントを利用しての講演(前半)

パワーポイントを利用しての講演(前半)

 

 

 

 

 

 

 

講演受講の様子 椅子と椅子の間隔を保持

講演受講の様子 椅子と椅子の間隔を保持

パワーポイントを利用しての講演(後半)

パワーポイントを利用しての講演(後半)

 

 

 

 

 

【歴】第92回 歴史をひもとく会 開催報告

幕末大河ドラマと現代社会

ー『篤姫』を例にー

第92回講演会が1月11日(土)本多公民館において56名の出席の下、開催されました。講師はテレビでもお馴染みの東京学芸大学名誉教授 大石 学氏。NHK大河ドラマをはじめ数多くのテレビ番組の時代考証を担当されている大石氏に今回は「幕末大河ドラマと現代社会~『篤姫』を例に~」というテーマでご講演頂きました。大変分かりやすい語り口で、内容も切り口が新鮮で充実しており、大変好評を博したようで、終了時には会場は大きな拍手に包まれました。IMG_2518 (2)

<講師紹介>

1953年東京都生まれ、
東京学芸大学大学院修士課程修了、
筑波大学大学院博士課程単位取得、
東京学芸大学教授・副学長等を経て、
現在は東京学芸大学名誉教授、
独立行政法人日本芸術文化振興会監事、
ご専門は日本近世史

<主な講演内容>

まず、「新選組!」「篤姫」「龍馬伝」「八重の桜」「花燃ゆ」「西郷どん」という幕末から明治維新を描いた大河ドラマのそれぞれの狙いを解説、さらにそれらのドラマに共通するテーマは、「西高東低」と「英雄史観」の克服であり、「江戸の達成」としての明治維新、「官僚革命」と官軍の包容力・懐の深さ、「オールジャパン」そして「女性の活躍」にあったとのこと。

次に「新しい江戸のイメージ」と題して、大河ドラマの江戸は、従来のチャンバラ、勧善懲悪の時代劇ではなく、むしろ江戸という時代における現代劇である。江戸時代は約250年以上内外共に戦いのなかった平和な時代でありこれは世界的に見ても稀有の社会と言える。こうした中で特に江戸の治安の良さには当時来日していた多くの外国人たちが驚いており、数多くの文書に残されている。例を挙げれば「帯刀した者たちの間で流血事件が起きるということはめったになく、この国の人間の性来の善良さと礼儀正しさを存分に物語っている」(仏海軍士官E・スエソン)「槍の刃先、銃の銃口さえもが丁寧に鞘に包まれている」(プロシア外交官ルドルフ・リンダウ)「警察の機能は騒動とか犯罪を強力をもって防遏(ぼうあつ)するというよりは、これを未然に防止するように仕組まれている」(蘭海軍リッター・ホイセン・ファン・カッテンディーケ)幕府の役人は二刀を帯びているが、「長い刀は戦の際の武器で、親しい人間の家では体から離すのが礼儀である。短い刀は専ら自殺用の武器である。それ故友人の家を訪れた際にこれを身につけていても何等無礼ではない」(仏人C・モンブラン)「日本人の間では汚名を蒙り、屈辱を受けた場合には自殺するのがふつうのことであり、そのための道具を手許に用意しておくのが絶対に必要なことである」(蘭人イザーク.ティチング)

江戸時代は識字率も高く、庶民が高札に集まって読んでいた。役所も高札をひらがなで書くこともあったという。また、女性像も抑圧された女性像から自立的・社会的な女性像へと大きく変化しており、自ら離婚する女性、知行権を持つ武家女性、家相続をする庶民女性、駆け込みをする女性、心中・不倫などの事件を起こす女性、手習い(寺子屋)の女性師匠などが現れて来た。このことも多くの外国人が書物に残しており、「おそらく東洋で女性にこれほど多くの自由と社会的享楽が与えられている国はないだろう。(中略)女性の地位は東洋よりも、むしろ西洋で彼女たちが占めているところに近い」(英公使館書記官ローレンス・オリファント)「子供たちが男女を問わず、またすべての階層を通じて必ず初等学校に送られ、そこで読み書きを学び、また自国の歴史に関するいくらかの知識を与えられるといっている」(エルギン卿遣日使節録)「日本における女子の地位は、世界の大抵の国とは異なれり。女子は何の汚辱もなく、清き結婚生活を送り、女子は適当の年齢に達するまでは両親の膝下に愛育せらる。余は三四歳の数多の少女の余念もなく嬉戯しつゝあるを見たり」(英軍医デー・エフ・レンニー)「支那の貴女にありては、外人を見るや否や逃げ去るを以て礼となせども、日本にありては吾人(外人)と遇ひたればとて、聊かも恐怖の状を示さず、平然として常とかわる異なることなし。茶屋にては、女子は微笑を以て来り、吾人のまはりに集ひて衣服などを験し、時には握手することをさへ学べり」(英植物学者ロバート・フォルチューン)等の著述が残っているとのこと。

