国分寺三田会第16回講演会を開催いたしました。

  1.日時:令和6年7月7日(日)14時30分~16時40分
  2.会場:国分寺市立cocobunjiプラザホールリオンホール
  3.講師:片山杜秀氏(慶應義塾大学法学部教授)
  4.演題:歴史から見た世界情勢(国分寺市、および国分寺市教育委員会後援)
  5.来場者:188名(国分寺三田会会員81名、塾員センター、近隣三田会、稲門会19名、
           国分寺小金井在住塾員37名、家族・友人31名、一般20名)

国分寺三田会の講演会は、今年で16回目を迎え、7月7日(日)14時30分からcocobunjiプラザリオンホールで開催しました。講師には政治思想史研究者であり音楽評論家でもある、慶應義塾大学法学部の片山杜秀教授*1をお招きし、「歴史から見た世界情勢」というテーマでお話を伺いました。この講演では、作曲された当時の社会・政治情勢を色濃く反映したクラシック音楽*2を交えながら、今日のウクライナ・ロシア情勢につながる経緯や背景を解説いただけるということで、幹事一同、開催前から講演当日を非常に楽しみにしながら準備を重ねてまいりました。

当日は東京都知事選挙の日と重なったほか、気温が40度近くに達するほどの猛暑となりましたが、国分寺三田会会員及びその家族・友人、来賓、一般の方など188名もの方々にお越しいただき、会場はほぼ満席となりました。今回の講演には、20名の一般市民をはじめ、国分寺市・小金井市在住に在住する、国分寺三田会の会員ではない塾員の方37名の方にもご参加いただき、地域社会の発展に向けて、ささやかではありますが貢献できたと考えております。

司会の上原さん(59文)の開会の辞と平林会長(47経)の挨拶に続き、いよいよ片山教授の講演が始まりました。最初は幾分スローペースで和やかに始まった講演も、気が付くと佳境に入り、時間的・空間的広がりのあるテーマが、関連する音楽を交えながら、圧倒的な情報量と熱い語り口で解き明かされていきました。

多岐に亙る内容の一部を抜粋してご紹介しますと、

「ロシアの起源と考えられる現在のウクライナの首都キーウ(キエフ)は、13世紀にモンゴルによって破壊され、キエフ大公国は、この時に滅亡させられた。このような痛みを伴う歴史的事実は、ロシア正教とカトリック、イスラム教との宗教対立と相俟って、『攻め込まれる前に押し込む』というロシアの行動原理が、形成されていった。ちなみに、東方から攻め入ったモンゴルは、比較的寛容で、貢ぎ物さえしていればロシア正教からの改宗を迫るようなことはなかった。このため、ロシアとしては、むしろモンゴルを後ろ盾にして、同じキリスト教徒でありながら、正教から改宗を迫るドイツやスウェーデンの騎士団との全面的な対決の道を選んだ。こうした政策を牽引した中世ロシアの英雄とされるノブゴロド公アレクサンドル・ネフスキーの姿は、現代のプーチンと重なるものがある」

「ポーランドやトルコとの長い間の角逐や、地中海につながる黒海の要衝であるセバストポリを擁するクリミア半島のプーチンによる一方的併合なども、このロシアの歴史的体験と『防衛のため攻撃する』という行動原理で説明できる」

このほか、ムソルグスキー作曲のオペラ「ボリス・ゴドゥノフ」に絡めて、ロマノフ朝出現の前までの「ロシア動乱期」に、ロシアの混乱に乗じてポーランドが侵略してきた歴史と、イスラエルとロシアの類似性について言及されたところで、予定していた時刻となりました。引続き質疑応答に移り、丁寧にお答えいただきました。

講演の終了に際して、参加者の皆さんから盛大な拍手が送られ、「素晴らしい講演で、多くの気付きと示唆をいただいた。まだまだ続きをお聴きしたい」といった感想・ご意見が多数寄せられました。

片山教授の豊かなご見識と、真摯で柔らかなお人柄に改めて心から敬意を表しますとともに、ご多忙な中、講演をお引き受けいただいたことにこの場をお借りして篤く御礼申し上げます。

*1 片山杜秀氏プロフィール
1963年宮城県仙台市生まれ。東京都武蔵野市、杉並区、中野区で育つ。慶應義塾大学大学院法学研究科後期博士課程単位取得退学。政治思想史研究者、音楽評論家。1990年代から執筆や放送出演を生業とする。2008年から慶應義塾大学法学部准教授。2013年から教授。日本近代音楽の研究により、2006年度の京都大学人文科学研究所人文協会賞、『音盤考現学』、『音盤博物誌』により2008年度の吉田秀和賞とサントリー学芸賞、『未完のファシズム』により2012年度の司馬遼太郎賞を受ける。その他の著書に『見果てぬ日本』、『大楽必易』、『皇国史観』、『尊皇攘夷』、『歴史は予言する』等、共著に『近代天皇論』、『平成史』、『ごまかさないクラシック音楽』等がある。

*2 当日会場で流された曲
・キエフの大門(ムソルグスキー作曲「展覧会の絵」から
・韃靼人の踊り(ボロディン作曲「イーゴリ公」から
・氷上の戦い(プロコフィエフ作曲「アレクサンドル・ネフスキー」から
・戴冠式の場面(ムソルグスキー作曲「ボリス・ゴドゥノフ」から
・革命(ショパン作曲)
・ロシアの踊り(チャイコフスキー作曲「くるみ割り人形」から)
・小ロシア(チャイコフスキー作曲 交響曲第2番)
・ポルタヴァの戦い(チャイコフスキー作曲「マゼッパ」より)
・マイム・マイム(プガチョフ作曲)

◆当日会場で流された曲は下記手順で聞くことができます。
     ”ここをクリック” ⇒ 該当曲URLにアクセス。

◆会員専用頁に「講演録」を掲載いたしました。会員の方は是非お読みください。
     ”ここをクリック”

 

【講】国分寺三田会第15回講演会を開催しました。

  1. 日時:令和5年7月1日(土)14時30分から16時30分
  2. 会場:国分寺市立いずみホール(Aホール)
  3. 講師:新井 康通 先生(慶應義塾大学 看護医療学部教授、医学部百寿総合研究センター長)
  4. 演題:百寿研究から学ぶ健康寿命の延ばし方
  5. 来場者:246名(新井先生、国分寺三田会会員97名、塾員センター・近隣三田会・稲門会27名、
            近隣在住塾員(非会員)2名、ご家族・ご友人他102名、一般17名)

