【歴】第100回 歴史をひもとく会記念例会 開催報告

中世武蔵の国府と国分寺

 3月18日(土)、国分寺市立第四小学校のホールひだまりにおいて、記念すべき第100回例会が開催された。国分寺三田会全体に参加をよびかけたこともあり、冷たい雨が降る中ではあったが、49名という多くの方々が参加された。

IMG_5485(2) 講師は府中の森郷土博物館館長の深澤靖幸氏。先生は國學院大學史学科考古学専攻科をご卒業後、府中市郷土の森博物館の学芸員として、府中市を中心に近隣地域についても遺跡・文化財についての調査研究を深めてこられた。歴史をひもとく会においても、18年前の2005年の第19回例会において、「武蔵府中熊野神社古墳について」と題してご講演いただいている。

 お話の冒頭、まず故村山光一教授との思い出に触れられた。事前に配信した「歴史をひもとく会のあゆみ」にもあるように、村山先生は国分寺市在住で歴史をひもとく会の基礎を築かれた方。会員の気持ちを一気に惹きつけ、中世の武蔵国府と国分寺の話に入る。以下、先生のご講演内容を要約する。

 古代については1970年代から発掘調査が始まり、古代の姿を具体的に復元できるようになったが、中世についてはまだまだ十分とは言えない。中世においても政治拠点である武蔵国府は確かに存在していたし、武蔵国分寺も現在まで法灯を伝えているのだが、なぜか関心が薄く発掘調査も十分とは言えない。
当時の府中市は、六所宮(現在の大國魂神社)・高安寺・定光寺といった寺社中心のまとまりと複数の中世遺跡からなる複合体だった。六所宮は武蔵国の主要6神を合祀する総社で11世紀の創立と考えられる。武蔵武士の精神的支柱であり、北条政子の安産祈願など源氏の篤い崇敬も受けていた。度々の造営を物語る瓦も出土している。
高安寺は足利尊氏再興の伝承があり、14世紀後半から15世紀中頃には鎌倉公方の御所ともなり、公方出陣の際にはまず高安寺に来てそこで兵を集めた。15世紀前葉の瓦は鎌倉建長寺と同じ模様であり強いつながりがあったと推測される。
道路は六所宮周辺で結節しており、古代は国府中心にまちが広がっていたが、中世には六所宮という宗教施設を中心に密集して形成されたことが発掘調査から確認できる。江戸時代に開かれた甲州街道は東西路線だが、中世の鎌倉街道上道は古代の東山道武蔵路に近い南北路線であった。政治的・軍事的に重要路線と認識されており、まちの形成にも大きな影響を与えた。

 奈良時代に建立された武蔵国分寺は、発掘調査の結果、10世紀~11世紀には衰退期にあったと確認されている。国分尼寺跡北方の切通しに残る鎌倉街道が尼寺上を通っていることからは、尼寺が鎌倉時代には消滅していたとも推定される。
中世の国分寺を語る資料「医王山縁起」等によれば、永承庚寅年(1050)に源頼義が来訪し奥州合戦の加護を祈り、治承4年(1180)には文覚上人が頼朝の開運を祈願したとある。元弘3年(1333)には分倍河原の合戦により七堂伽藍は焼失したが、後に新田義貞が唯一焼け残った「薬師如来坐像」のために黄金を寄進し薬師堂が建立されたとも記されている。
この薬師如来の造像は平安時代末(12世紀)であり、この頃も国分寺の活動が継続していたことは確実である。国分寺の創建期の本尊は釈迦如来であったが、国分寺造営途上の天平17年(745)に聖武天皇の病気平癒を目的に諸国に薬師像の造立が命じられた。武蔵国分寺をはじめ現存の諸国国分寺が薬師如来を本尊とする例が多いのはこのためであろうか。
また、深大寺住僧・長弁執筆の「私案抄」には、応永7年(1400)に武蔵国分寺薬師如来の脇侍である日光・月光菩薩像の勧進状が記されている。これに先立ち十二神将像を修造したらしいが、現在の十二神将像は元禄2年(1689)の作である。

 中世の考古情報は古代に比べ僅少で、特に11~12世紀の遺跡の少なさは東国で普遍的でありそれ以降も少ない。その原因は古代の土器・陶磁器に比べ中世は木器や漆器が使用されるようになったために発掘されにくいこと。10世紀ごろから大きな穴を残す竪穴建物が消滅し、掘立柱建物に移行したために小さな柱穴跡を見つけにくくなったことが考えられる。
国分寺市の中世遺構で発掘がある程度進んでいるのは、鎌倉街道添いの恋ヶ窪廃寺・伝祥応寺周辺である。恋ヶ窪廃寺跡からは、平安後期の礎石建物跡、13世紀末頃の掘立柱建物跡、14世紀後半から15世紀末にかけての土坑墓・火葬墓跡が発見されている。伝祥応寺跡は国分尼寺跡北方の台地上にあり、切通しの西に土塁と礎石建物・土坑墓跡が発掘されており、西には小高い塚が残されている。この2寺跡の存在は国分寺を中心に宗教活動が続けられていたことを示している。
この時期の文化財として府中市善明寺の鉄仏(国の重要文化財)がある。像高170.3㎝、380㎏という現存する最大の鉄仏である。左襟と左袖に銘があり、藤原姓の3名の女性が亡き父母の供養等を願って建長5年(1253)に建立、作者は黒鉄谷(くろがねやつ)の藤原助近とある。この像は江戸後期には六所宮にあったが明治の神仏分離により善明寺に移されたものであり、それ以前は現在の国分寺の地にあったと伝えられている。
一説には、国分寺の恋ヶ窪に伝わる畠山重忠と遊女との伝説に絡み、遊女の死を悼んだ畠山重忠が造立したと伝えられるが、畠山重忠の没年は1205年であり年代が合わない。有力なのは黒鉄谷・伝祥応寺旧在説である。重い鉄仏を遠方から運ぶことも考えにくく、伝祥応寺跡・尼寺跡近辺には今も「黒鐘」の地名が残っていることから、善明寺の鉄仏はそこに存在していたものである蓋然性が高い。

 以上のように、中世については発掘調査により少しずつ判明してきているが、国分寺については遺跡中心部での考古情報が少なく、13~14世紀が空白期となっている。今後は鉄仏の鋳造遺構が発掘される可能性もあり、現在の国分寺周辺をはじめ崖線下の発掘に期待したい。

 以上で先生のお話は終了したが、ご講演は我々の学習の空白部分を補っていただくに余りある内容であり、今も先生の張りのあるお声が耳に残る第100回記念にふさわしい素晴らしいご講演であった。               (文責 星野信夫)