また、大河ドラマにおいては江戸時代像そのものの見方も変化している。それは次の3つの点の変化である。①未開から文明へ(貨幣経済の進展、文字の普及など)、②豊臣秀吉の「惣無事(大名の私闘を禁じる)」政策に続く「Pax Tokugawana 徳川の平和」、③「封建制から early modernへ」=「近代」との断絶から連続へ。具体的には、江戸時代は、統一的国家体制が整備され、民間社会が成熟し、列島の均質化が大いに進んだ時代といえ、現代日本の政治的・社会的問題となっている東京一極集中や官僚指導、あるいは社会の均質化などの諸現象は、江戸時代以来の400年という長い時間の中で形成されてきたものと言えるとのこと。そして「国家―国民」という関係から見れば、日本史上初めて国家が対外関係において国民を管理する時代が到来したということであり、江戸幕府は、日本史上初めて列島規模で国民を管理した権力であったと言えるとのこと。まとめれば、江戸時代は、現代の私たちの国家・社会に連なるさまざまな要素の成立・発展の過程であり、従来の「近代と断絶的な江戸時代像」から「近代と連続的な江戸時代像」へ、今日グローバル化のもとで、変質・解体しつつある日本型社会・日本型システムの成立・発展期としてとらえられるということ。

 

後半は、大河ドラマ「篤姫」と「役割」「家族」論と題して、幕府の中枢にいた女性の視点から見た初めての大河ドラマである「篤姫」の場面やセリフをとりあげ、「篤姫」が「役割」「家族」という視点から現代社会に問題を提起する作品であったことを分かりやすく説明された。多くの参加者が改めて作品に感動し、「目から鱗」という感想を持った方も多かったと思われる。

江戸時代の「士農工商」という区分は、決して厳しい上下関係ではなく、むしろ横の関係で、武士、農民、職人、商人がそれぞれの役割を果たすことで社会が成り立っていた。

幼少の篤姫が母から武家と農民の違いは上下関係ではなく、その役割にあると教えられ、これが生涯を通じて篤姫の思考の根底にあったということ。また、天保の改革で財政を立て直した薩摩の家老調所広郷が、その厳しい政治に不満を抱く篤姫に「それが手前の役割にて」と覚悟のほどを伝える場面、安政の大獄を指揮した井伊直弼を天璋院(篤姫)が責めるのに対し、井伊が「私は役割を果たしたまで」と覚悟と強い信念を天璋院に伝える場面、皇女和宮が婚約を破棄して徳川家茂に嫁ぐ際、お付きの女官庭田嗣子に「こたびの婚儀、私がお受けいたしましたのは、御上から授かったお役目のため、日本国の太平を開かんとするためじゃ」「私はそのお役目を果たすべく江戸に行く」と語った場面、最終回での天璋院と勝海舟との会話で「ただ天璋院様と話していると、生きることに勇気が湧きまする。この世とは、虚しいこと、つまらぬことなどひとつとしてないのだと」「それはそうじゃ。誰もが天命、果たすべき何かを持ってこの世に生まれてくるのだからな・・・」「果たすべき何か・・・」「そうじゃ。天命じゃ」と語り合う場面。これらの役割(役目)論はそれぞれの人間が、それぞれの立場に基づく正義や役割を自覚することによって、運命に立ち向かう(あるいは受け入れる)姿を描いており、従来の時代劇の勧善懲悪という図式ではないということ。

また、次期将軍を巡る争いの中で、松平春嶽ではなく井伊直弼をとることにした家定が篤姫にいう「徳川将軍家を守りたいがためじゃ」「わしの家族をな」という場面、家茂と初めて心が通じたと思った天璋院が家茂に「私はひとり残されたのではなかったのですね・・・。あなたという新しい家族が出来たのですね」という場面。豊臣時代から江戸時代を通じて成立してきた「家」「家族」を単位とする生産・生活の習慣や文化(生活習慣、年中行事、人生儀礼)もこの時代に確立し、現代の私たちの生活に直接つながる要素として列島社会に定着していったということが言えるとのこと。