今回の講演会は国分寺三田会年間三大行事の一つとして開催されたもので、リーダーの小川副幹事長(S.54経)以下幹事全員で取り組んできました。講演会に先立つ5月には新型コロナの扱いが2類から5類に弱められ、新規感染者数も低位安定していることから、2019年以来4年ぶりに、対面でしかも来場者数の制限も解いて開催することが出来ました。
今回成功裏に講演会を開催し、新井先生という謂わば時代の要請を代表するような百寿総合研究センター長をお招きできたのは、会員全員の熱意と、いち早く百寿というテーマを前面に出して新井先生にお願いした先見性の賜物であったと考えます。
更には昨年の橋本五郎氏の講演会終了直後から、即ち一年前から、テーマを考え講師を捜し始める、という早め早めの対応が功を奏した事も特筆すべきであり、国分寺三田会では「一年前ルール」とも言うべき早めの準備開始が定着するきっかけにもなりました。
新井氏は慶應義塾大学医学部をご卒業後、当時の老年科に入局、1995年から百寿者調査に参加されました。超百寿者(105歳以上)やスーパーセンチナリアン(110歳以上)の調査、長寿家族調査などを進めながら、健康長寿の要因について研究されています。
人類は寿命を延ばしてきましたが、同時に認知症やフレイル、骨関節疾患などの為に介護の必要性も増えており、将来の医療・介護負担の増加が懸念されている今日です。高齢者の生活の質の確保と社会保障システムの持続可能性を両立するために、今回の演題は重要なカギとなるものと考えました。
当日は演題への興味の深さを反映して多くの来場者にお越しいただきましたが、コロナ予防による50%規制をした昨年に比べ、ホールの収容人員の7~8割という大きな目標に対して、幹事一同知恵を絞り、汗を流した結果、会員の家族、友人に加えて、市内の公民館にチラシを置く、市報への掲載、などの努力が功を奏し、一般市民の方々の参加も得て、250人近くの来場者を集めることに成功しました(当日欠席者を含む正式申込者数は270名越え)。
当日は、246人の来場者が待つなか司会の上原安江さん(S.59文)の開催の辞に続いて平林正明会長(S.47経)の開会の挨拶と新井先生の紹介に続き、先生が登壇し講演が始まりました。
新井先生の明快な語り口と医学的研究成果に基づく数々のデータや各種分析は来場者の心を掴み、会場は講演に引き込まれて行きました。
講演の最終段階では健康長寿の延ばし方として次の5項目が示されました。

  • 肥満を避け、糖尿病・動脈硬化を予防する
  • 後期高齢期以降はフレイル(虚弱化)と認知症の予防がカギとなる
  • 百寿者は誠実性と開放性が高く、ポジティブな考えの方が多い
  • 適度な運動、バランスの良い食事が健康長寿につながる
  • 社会とのつながりや地域参加を促進する

これらは全ての来場者に共通して当てはまる事であり、夫々に理解・納得されて大きくうなずく姿が会場全体で見られました。
講演後の質疑応答も活発になされ、予定の時間配分ギリギリの時間内に男女6人の方々から質問がありました。新井先生からは一つ一つに丁寧にお答え頂きましたが、中でも「社会とのつながりや地域参加」の好例として、当三田会に代表されるような活動を挙げて頂き、会員一同を我が意を得たと喜び合いました。
各来場者はこれからの生活設計を頭に具体的に描いて、こうした事柄を実践していこうとの決意の下に講演会場を後にされたものと思います。
講演会後には、これも4年ぶりに、対面による懇親会が場所を移して国分寺駅傍の「デンズキッチン」で新井先生にもご参加いただき、総勢61名で行われ、大いに盛り上がりました。

会員専用頁に下記を掲載しました。会員の方はご覧ください。
(1)スナップ写真集  ここをクリック
(2)講演会配布レジメ ここをクリック
(3)講演録      ここをクリック

スクリーンショット (264)

デンズキッチンでの懇親会。講演会後の懇親会は4年ぶり。新井先生を囲んで大いに盛り上がった。

【講】国分寺三田会創立20周年記念講演会を開催いたしました。

1. 日時:令和4年6月11日(土)14時30分~16時40分
2. 会場:国分寺市立いずみホール(Aホール)
3. 講師:橋本五郎氏(読売新聞特別編集委員)
4. 演題:岸田政権の今後の行方
5. 来場者:185名(国分寺三田会会員98名、塾員センター、近隣三田会、稲門会21名、     
          国分寺・小金井在住塾員(非会員)21名、ご家族・ご友人他45名)

今回の講演会は、当国分寺三田会創立20周年の記念行事の一環として開催するもので、1年以上の準備期間をもってタスクフォースを編成し、リーダーの髙橋副会長(S45法)以下幹事全員で取り組んできました。幸いなことに、開催日に近づくにつれ、感染者数に減少傾向がみられ、3年ぶりに対面形式での講演会を開催することができました。
コロナ禍の先行きが見通せない中、コロナ感染状況の把握に努め、政府や東京都、国分寺市の対応を注視しながら、安心・安全の確保を大前提に国分寺市や会場のいずみホールの担当者の方々と緊密な連携を図り、万全を期す覚悟で準備を重ねてきました。
今回の講演会は、国分寺三田会創立20周年の節目を飾る行事ですので、講演会に参加される皆さんの心に響き、長く深く記憶にとどまるような、いわば記念碑的なものにしたいとの強い思いがありました。
このため、斯界一流の講師をお招きできるかが非常に重要なポイントでしたが、昨年5月に、長年に亙り政治記者として活躍され、的確で鋭いコメントに定評のある読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏に講師を打診しました。
橋本氏は、1946年に秋田県で生まれ、1970年に慶應義塾大学法学部政治学科をご卒業の後、読売新聞社に入社され、論説委員、政治部長、編集局次長などを歴任され、現在も同新聞紙上「五郎ワールド」を連載し健筆を揮われるほか、読売テレビウエークアップのコメンテーターとして活躍されているため、スケジュールを割いていただけるかどうか心配しましが、快諾のお返事をいただき、幹事一同にはこの上ない喜びとなりました。
開催当日は、予定開場時刻前から多くの方が会場を訪れ、検温、受付の後、感染症防止対策に向けての注意事項が記載された用紙を受け取り入場が開始されました。最終的には三密対策で収容人員の50%とした席がすべて埋まり、講演開始までの間、慶應カレッジソングが静かに流れ、来場の皆様をお迎えしました。 学生時代や国分寺三田会の20年間の歩みに思いを馳せた方もおられたことでしょう。演台の横の見事な生け花も会場に彩りを与え、記念講演会に相応しい気品を醸し出しました。
定刻となり、司会の上原安江さん(S59文)の開催の辞に続く、平林正明会長(S47経)の開会挨拶の後、いよいよ講師の橋本氏が大きな拍手の中を満面の笑顔で演台に向かい、講演が始まりました。
当日の演題は、「岸田政権の今後の行方」でした。
講演は冒頭から熱を帯び、ロシアによるウクライナ侵攻の背後にある問題、日本が学ぶべき教訓について、時に静かに、時に大迫力のトーンで持論が展開され、橋本氏が「暑くなったから上着を脱ぎます」と、客席の平林会長にジャケットを手渡したころには、早くも「五郎ワールド」に満員の聴衆が魅了され、全員が「五郎ファン」になっているように見えました。
講演はさらに佳境に入り、菅政権と岸田政権の比較、内閣支持率の様々な要因、オリパラ組織委への評価、政治家と決断力など多面的なテーマについて、踏み込んだ見解が惜しみなく披露され、瞬く間に前半を終了しました。
休憩を挟んで、後半は新聞記者を志した理由、亡きご母堂の教えや、故郷秋田の地に蔵書を寄贈して開館した橋本五郎文庫などのお話を経て、喫緊の課題である日本の格差是正問題に触れられ、主張する手段のない人たち、弱い立場の人たちの声に向き合うことの重要性が強く訴えられ、橋本氏の深い見識に裏打ちされた充実した講演内容と温かいお人柄に、共感と感謝を込めて万雷の拍手が送られました。
質疑応答セッションでは、野党の役割と現状の評価、米国の銃規制の問題、SNS全盛の中でのメディアの行方など時宜に適った質問が相次ぎ、それぞれに橋本氏が明快に回答されて、記念講演会の掉尾が立派に飾られ、再び盛大な拍手とともにお開きとなりました。
恒例の講演会後の懇親会をコロナ禍の現状に鑑み、見合わせたほか、安心・安全を最優先させて人数制限を設けて開催に漕ぎつけた記念講演会でしたが、講師のエネルギー、お人柄を直接感じられる肌感覚と講師と聴衆の一体感は、やはり対面形式ならではのものでした。
終了後程なく、多くの方々から感動と感謝の言葉を直接、あるいはメールなどでお寄せいただきました。心から御礼申し上げます。
一連の創立20周年記念行事に相応しい、内容の濃い充実した講演会を安全に滞りなく開催できたことに、安堵と充実感を憶えるとともに、20周年を迎えるまでにご尽力いただいた先達に良い報告ができることを、幹事一同嬉しく思っております。
最後になりますが、超が付くご多忙の中、開催趣旨にご賛同いただき、貴重な講演を賜った橋本五郎様にこの場をお借りして改めて深く感謝・御礼申し上げますとともに、今後の益々のご健勝・ご活躍を心からお祈り申し上げます。

【講】国分寺三田会第13回講演会をオンライン(Zoom)で開催しました。

■開 催 日:2021年(令和3年) 6月 20日(日)14 時 00 分~16 時 10 分
■開催場所:オンライン(Zoom)方式
■講演テーマ:『先端生命科学が拓く地方創生』
■講師:冨田勝氏(慶應義塾大学環境情報学部教授)
■主催:国分寺三田会
■出席者数:80名(当初参加予定者86名)

 新型コロナウイルスによる緊急事態宣言の中、上記の通り参加者の安心・安全を考慮して完全なオンラインでの講演会を開催しました。
冒頭、全員で『塾歌』を斉唱、前原会長代行で平林副会長がオンライン講演会に至った経緯と冨田勝先生を紹介した後、慶應義塾大学先端生命科学研究所所長でもある冨田勝先生に『先端生命科学が拓く地方創生』をテーマに約2時間の講演を頂きました。今年は後援協力の依頼を一切行わず、参加者も国分寺三田会会員に限定しての講演会となりましたが、慶應関係者3名・国分寺三田会OB1名を含む80名の方に参加いただきました。
 当初、オンライン講演会では臨場感に欠けるのではとの懸念の声もありましたが、冨田勝先生のお話は,多岐にわたる動画を上手に活用され、臨場感にも溢れ、大変分かり易く、画期的な講演会であったと称賛の声が多く寄せられました。
オンライン講演会に参加された感想として、
〇一年振りに会員同士の顔が見られ懐かしさで胸が一杯になった。
〇講演会を視聴して、慶應義塾大学が鶴岡キャンパスの成功・発展によって日本の科学、経済、社会に大きな貢献をし
 ていることを痛感。一塾員として大きな誇りを感じることができた。等々・・・オンラインならではの交流の楽しさ
 も目立ちました。
また、講演会プログラムに多くの音楽を盛り込み、視聴者に飽きのこない工夫もされました。
〇開始前:今春の東京六大学野球優勝、全日本大学野球選手権優勝を祝いカレッジソング
                  ・・・「ダッシュ慶應」、「丘の上」、「慶應賛歌」等。
〇休憩時間:冨田勲氏(冨田勝氏のお父様)が作曲された大河ドラマ「花の生涯」「勝海舟」
〇最後の閉めは『若き血』を全員自宅で斉唱。
 井上幹事長による冨田勝先生への感謝のエールでお開きとなりました。
〇エンデイングの音楽は松田聖子の「瑠璃色の地球」で癒されながら退出しました。

冨田勝先生の講演概要は下記の通りです。
講演会のご案内で添付された参考文献も参照ください。(2021.4. P68~71)
冨田勝氏著 三田評論掲載『鶴岡タウンキャンパス開設20年』 ~福澤スピリットで結実した学問による地方創生~
                    (ここをクリックで閲覧できます)

『先端生命科学が拓く地方創生』講演概要

1.慶應義塾大学先端生命科学研究所
1999年山形県・鶴岡市・慶應義塾の3者の協定で2001年4月に研究所をオープンすることが決まり、2000年の秋に私が所長に任命された。
研究所の主力技術はメタボローム解析という究極の成分分析技術で、一度の測定で対象のサンプル内にどういう物質がどのくらい入っているか分析できる。それまでの研究はまず仮説を立て、そこに結び付く代謝物を分析するもので、メタボローム解析はそれとは真逆のやり方だったが、2011年に研究チームは血液のメタボローム解析で肝臓疾患の人だけがある代謝物の濃度に違いがあることを突きとめた。これにより鶴岡に世界最高の技術があると評価され、世界中から企業や研究者が押し寄せることになった。
現在慶應鶴岡発ベンチャー7社の従業員は550人、これに慶應を入れると約670人の雇用を生み出しており、これは鶴岡市の労働人口の1%にあたる。さらに国の研究機関やIT企業が鶴岡に入ってきている。ゼロから産業を創る、地域の為でなく日本ひいては人類・社会の為に産業を興す、それがうまくいけば結果的に地元も潤う。

2.慶應鶴岡発ベンチャー企業
1)HMT(ヒューマン・メタボローム・テクノロジーズ)社
  2003年創業、2013年東証マザーズ上場。慶應を誘致して13年目に庄内地方として9社、そして庄内に本社のある
  企業としては唯一の上場企業となった。
  基本的には受託分析で、企業からサンプルを受け取り有料で分析して返すというビジネス。最近ではアンジェスと 
  いう国産のDNAワクチンを作っている会社と提携。
2)Spiber(スパイバー)社
  人工のクモの糸を作るところから発想を得て、クモの糸に限らずタンパク質素材を微生物につくらせることを可能
  にした企業。
  アプリケーションは多々あるが今一番力を入れているのはアパレル。ナイロン・ポリエステルは、石油由来という
  こともあるが、最終的にマイクロプラスチック・ナノプラスチックとなって海にいき地球環境に悪影響を及ぼす。
  一方タンパク質素材は何年か後に土に還るという生分解性があり、さらにアニマルフリーでもある。
  代表者の関山和秀氏が大学生の時の飲み会で、たまたまクモの糸が話題になったのが発端だったが、天然のクモの
  糸は重さ当たりの強靭性が鋼鉄の340倍といわれ、既に米軍やNASA等名だたる組織が人工のクモの糸の研究に取
  り組みながら成功しておらず、当初周囲の反応は否定的だった。しかし、タンパク質由来の新素材を実用化するこ
  とは持続可能な社会をつくる上で大きな役割を果たすと考え、研究を応援した。
  本人ができると思ったら気の済むまでやるべきで、例え失敗しても時間の無駄ではなく、その過程で人は成長す
  る。今は人毛に替わるカツラの素材としてアデランスとの共同研究も進めているが、課題は量産化。本年3月タイ
  に鶴岡第二工場の100倍の規模の工場が完成、2023年にはさらにその10倍の工場がアメリカにできる予定。
3)Saliva Tech(サリバテック)社
  医療機関と提携して唾液による癌のスクリーニング検査を行っている。ストローと小さな容器の専用キットが実用
  化されビジネス化されており、国内1300の医療機関でおよそ3~4万円で検査を受けられ5種類の癌のリスクを調
  べることができる。唾液を解析センターで専用装置にセットし、癌のリスクをAからDの4段階で判定する。自宅で
  唾液を採取して送るというサービスも去年始めた。更に血液での鬱病の補助検査も実用化に向けて研究中。
4)メタジェン
  世界初となる便を常温保存できる検便キットを作った。便の中には病気を治してくれる腸内細菌がおり、世界中か
  ら便を集めて取っておけば、将来そこから菌を取り出して薬にできる可能性がある。但しその為には冷凍技術は使
  えず常温保全が必要となる。腸内細菌のバランスは最近非常に注目をあつめており、免疫や糖尿病・動脈硬化、更
  に精神疾患にも関与していると言われており、新型コロナの重症化にも関わっているとの研究結果もある。
5)ヤマガタデザイン
  社長の山中大介氏はSFC出身だがバイオとは関係なく、アメリカンフットボール部OBで、卒業後大手不動産会社
  に7年間勤務後鶴岡で街づくりの会社を始めた。
  前からサイエンスパーク内に宿泊施設が欲しいという話があり、山中氏がたまたまSFCの教授をやられていた坂茂
  氏にデザインを頼み込み、スイデンテラスが完成した。サイエンスパーク、学園都市と言うと日本では研究所の団
  地みたいになってしまうが、研究者がそこに移る時の最後の課題は家族を説得することで、家族からここに住みた
  いと言って貰えるような街づくりを目指している。