 以 上

【歴】第91回 歴史をひもとく会 開催報告

第3回 会員による歴史談義 

「歴史談義とお酒談義」

第91回の講演会は10月5日(土)、本多公民館にて、歴史をひもとく会会員のお二方の講話、及び菅谷國雄氏のご紹介による特別講師として、同級生の渡邊 護氏(蔵元;渡邊佐平商店会長、昭37経)をお迎えし、45名の参加者の下で行われました。

「会員による歴史談義」も三回目を迎え、今回は異例の2本立て。会員による講演に加えて、秋と共に日本酒の恋しい季節を迎え、蔵元の塾員によるお酒談義。しかも、講演会場で実際に日本酒の試飲も行うという国分寺三田会の分科会ならではのユニークな企画が実現しました。

 

まず、第1部は会員によるお話。トップバッターは久保田宏氏。

講演1「玉川上水の話」 久保田 宏 氏 (昭46・工) IMG_1713 - コピー - コピー

我が郷土の玉川上水はその歴史的評価も定まっており、多くの研究者によって語られています。延長43㎞、高低差僅かに92m、勾配23cm/100mを掘り進んだ難工事。さて、講師の講演はどの様なアプローチがなされるのかと興味津々の中に始まりました。
冒頭のテーマは「上水は如何に作られたか」。工区毎に、「取水口」→「河岸段丘越え」→「分水路」→「用水終端」に分け、高低差が表示された地図を併用して、ルートを確認しながら明快に解説。江戸迄の道程が明瞭に理解でき、流石は工学部出身者の話だと感心。
次に「上水開削の謎」へと話は続いて行きます。「ルートはどの様に見つけられたのか」「何故1年で開削できたのか」「何故、1年で作らねばならなかったのか」「何故、野火止用水は40日間で出来たのか」。講師は、これらの興味深い疑問に対し、その豊富な歴史の知識や深い洞察力で、まさに快刀乱麻の謎解きを行っていきます。
締めくくりは歴史のif。「もし玉川上水ができていなかったら」・・・当然水不足で、行水も打ち水もなく、粋な江戸文化も生まれていなかったであろうと結んでいます。
講師は与えられた40分ぴったりに講演を終え、会場から思わず拍手が上がり、聴衆は素晴らしい講演に「成程な」と納得しつつ、大いに楽しみました。

 

 

次に登壇されたのは斎藤信雄氏で、「日本酒のルーツ」に纏わる話です。 

講演2 「日本酒起源の考察」 斎藤 信雄 氏 (昭38・政)IMG_0098 (2)

冒頭、講師は、「私のお役目は、後にお話し頂く渡邊会長の講演への導入役です」と茶目っ気たっぷりに表明し、古事記の時代からの酒造りの歴史、日本酒のルーツについて研究成果の発表に入りました。
神代の時代から“神様はお酒が大好き”で、弥生時代に米を原料とした酒造りが始まり、やがて麹の酒が出現して日本酒の起源に繫がって行きます。律令時代に入って、技術も進み、国営の酒造りが本格化しますが、701年松尾大社を創建した秦族(秦の始皇帝の子孫と称される)に見られる大陸からの技術集団の渡来で酒造り、醸造技術は進化します。平安時代中期に入ると奈良・正暦寺を筆頭に大寺院での酒造りが本格化します。所謂「僧坊酒」の出現です。近代醸造法の基礎酒造技術が確立したと説明します。時代は進み、室町時代には幕府が酒造りを奨励し、徴税システムに組み込んでいきます。京都を中心に造り酒屋が急増し、土倉と呼ばれた金融業を兼営する特権階級に成長して行き、その後の酒を中心とした文化の発展が現代に繫がっていると説いています。
特に、日本酒の起源を祀る三大神社として「大和の大神神社」「出雲の佐香神社」「京都の松尾大社」を挙げていますが、講師の強みは、実際に現地に行って自らの目で確かめてきていることで、話の一つ一つに説得力があることです。前回、前々回と古事記についての講演をして戴いた講師の知識の確かさ、会員から“古事記の斎藤さん”と慕われる同氏の面目躍如たるものがあると感じ入りました。