3.人材育成
今藤沢キャンパスの学生が鶴岡キャンパスの寮に泊まって毎日実験をやるバイオキャンプと呼ぶカリキュラムがあり、ここでは1年生から研究を開始する。週末には学生たちは山形の自然や文化を満喫するが、これも授業の一つ。大切にすべきことはひらめきとかアイデアであり、つまりサイエンスもアートであり自然や文化に触れて感性を磨くことが重要だと思う。
2009年以降、市内の普通高校と酒田東から多くの高校生を助手や研究生として受け入れている。市内の高校生全員にチラシを配っているが、応募条件の一つは“世界的な生命科学者になる意欲を持っていること”、もう一つは“特別研究生に採用されたら研究成果をアピールすることでAO入試若しくは推薦入試に臨む気概を持っていること”。つまり中途半端にセンター試験の勉強をせず、好きな研究をやり詰めて出した結果をアピールすることで大学に採ってもらう気概を持っている高校生は受け入れて全面的に援助するという制度。慶應の5つの高校からも3~4人ずつ選抜し、2~3泊で実験・実習をやるイベントがあり、2つの小学校の6年生と中学校の1年生合わせて30名に鶴岡に来てもらって同様のイベントを行っている。
また、世の中の問題で文系だけで解決できる問題なんてないし、理系だけでも解決できないという観点から、文理融合を目指して大企業の会社員も受け入れている。大企業の経営者と話をすると、皆うちの社員は優秀だが人と違うことをやる人がいないと言う。人と違うことをする人がいないと社会も組織も進歩しないし、そういう人を応援するのが慶應の理念だと思っている。
2018年  3月に損害保険ジャパン日本興亜と包括連携協定を結んだのを皮きりに第一生命と明治安田生命とも協定を結び、その後日本ユニシスと、またつい最近SMBC日興証券とも同様の協定を結んで、現在10名の会社員が文理融合で活躍している。彼らは自分でテーマを選んで研究を行っており、ゼロから考えることで力が付き面白いアイデアが出るとかんがえている。
福沢先生に“異端妄説の譏(そしり)を恐れることなく、勇を振って我思う所の説を吐くべし”という言葉があるが、私はこれを“流行や権威に迎合する優等生ではなく、批判・失敗を恐れず勇気を持ってやれ”と理解しており、これが福沢スピリットの原点であり慶應義塾の理念のはず。私は鶴岡ではこの理念を愚直に守っている。そのスローガンの一つが“普通は0点”。世間では65点ぐらいが普通だろうが、このキャンパスでプレゼンして、でもそれ普通だね、と言われたらそれは全否定つまり0点を意味する。普通のことは普通の人がやってくれたらいいのであって、私たちは普通の人がやらないことやろう。皆と同じことを上手くやる人は優等生ともてはやされるが、私たちは脱優等生を応援する。

質疑応答

  • いろいろな技術者の方々が異なる分野で研究されていると思うが、どんな仕組みで彼らのアイデアを導きだしているのか。
    ⇒ 研究者も人間だから研究しながら楽しいと思える環境を整えることが必要。その考えに基づき当初からジャグジー・サウナ・仮眠室を完備している。リラックス施設はけしからんという発想をやめないと日本のサイエンスは進歩しない。
  • ハヤブサが貴重なサンプルを持ち返ったが、メタボロームで早く解析できないか。
    ⇒ 既にJAXAと話を進めている。但し、解析そのものはすぐだがそれは元データに過ぎず、解析結果にどんな意味があるか考えたり、それを裏付ける実験が必要となる。
  • タイやアメリカにクモの糸の工場を作るとの事だが、今は経済安全保障ということが言われている。なぜ日本国内ではなくタイ・アメリカなのか。
    ⇒ 研究開発本部は日本で、持って行くのは大きなタンクの部分のみ。コスト上ネックとなるのは微生物の餌となるバイオマスで、タイはバイオマスが豊富なことから量産化の部分のみタイに置こうというもの。また一国に頼るのは安全保障上危ないのでアメリカにも工場を作る予定。
  • 2年前分科会で鶴岡見学を計画したが地震で中止。今後も塾員向け見学会を実施するか。
    ⇒ 今後共観光とセットにした塾員向けツアーを実施するが、いずれにせよワクチン後。
  • 先生が所属する環境情報学部のアイデンティティーをどのように評価されているか。
    ⇒ 今までの教育は学部に学問分野の名前がついていたが、これからは学問分野をマスターするのでなく、例えば地球環境とか高齢者福祉といったイシューに取り組むべき。そのイシューの解決の為に、文理を問わずあらゆる分野の勉強をして、それを卒業論文にするのがSFCのスタイル。
    教育で一番重要なのはモチベーションで、好きなテーマを見つければ基礎がなくとも研究を始められるし、研究をスタートすれば何を勉強すべきかわかる。そうなると勉強は楽しくなる。これからはオンデマンドで学んでいく力をつけるべきで、大学を卒業しても勉強だと思う。SFCにおけるあなたの専門は、と聞かれた時、そこにはイシューがくる。それに向けて各学問分野をオンデマンドで勉強する。そしてまたテーマを替えてまたオンデマンドで勉強する。そうやって自分が成長していくと思う。

以上

<冨田勝氏略歴>

1957年東京生まれ。慶応大学工学部卒業後、米カーネギーメロン大学に留学し、コンピューター科学部で修士課程(1983)と博士課程(1985)終了。その後、カーネギーメロン大学助手、助教授、准教授、同大学自動翻訳研究所副所長歴任。1990年より慶応義塾大学環境情報学部助教授、教授、学部長、評議員を歴任。
米国National Science Foundation大統領奨励賞(1988)、日本IBM科学賞(2002)、科学技術政策担当大臣賞(2004)、文部科学大臣表彰科学技術賞(2007)、International Society of etabolomics功労賞(2009)、福澤賞(2009)、大学発ベンチャー表彰特別賞(2014)、Audi Innovation Award(2016)、鶴岡市市政功労者(2016)、国際メタボローム学会終身名誉フェロー(2017)、山形県特別功労賞(2017)第68回河北文化賞(2019)などを受賞。

 

【講】国分寺三田会第12回講演会を開催しました

国分寺三田会第12回講演会
主催:国分寺三田会
後援:国分寺市、国分寺市教育委員会

2019年6月16日(日)、JR国分寺駅北口cocobunji WEST 5階リオンホールにおいて、第12回国分寺三田会定期講演会を開催致しました。講師には吉井博明氏(東京経済大学名誉教授)をお迎えし、渡邉会長挨拶の後、「国分寺市の地震危険と備え」をテーマに講演頂きました。会場には当会会員に加え、近隣三田会・稲門会、欅友会、一般市民の方々等出席者総数166名の皆様が参加され、大変盛況な講演会となりました。講演では地震発生のメカニズムの解説や数多くの詳細なデータが示された他、阪神・淡路大震災、東日本大震災、熊本地震の動画も加わり、臨場感溢れたものとなりました。講演概要は下記の通りです。
尚、引き続き行われた懇親会には81名の方々が出席され、星野副会長による挨拶の後、立川三田会顧問大石敏雄氏、国分寺稲門会会長清水元氏にご挨拶を頂き、会食・歓談に移りました。中程で新入会員の紹介もあり、会場は和気藹々のムードで熱気に包まれ、楽しい盛大な会となりました。
最後は参加者全員が肩を組み、「若き血」を高らかに歌いお開きとなりました。

講演概要

  1. 大災害とは何か
    大災害は防災機関の対応能力を大幅に超える被害発生の為、重要な案件に救急対象が絞られる(公助の限界)ので、被災者自身やボランティアによる自助、共助が重要性を増す。阪神・淡路大震災等では要救出者の内の8割(2.7万人)が近隣住民や家族等により救出されている。 大災害が発生すると、経験の乏しさ、被害の状況不明、情報不足等により何をどういう順序でなすべきか対応が極めて難しい。 如何なる準備が必要かというと、①大災害が起きた時の具体的な災害イメージを予め持って置く事(例:立川断層が動いた時は、阪神淡路大震災等の実例を見て、その状況をイメージして置く事)、②また必要な対応の実行可能性を事前に考え、災害発生後では対応出来ない場合は、事前に対策を実施して置く事、③更に頭の訓練に加え実技(実働)訓練で鍛えて置く事が必要である。
  2. 首都圏(国分寺市)の地震危険
    首都圏・東京の地下はプレート3枚が重なっている為、世界の中でも最も地震危険が高い。
    (1)首都圏で被害をもたらす地震の種類
    地震の種類には活断層型地震・海溝型地震(=プレート境界型)・プレート内地震がある。首都圏に被害をもたらすのは比較的浅い所で発生する地震である。
    東京都は立川断層帯の地震(活断層型地震)の規模をM7.4程度、30年発生確率は0.5~2%、国分寺市の震度は6強(一部7)と想定している。
    因みに関東大震災(プレート境界型)による想定では、国分寺市の震度はほぼ全域で6弱であった。(因みに震度6弱と6強の被害は全く異なる)。 また南海トラフ巨大地震(プレート境界型)による想定では、国分寺市の揺れは震度5弱であり、東日本大震災の時とほぼ同程度であるが、長周期振動(往復数秒~10秒位の間隔でゆっくりゆれる)が危険である。
    (2)首都圏でM7クラスの地震が発生する確率
    首都圏におけるM7クラスの地震は元禄関東地震と大正関東地震の間、220年に8回発生しており、平均発生間隔は27.5年である。このような地震がランダムに発生するとすれば、首都圏のどこかでM7程度の地震が今後30年間に70%の確率で発生する事になる。国分寺直下でも小田原直下でも不思議はない。
    (3)震度6強以上の揺れの発生確率
    国分寺市における発生確率「30年以内に震度6強以上の揺れに襲われる確率」は6~26%(⇒6%に近い方)である。
    (4)国分寺市で想定される、「最悪」の揺れ
    震度6強以上の揺れがどの位のものか、最近発生した地震時の揺れの映像を、 ①阪神・淡路大震災、②東日本大震災、③熊本地震の3例で見て頂く。
               <ここで動画を視聴>
    (5) 震度6強以上の揺れで起きる建物倒壊と家具の転倒
    1)家屋倒壊
    耐震補強してあっても、その後の余震が強いと危ないので、外に出る必要がある。
    2)高層ビルにおける家具の転倒(長周期地震動)
    免振構造では、想定以上の震度になるとかなりの揺れになる。熊本地震で問題となった点である。
  3. 首都圏における過去の地震災害の様相
    地震災害は複合災害であり、揺れによって様々なものが引き起こされる。その典型が火災である。
    (1)関東大震災(1923年9月1日午前11時58分発生)
    一番揺れが酷かったのは神奈川県であった。中でも相模トラフの傍ということもあり、小田原が一番酷く家屋の全潰率100%であった。
    更に火災による被害が甚大であった。火災の延焼速度は人間が歩くより遅い為、まだ大丈夫との思いから、逆に逃げ遅れて死亡したケースが多い。また火災旋風が起こると、今までの被害想定を大きく超える可能性がある。
    (2) 阪神・淡路大震災(1995年1月17日午前5時46分発生)
    国分寺に於ける地震被害を考える上で参考になる地震である。本件では揺れによる家屋倒壊が被害の中心であったが、火災も多発した。通電火災が多かったが、風が弱く大規模延焼は免れた。避難生活の中で亡くなる人(関連死)が多発した。多くの生き埋め、閉じ込めが発生したがその多くは住民が救助した。
  4. 国分寺市で想定される地震被害
    (1)地震による被害の多発性(赤印は、国分寺市で大きな被害をもたらす項目)
    1)揺れによる建物の倒壊や家具の転倒等:死傷
    2)液状化等による建物の傾斜等
    3)山・崖崩れ等による建物被害等
    4)津波による被害
    5)火災延焼による被害:避難行動
    6)工場等の誘発事故による被害
    7)交通機関・道路被害に伴う影響:帰宅困難等
    8)ライフライン被害に伴う生活支障:避難生活
    (2)東京都による地震被害想定の結果
    一番厳しいのが立川断層帯、次は多摩直下型であり、この2つに注目する必要がある。立川断層帯の場合は木造全壊棟数の内の3分の1(800棟)はぺしゃんことなる。また2人に1人が避難する事となる。(国分寺市は人口12万人、木造2万棟、非木造5千棟)
国分寺市の被害 立川断層の地震 多摩直下の地震 元禄関東地震 東京湾北部地震
建物全壊棟数 2,399棟 1,110 368 87
全壊率(木造) 10.80% 4.90% 1.60% 0.30%
全壊率(非木造) 4.20% 2.00% 0.40% 0.20%
出火件数 14件 12 2 2
延焼棟数 4,637棟 3,267 221 191
死者(人) 187人 111 22 9
負傷者(人) 1,725人 1,095 521 196
避難者(人) 58,443人 39,102 17,157 8,187
帰宅困難者(人) 23,791人 23,791 23,791 23,791
エレベーター閉込め 45台 37台 22台 21台

 