 

第2部はいよいよ試飲会付きのお酒談義です。

講演3 「お酒談義」 渡邊 護 氏 (昭37・経)IMG_1737 - コピー

日本酒「陸の王者」醸造元 (株) 渡邊佐平商店 代表取締役 

講演は自作の資料に沿って、まず、福沢先生が日本酒党であったという話題から始まります。洋酒はあまり好まず、酒品の好い愛飲家であった由。続いて、日本酒の原材料別の製品表示、日本酒の特色や効能等々話は多岐に亙ります。講師の話術はそこかしこにウイットが潜み、当意即妙かつユーモラス、聞く者の気を逸らさぬ“名プレゼンテーター”です。歯切れのよい説明は正確で、口に含んだお酒が体に沁み込んでいく様に内容がよく判ります。飲み方や使われる酒器の話では、予め実物を持参しての実演付きです。解説が一段落して閑暇休題。そこで氏曰く「さあ、会場がシーンとなった処で試飲にしましょう」。

試飲会に供されたお酒の銘柄は以下の4種、それぞれ4合瓶×2本です。

・純米大吟醸 「清開」    ・きざけ 「日光誉」
・特別純米 「陸の王者」   ・樽まろ 「日光誉」

 会員は、それぞれの銘柄の味と香りを飲み比べて、その違いや味わい等をお互いに確かめながら大いに楽しんでいます。一通り試飲を楽しんだ後に続く話は、日本酒を中心とした食文化について。
日本食は、栄養素のバランスが良く、魚介類の摂取が多くかつ生食で効率の良い食べ方であり、日本人の健康寿命は世界一。また日本の食材は種類が多く1200種類、フランス料理の2.5倍、中国料理の1.5倍、また、調理器具の種類も世界一。適量飲酒は健康増進に効果抜群、等々日本酒に関わる興味の尽きない話が続きます。その知識は膨大で、醸造の権威者、蔵元としての威厳すら感じられます。
最後に、現在80曲程ある酒造り唄の中から、越後の杜氏と南部杜氏の唄う酒造り唄を2曲、ご本人の喉をご披露頂いた処で終演。“粋なエンターテナー”の側面も窺えました。会場は、まだまだ聞き足りないという雰囲気で、特に今回は講話に加えて日本酒の実物を味わい、皆幸せそうな表情で笑顔に溢れ、至福の時を大いに楽しみました。

以 上

【歴】第90回 歴史をひもとく会 開催報告

 

 

「15世紀後半の関東内乱『享徳の乱』と武蔵」の報告

「室町時代の代表的キーワードは、『応仁の乱』に非ず」という革新的学説があるという話を聞き及び、是非お話しを伺いたくご登壇頂いたのが、室町時代の歴史究明のパイオニアである慶應義塾大学文学博士の峰岸純夫先生です。

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講師紹介  峰岸 純夫 先生

1961年 慶応義塾大学文学研究科修士課程修了
1961~1971年 横浜市立港高校・慶應義塾志木高校教員
1971~2003年 宇都宮大学・東京都立大学・中央大学の助教授・教授
その間に慶應義塾大学・学習院大学などの非常勤講師
1990年 慶應義塾大学より文学博士の学位授与

 

令和最初の講演会とあって、会場の本多公民館2階講座室には46名の会員が詰めかけ、熱心に講演に耳を傾けました。
冒頭、講師は『享徳の乱』を知っている人は手を挙げてくださいと質問し、3名の会員が手を挙げたのを確認して、講演に入りました。昔の教科書には載っていなかったので高齢者は知らないが、今は載っているので若い人たちは知っているとのこと。
講演は、講師直筆の資料に沿って、分かり易い語り口で始まりました。