  1. 国分寺市民に望まれる地震の備え
    (1) 自宅等の被害を想定する
    自宅建物が倒壊(ペシャンコ、傾く)した場合にその下敷きになり死傷するかも知れない、ブロック塀が倒壊するかも知れない、ドア等が変形し閉じ込められるかも知れない、家具などの下敷きになるかも知れない、といった災害イメージの形成が大切である。
    (2)自分の対応をシミュレーション
    地震発生直後は外に飛び出すか、机の下にもぐるか等自分の身の安全確保の方法を決めて置く事、また消化器の場所確認、懐中電灯はフックで吊って置くなどの工夫、動く時は靴やスリッパが必要(ガラス等を踏む危険性)、ラジオ等での情報収集等対応をシミュレーションしておくなどの必要がある。
    また揺れが一段落した後は外に出て、自宅の被害や近所の様子を確認。火災が延焼し始めたら避難を考える事。
    (3)事前の備えを考える
    ①命を守る・住宅の耐震化
    住宅の耐震化が命を守る上での基本である。耐震診断と耐震補強、建て替え等の備えが必要である。大金を使い耐震補強してもその効果を実感できないとか、工事期間中の不便さ、生きている間に大地震は来ないだろうといった考えが耐震化の判断を阻害するが、工時費には一部公的補助もあり、また何よりも命を守る事を第一に考える必要がある。
    ②命を守る・火災延焼時の避難
    火災延焼時の避難について、延焼のスピードは比較的遅いが、延焼が始まったら安全な場所に避難するのが鉄則である。関東大震災では火に囲まれ逃げ遅れ亡くなったケースが多い。
    ③怪我をしない為の準備と直後の対応
    地震による怪我を防ぐ為の事前対策としては、家具等の転倒防止・ガラスの飛散防止・落下防止等の諸対策、またシェイクアウト訓練(姿勢を低く、体・頭を守る、揺れが収まるまでじっとしているという、身を守るための基本的な行動を一斉に行う訓練)等に慣れて置く事が必要である。
    またいざ揺れた時は、防御姿勢(シェイクアウト行動等)を取る事、2階にいた場合は1階に降りない事、火を使っていた時はその場を離れ、揺れが一段落してから消す事、割れたガラス等に注意してむやみに動き回らない事が必要である。負傷原因の3~5割は家具等の転倒・落下・移動によるものである。転倒防止対策によって有効性に違いがある(L型金具等が有効である)。
    ④帰宅困難:外出中に大地震に襲われた場合 外出中に大地震に襲われた場合、帰宅が困難になる。首都直下型地震による被害は東日本大震災の時よりも遥かに大きくなる事から、より厳しい問題が発生する。例えば、途中で延焼火災やビル倒壊・落下物に巻き込まれる事、交差点や道路の合流点等で人の流れが衝突(群集雪崩)する事など。山手線より内側の地域にいる時は事態が落ち着くまで直ぐに移動せず様子を見た方が良い。個人の準備としては家族との連絡方法や、家族が避難する方法を決めて置く事が必要である。また徒歩で帰宅する場合の準備、事業所等に留まる場合の備え、帰り道の確認(地図、徒歩帰宅訓練)などが必要である。
    ⑤避難生活
    自宅やライフラインが被害を受けた時は避難せざるを得ないが、何処に避難したらよいか。指定避難場所(地区防災センター)はダメージを受けておらず受入れ可能か、入れなかった場合は親戚・友人宅・自宅でのテントや車の中・温泉地等に避難するか。
    避難所での厳しい避難生活(寒さ・暑さ・固い床・狭い空間・劣悪なトイレの状態・プライバシーなし・ストレス)等に対処を余儀なくされる。避難所等での生活はいくら改善しても自宅での生活のようにはならない。
    ⑥共助力の強化
    公助、自助の限界を乗り越える共助力の強化が国分寺市は全国でも最も進んでいる。自主防災組織と地区防災計画が鍵であり各自治会等14の地区で防災計画を策定済または策定中である。
  2. まとめ
    ①国分寺市は今後30年以内に震度6強以上の猛烈な揺れに襲われる危険性が高い。
    ②その場合、耐震性に乏しい建物が大量に倒壊し、消防力を超える火災が発生し延焼する可能性がある。
    ③また、避難所の収容力を大幅に超える避難者が発生し、車避難や軒先避難を余儀なくされる。
    ④大量の帰宅困難者は余震と火災延焼の中を逃げ惑うことになるかもしれない。
    ⑤これらの問題を事前対策(耐震化、家具固定、感震ブレーカー、予備避難所等指定、安否連絡等の対策)や訓練(シェークアウト、初期消火、徒歩帰宅等)によって少しでも改善しておくことが強く求められる。
    ⑥自助と公助による対策だけでは限界があり、地域の共助力も同時に高めておくことが重要。そのためには地区毎に共助の仕組みを作っておくこと (地区防災計画の策定)が強く求められる。多くの市民の皆さんが、各地区で計画の策定や見直しに参加すると同時に、訓練等を通じて防災力を高めることを切に望みたい。

【質疑応答】

  • 災害ボランティアが助け合っていく段階は、いつ頃か?
    ⇒災害ボランティアは色々なタイプがあるが、多くの場合には最初の3日間は難しい。市の場合では社会福祉協議会がボランティアセンターを立ち上げる。それに、だいたい2~3日かかる。危険が去ってから。安全な所を中心にボランティア活動が始まる。
  • どれくらいの間に、どれくらいの確率で本当に地震が来るのか?
    ⇒個人的な見解としては小田原に注目。元禄の関東地震や大正の関東地震の前もM7クラスの地震は小田原で始まった。西相模灘(伊豆半島の東側)で地震が起きたら、次は首都直下が危ない。その時は、国分寺もいよいよ切迫してくる。

IMG_0646

【講】国分寺三田会第11回講演会を開催しました

国分寺三田会第11回講演会

主催:国分寺三田会

後援:国分寺市、国分寺市教育委員会

2018年6月30日(土)、JR国分寺駅北口cocobunji WEST 5階リオンホールにおいて、第11回国分寺三田会定期講演会を開催致しました。講師には北島政樹先生(国際医療福祉大学副理事長・名誉学長、元慶應義塾大学医学部長・病院長)をお迎えし、渡邉惠夫国分寺三田会会長挨拶の後、「がん治療に於ける過去・現在・未来」という演題で講演を頂きました。国分寺三田会会員に加え、近隣三田会・稲門会、KP会、欅友会の皆様を始め多数の一般市民の方々も参加され、出席者総数221名の皆様で会場は埋め尽くされ、たいへん盛況な講演会となりました。講演に続く質問タイムに於いても、一般市民の方とのユーモアある質疑応答、切実な要請に対する親切な対応も含め、幾つもの活発な質疑応答がなされた後、講師よりがんを予防する為の方策(講演概要末尾質問6への回答に記載)が示される等、1時間40分に亘る大変意義深い講演会となりました。講演概要は下記の通りです。

尚、引き続き行われた懇親会には北島先生を始め86名の方が出席され、国分寺三田会会員である目黒克己氏による開会の辞・乾杯、清水元国分寺稲門会会長の挨拶の後、会食・歓談に移りました。各テーブルでは講師と出席者との会話も弾み、一緒にスナップ写真を撮るなど、和気藹々・盛大な懇親会となりました。 最後は井上徹幹事指揮の下、参加者全員が肩を組み「若き血」を声高らかに歌い、お開きとなりました。

講演概要

 1991年に慶應義塾大学医学部教授に就任時、3大テーマとして下記を掲げた。

  1. 移植医療
  2. 内視鏡外科手術
  3. 外科腫瘍学

移植医療については1995年4月に小学生に初めて肝臓移植手術を行った。当時は阪神淡路大震災が発生し慶應義塾よりも現地に医療団を送った年、またオームのサリン事件が発生した年でもあった。当時肝臓移植手術は保険の適用が無かったが、慶應義塾で資金を提供し、手術の第一例目は無事成功、患者は現在元気に過ごしている。因みにこの年は現在勤める国際医療福祉大学が創立された年でもあり感慨深い。肝臓移植手術はその後1995年~2016年迄既に200~300件に達している他、脳死移植も11例、小腸移植も5例程ある。移植はチーム医療が必要であり、手術の成功は外科、内科、リハビリステーション、家族など総合力の結果である。

さて、昔は患部を大きく開く手術が主流であったが、現在は内視鏡を使い小さな傷で済ませる方向に変化してきている。患者に優しい低侵襲・個別化の手術が求められている。王元監督の胃がんの手術も時間は掛かったが全て内視鏡で行い、手術の翌日には歩く事が出来た。低侵襲のデータ蓄積の成果は、政府の21世紀COEプログラムにより評価され、慶應義塾は多額の研究費支援を得る事ができ、大学院での研究にも役立てられた。以降この仕組みを活用し、東京大学や国立がんセンターを含む国内外の施設との連携によるデータ蓄積、研究成果を挙げ、次なる研究開発に役立てる事に努めてきた。

内視鏡手術に関しては、今から137年も前の1881年に福沢先生が腹腔鏡手術を予見する論説を出されていた。その中では“小さな鏡を使って恰も口の中を見るが如く”と書かれていた。同時に医学は外科より進歩するとも記されていた。しかし留意すべきは、その進歩には医学・工学・産業との連携(融合)が不可欠である。

内視鏡手術は画像を見ながら行う手術であるので、立体感を持たせる為の3D技術が開発された。またがんは必ずしも直ぐ近くのリンパ節に転移しない場合もあり、低侵襲・個別化手術を可能とする為には、がんが最初に転移するリンパ節(センチネルリンパ節)を探す必要があった。そこで、転移先を発見する為に、①患部周辺を色素で染め、②リンパ節に集まる放射性物質を音で検知する技術、また③明るい処でも見える蛍光色素など様々な開発がなされた。更には④手術中患部を映すカラーモードを変換し術者を支援する機械も出来ている。特に食道・胃接合部の胃癌では、腹腔鏡で周りのリンパ節を検査し、転移がなければ口から内視鏡を入れて最小限の範囲で粘膜切除を行う。最近では放射線を使い、センチネルリンパ節の画像をはっきり映し出す機械(スペクトCT)もある。こうした医療機械の進歩、医師の技術進歩が相俟って低侵襲・個別化手術を可能ならしめている。

私が1975年から米国ボストンで学んでいた頃、留学先(MGH)でハーバード大、バーク教授に師事していた。近くにマサチュセッツ工科大学(MIT)があり、先生は常にここと連携していた。先生は、医・工・産・学の連携が必要であり、これがないと外科は進歩しないといつも言っておられた。“知識を持つ事のみに留まらず、科学の裏付けのあるアカデミィック・サージャンになりなさい”と教えて頂いた。

慶應義塾大学病院は2000年3月にアジアで初めてダヴィンチを導入したが、ダヴィンチの欠点は、①大型、②体内でのアーム衝突の危険性、③視野制限、④高コスト、⑤無触覚である。そこで慶應の理工学部と連携し、リニアモーターとコンピューターを使い触覚を持つロボットを開発し特許も得た。これにより、日本から1万キロ離れたスロベニア、また慶應理工学部のある矢上台と医学部のある信濃町間で触覚を伝える事に成功し、外科手術を進化させた。今後医療機械で世界の市場を狙って行く事も出来るだろう。

未来医療について、①ダヴィンチを進化させた軟性内視鏡手術ロボット(慶應義塾)、②脳梗塞等麻痺のある人に対するニューロリハビリ(慶應義塾、札幌医大)、また③女子医大ではMRIを手術室に置き、手術中患者の組織を調べる事の出来るスマート手術が行なわれており、一昨年広島大学、今年3月から信州大学がこれに続いている。今後自動車にも代わり得る医療技術・機械の輸出産業に繋げていけるかも知れない。現在わが国では未来医療(がん、ロボット、再生医療)に40数億円の予算がついている。私がスーパーバイザーとなっており、今後活用して行きたい。

2009年に日本医工ものづくりコモンズを創った。米国ボストンに白人、黒人、リス、サルなど誰でも入れる公園があり、これがヒントとなった。これまでわが国では医療と物つくりの現場が一緒になる事がなかったが、垣根を越えて、誰でも対等な立場で参加できるプラットホームの実現を図ったものである。これがわが国で医・工連携を成功させるポイントと考えている。現在16の学会が連携し、これからの医療機械を開発している。加えて日本内視鏡外科学会で学会中に機械展示の場に若手医師のツアーも含めた育成事業も推進している。

起業家スティーブ・ジョブズ氏は組織にはトップリーダーがビジョンを持ってイノベーションを行なわなければならないと言っている。イノベーションには2つあり、1つはわが国得意の継続性のある(ハイレベルな)イノベーション(Sustaining Innovation)があるが、これは中々成果が一般に届きにくい。少しレベルを下げて多くの人達に届き易くする事が肝要であり、これがディスラプティブ・イノベーション(Disruptive Innovation)である。この考え方を文科省に提言していた処、テルモの元会長中尾氏(塾員)も同じ考えを持っていた事が分かり、現在同氏と共にものづくりコモンズプロジェクトを進めている。

医学・工学の連携に加え、今後は(ブラックジャックではなく)チーム医療、チームケアーが大切であると考えている。患者が①発病、②診断、③治療、④回復等夫々のステージで適正なチームが必要である。

最後に、医学はサイエンスを背景としたアート・技術であり、その基礎は温かい心(ヒューマニティ)である。これが本当の医学であると考えている。

胃がんの手術を行った王元監督と対談したが、王さんは“昨日は顧みず、明日は考えず、今日1日1日をきちんと生きる”と言っておられ、この生き方に感銘した次第である。

【質疑応答】

  1. 質問1:再生医療について 京都大学の山中教授によるiPS細胞や、大阪大学における免疫細胞など、再生医療について先生のお考えを教えて下さい。
    回答1神戸でiPS細胞を使った網膜の治療がなされたが、未だ継続的に実施されていない。患者の幹細胞を培養しての再生医療もサルまでは成功しているが、未だ確立されていない。近々大阪大学においてiPS細胞を使っての心臓外科治療も予定されており期待している処である。
  2. 質問2:日本の手術レベル 日本の手術レベルは世界の中でどのような位置にあるのか。また手術後、 抗がん剤の副作用が苦しいと聞くが、将来はどうなるのでしょうか。
    回答2日本の手術レベルは、症例も多くまた研究も進んでいる事から世界最高位にあると思う。一例だが、私が慶應にいる頃ソウル大学から来られていた若い医師が現在ソウルナショナル大学外科の主任教授として活躍している。 抗がん剤については、①患者の組織を用いて抗がん剤の感受性テストや、②ゲノム解析により最適な抗がん剤の使用が可能となり、抗がん剤の副作用を抑える効果も出てきている。また漢方を使った東洋と西洋医学の融合も行なわれてきている。抗がん剤でがんが退治されても再発の可能性があるが、これは癌幹細胞が抗がん剤に強く、これからも癌幹細胞を叩く薬の開発が必要とされている。
  3. 質問3:最先端医療 自分の夫が現在がんの治療中であり、今からでも最先端の治療を受けたいと考えているが、可能であればどこか紹介頂けないでしょうか。
    回答3出来ると思う。(⇒講演会後、個別対話で紹介された)
  4. 質問4:抗がん剤 自分は前立腺がん、骨のがん、肺がん、他に近眼、老眼でもある。(笑) 使用中の抗がん剤が効かなくなってきているようなのでアドバイスが欲しい。また、がんの原因を無くす薬は将来できないのでしょうか。
    回答4現在の薬で副作用が出ていないのであれば、続けたら良いと思う。全てのがんに有効な薬はない。がんの種類により異なる抗がん剤が使われる。がんの再発は癌幹細胞ががん化する事によるものであり、癌幹細胞にダメージを与える薬の研究開発が進められている。
  5. 質問5:がんの予防 現在2人に1人が何らかのがんになると聞いているが、本当でしょうか。 またどのような事に気をつければ良いでしょうか。
    回答5厚生省から出ているデータを見ても2人に1人ががんになる事は事実だと思う。がんも早期に見つかれば良いが発見が遅れると薬を選ぶのも難しくなる。出来れば年に1回は健診を受けて頂きたい。オバマ大統領はプレシジョン・メディソン、すなわち健康な時にゲノム(染色体)解析をすべきだと言ったが、日本でも既に11のゲノム中核病院が選ばれ、その下にゲノム病院も指定されている。中核病院ではゲノム診断をしてくれる。
  6. 質問6:がんの予防 どうしたらがんに罹らずに済むか。またがんに罹っても酵素や気功等を信じて手術も受けない人がいるが、知識の啓蒙活動についてどのように考えておられるか。
    回答6:この件については国が如何に指導するかと言うよりもセルフケアー、本人の自覚が大切である。自分から進んで健診を受けるなど自己管理が大切である。私の持論は下記の通りである。
    1無:①タバコは控えるべし(禁煙)
    2少:①食事、②アルコールは8分目に抑えるべし。(医食同源)
    3多:①多くの運動(2足は二人の医師:歩くことは循環器内科医・脳外 科医を)、②多くの睡眠、③多くの人に会う(多接)