 室町時代が進むにつれ、貴族支配による荘園制度が崩れ、地方武士団が耕地の簒奪のためお互いに抗争を繰り広げる混迷の様相を呈していった。当時は、京都(朝廷+将軍)と関東(鎌倉府の公方+関東管領)による二重支配構造が根底にあり、東西に2つの独立国が存在。このような時代背景の下で、享徳3年12月に起きた大事件が端緒となって、その後、東国の社会を根底から改変するような大乱に発展していった。この大事件とは、即ち、鎌倉(古河)公方の足利成氏が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺したことによる。
この事件の本質は上杉方の背後にいた京の幕府(足利義政)が東の幕府である関東公方の打倒を目指した「東西戦争」の一端であった。つまり、二大権力の相克を基軸とし、京の幕府が上杉勢を使って関東に武力介入したことで騒乱に発展したものと言い換えることができる。その後、この大乱を鎮めるべく、京の幕府は将軍義政の庶兄、天竜寺香厳を送り込むが、結局は鎮圧に失敗。この責任を巡っての内輪揉めにより、後に山名宗全が管領細川勝元に反旗を翻し、東軍・西軍に分かれて戦うことになる、かの有名な応仁の乱に繫がって行くと説く。峰岸史観を貫く炯眼将に恐るべしという処でしょう。

 次に武蔵の国との関連では、分倍河原合戦の話、高幡不動尊境内にある「上杉堂」の紹介、「人見街道」地名の由来等々興味の尽きない話が続きます。

 先生の説明では、室町期の歴史の研究に当たっては主要な資料が殆ど存在しないとか。周辺の資料を粘り強く解明して、こつこつと積み上げて行かざるを得ないということでした。根気の要る困難な道であり、そんな中から導き出された、究明の成果は大いに評価されるべきものと思われます。

 峰岸先生は一見、謹厳な歴史学者の風貌の内側で、実にざっくばらん、ユーモアに溢れ、豊かな人間味を垣間見せる親しみやすい方であります。聴衆は熱心に聞き入っていましたが、講演後の質問コーナーは、司会者の好リードもあって、和やかな雰囲気の中で行われ、先生の判り易い丁寧な回答に質問者全員が納得、とても印象に残る講演会となりました。

以 上

【歴】第89回 歴史をひもとく会 開催報告

歴史散歩「江戸の大名屋敷を歩く「六本木~赤坂見附~四谷見附」

== 歴史散歩行程図 ==

== 歴史散歩行程図 ==

5月の爽やかな風と好天に恵まれた5月17日(金)、毎年恒例の歴史散歩、今年は「江戸の大名屋敷を歩く」と題して、六本木ヒルズから赤坂見附での昼食を挟んで四谷駅までの約10キロ強を33名でのんびりと歩きました。

集合は午前10時六本木ヒルズメトロハット前。まず毛利庭園へ、ここは六本木ヒルズとともに長府藩毛利家上屋敷跡です。ここでは四家に分かれてお預けになった赤穂浪士のうちの10人が切腹しており、また父がこの家の家臣だった乃木希典将軍が幕末にここで産まれています。明治維新後は曹洞宗大学林(駒沢大学の前身)。真田家の邸宅などがありましたが、終戦後はニッカがボトリング工場を造り、1967年まで操業していました。ここにあった池や地下水を使ってボトリングをしていたため、池はニッカ池と呼ばれていました。その後テレビ朝日が工場跡地を購入し、池は美しい庭園として保存されていましたがヒルズ建設に伴い現在の毛利庭園の下に埋められてしまいました。

次にヒルズ前へ戻り、六本木通りをくぐり、六本木トンネルを通って国立新美術館へ。六本木トンネルの左側は23区内唯一の現役米軍基地「赤坂プレスセンター」、今でも軍用ヘリコプターが発着しています。六本木トンネルから国立新美術館へ入る門の向かい側は広大な青山霊園、ここは郡上藩青山家の下屋敷でした。本家の篠山藩青山家の上屋敷は青山一丁目交差点の北西の一角にあり、現在の青山通りの南北に青山一族が住んでいたことからこの一帯が青山と呼ばれるようになったそうです。国立新美術館の敷地は隣接する政策研究大学院大学、日本学術会議を含めすべて幕末四賢侯爵の一人伊達宗城の宇和島藩伊達家の上屋敷跡です。明治維新後は軍用地となり歩兵第三連隊が駐屯しました。後に二・二六事件の主力部隊はここから出動しています。関東大震災後に鉄筋コンクリート3階建ての巨大兵舎が造られ、代表的な復興建築物の一つでした。戦後も建物は残り、米軍接収を経て東大生産技術研究所として長く使われましたが、耐震性の問題から取り壊され、国立新美術館となりました。元の建物の一部が切り取られて敷地内に残されています。国立新美術館敷地内を通り、正門から外へ。左に向かう道(龍土町美術館通り)は道が上下に分かれて並走しています。下の道は江戸時代の道、上の道は明治以降、馬車や自動車が走るようになって造られた道です。江戸時代の道は勾配の変化が急で、車が走るのに適さなかったため、新たに勾配の緩やかな道を造ったそうです。道の左側(青山側)は蓮池藩鍋島家上屋敷があり、その石垣の一部が並走する二本の道の間に残されています。龍土町美術館通りを進み突き当りの東京ミッドタウンへ。ここは萩藩毛利家中屋敷跡です。屋敷跡はその後軍用地となり、戦後米軍に接収されましたが返還後防衛庁となり、防衛庁の市ヶ谷移転後再開発され2007年東京ミッドタウンとしてオープンしています。ミッドタウン敷地西側の境界部分の歩道を進んで檜町公園へ入りました。歩道脇に再開発時の発掘調査で出てきた石組みを再利用した石垣がありました。檜町公園は池を含め江戸時代の毛利家の庭園を受け継いでいるそうです。檜町公園で休憩した後、赤坂へ向かいましたが、このあたりは檜坂、本氷川坂など急な坂道の連続でした。檜坂を下って右へ行き、本氷川坂を上る角のマンションの敷地内に幕末最も活躍していたころ勝海舟が住んでいた邸跡の説明版と木碑がありました。坂本龍馬が初めて勝を訪ねたのもここです。本氷川坂(これは結構きつい坂でした)を上り、赤坂の鎮守氷川神社へ。元は赤坂見附近くにあったそうですが、八代吉宗が現在の地に移転させたそうです。ここは浅野内匠頭夫人の実家があった所でもあります。氷川神社の鳥居の向かい側は松代藩真田家の中屋敷でした。神社を出て左へ行き、さらに左、右と曲がって行くとまた勝海舟邸跡がありました。静岡から東京に戻った勝海舟が、1872年から1899年に亡くなるまで住んだ邸跡です。近年、海舟と龍馬の像が建てられています。その後、赤坂見附まで歩き、駅前の酒蔵「季」でゆっくりと昼食、昼食後は、赤坂見附駅の地下道を通って、弁慶橋の袂、東京ガーデンテラス紀尾井町(元の赤坂プリンスホテルの場所)の前へ。ここから麹町の文藝春秋本社のあたりまですべて紀伊徳川家上屋敷でした。石碑と説明板がありました。東京ガーデンテラス紀尾井町を右に見てまっすぐ進み、清水谷公園へ。公園内には、この付近で明治11年5月14日赤坂仮御所(現迎賓館)へ向かう途中に石川県士族らに暗殺された大久保利通を悼む巨大な哀悼碑が建っています。また、大名屋敷とは関係ありませんが、麹町通り拡幅の際に発掘された江戸時代の玉川上水の巨大な石枡も展示されています。公園を出て右へ、突き当りを左に曲がって紀尾井坂を上りました。「紀尾井坂」は、付近に紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷が並んでいたため、それぞれの頭文字を取って名付けられたものです。紀尾井坂を上り切った左側がホテルニューオータニの正面玄関。ここから弁慶橋の袂、つまり東京ガーデンテラスの向かい側まで、すべて彦根藩井伊家の中屋敷跡です。ホテルへの入口右端に石碑と説明板がありました。そのままホテルの庭園へ向かうと天明年間からあったといわれているカヤとイヌマキの巨木がそびえています。ホテルの庭園は池の位置など井伊家時代のものをある程度引き継いでいるといわれています。そのまま庭園を通りホテル内へ入り正面玄関から出ました。ホテルを出て左へ行くと江戸城外堀の出入り口で唯一城門のない喰違見附跡です。城内に紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家という親藩・譜代の屋敷が並んでいたため城門が無くても守りは十分と考えられたとのことです。城の入口は現在は緩やかなカーブの道となっていますが、当時は直角のクランク状になっていたことが説明板で分かりました。明治7年岩倉具視が征韓派の士族に襲われ、弁慶濠へ転げ落ちて命からがら逃げ延びた場所でもあります。喰違見附からホテルニューオータニ方面へ戻り、突き当たりを左折しました。右側の紀尾井ホールから新宿通りまでの上智大学一帯が尾張徳川家中屋敷跡です。道路脇に石碑と説明板がありました。そのまま新宿通りへ出て、午後2時半前、四谷駅前で解散となりました。一人の落後者もなく、ほぼ予定通りの楽しい散歩でした。