<北島政樹先生プロフィール>

1966年  3月 慶應義塾大学医学部卒業

1975年  3月 慶應義塾大学にて医学博士の学位を受ける。
4月 Harvard Medical School&Massachusetts General Hospital 外科フェローとして2年間留学

1989年  4月 杏林大学第一外科教授

1999年 10月 慶應義塾大学病院病院長

2001年  7月 慶應義塾大学医学部長

2007年  4月 慶應義塾大学医学部名誉教授 国際医療福祉大学副学長・三田病院 病院長

2009年  6月 国際医療福祉大学三田病院がん治療研究センター長 7月 国際医療福祉大学学長

2016年  4月 国際医療福祉大学副理事長 名誉学長

IMG_6945

 

 

【講】国分寺三田会創立15周年記念講演会を6月11日に開催しました

2017年6月11日、国分寺駅ビルLホールにおいて、藤崎一郎氏(前米国特命全権大使、現日米協会会長、特選塾員)をお迎えし、渡邉国分寺三田会会長挨拶の後、「トランプ時代の日米中関係」をテーマに、約1時間半の講演会を開催しました。昨年に引き続き立川・国立両三田会の協力、また国分寺市及び国分寺市教育委員会の後援の下、当三田会会員の他、近隣三田会・稲門会や多数の一般市民の皆様を含め189名が出席し、質疑応答も活発で大変盛況な講演会となりました。
2017年1月に米国第45代大統領に就任したトランプ大統領は、現在、日本をはじめ世界各国に非常に大きな影響を与えていますが、今回藤崎氏の時宜を得たお話は、参加者の皆様に大変有意義のものとなりました。講演の骨子は下記の通りです。

(1) 米国を含め現在、世界中が内向きに向かっているという議論があるが、そう決めつけるのは疑問である。トランプ氏は自国第一主義を掲げて大統領に当選したが、クリントン氏との有権者得票数差は僅差であり、米国全体が内向きになっているとは考えにくい。またヨーロッパ諸国の場合、人道的な見地から、数多くの難民を受け入れる等、グローバルな視点での勇気ある決断が行なわれた影響が大きく米国と一緒くたに議論できない。

(2)トランプ氏が選挙期間中に発言した内容はオバマ前大統領に大同小異の政策に転換されている。誰が大統領になっても同盟国との協力関係は国益に欠かせない以上、今後共日本に対する安全保障政策に大きな変化はないだろう。

(3)米国は現在共和党が政府、議会(上・下院共)、司法(最高裁)を抑えている。この状況は過去60年間を振り返っても珍しいケースであり、この機会を捉えて共和党は念願の政策実現を目指すだろう。それ故新事実が出てくれば別だが党内からトランプ大統領に反対する勢力や対抗する議論は生まれ難い。

(4) 米国歴代大統領の政策は夫々異なりニクソンショック、対北朝鮮政策、イラク戦争など日本を含む各国は多くのアメリカの変化を経験してきた。米国はいろいろ試行錯誤しつつ自らの発意で矯正してきた事を歴史が示している。幸い安倍政権はトランプ氏といい関係をきづいており、我々は今後未経験の大変な時代に突入するのかという不安を騒ぎたてるより、中長期的に米国との良好関係維持に努めるべきである。

尚、引き続いて行なわれた懇親会には、藤崎氏をはじめとして97名が出席され、塩井副会長の開会の辞・乾杯の後、会食・懇談に移りました。美味しい食事とお酒で創立15周年に相応しい盛大な懇親会となりました。またこの講演会を契機に数名の方が当三田会に入会されました。

IMG_2644

【講】国分寺三田会第9回定期講演会を開催しました

第9回国分寺三田会定期講演会
主催:国分寺三田会、 協力:立川三田会、国立三田会
後援:国分寺市、国分寺市教育委員会、国分寺市社会福祉協議会

2016年7月2日(土)に国分寺駅ビルLホールにおいて本年度主要行事であります「第9回国分寺三田会定期講演会」を開催いたしました。講師に医療法人社団慶成会会長の大塚宣夫先生(医学博士、青梅慶友病院・よみうりランド慶友病院創設者)をお迎えし、小笠原国分寺三田会会長の挨拶の後、「豊かな老後は自分でつくる(終活)」という演題で、約1時間半(質疑応答含む)の講演をしていただきました。会員以外の参加者は立川三田会、国立三田会、その他近隣三田会、KP会、国分寺稲門会、欅友会の皆様を始め、今回は特に国分寺・小金井・小平の一般市民の方々も多数参加され、出席者総数は約200名の会場が満席となり、たいへん盛況な講演会となりました。
引き続いて行われた懇親会には大塚先生を始めとして約90名の方が出席され、渡邉国分寺三田会副会長の挨拶、大石立川三田会会長の乾杯のご発声の後、会食・懇談に移りました。

講演概要
大塚先生は、1974年に訪問された姥捨て山のような老人病院の状況に衝撃を受けられたことがきっかけとなり、自分の親を安心して預けられる究極の終の棲家をめざして1980年に青梅慶友病院を、2005年にはよみうりランド慶友病院を設立され、これまでに患者数は10,000人を超え、8,000人以上の方の人生の最後に立ち会われました。今回はそのご経験を踏まえて、豊かな老後をつくるための貴重な知識、ヒントについてご講演をいただきました。

日本は65歳以上の人口が26.7%、75歳以上の人口が12.9%になり、超高齢社会を迎えている。核家族化に加えて家族も高齢化しており家族による介護力が低下していること、高度経済成長と次世代人口の維持を前提として作られている社会保障制度も脆弱化していることから、超高齢社会の重圧は極めて深刻である。
このような超高齢社会において老後を豊かに過ごすためには、①配偶者や子供の世話になることは難しく(親の面倒をみる動物はいない)、自分で老後を考え準備する、②老け込まず(年齢の0.8掛けが真の年齢と意識する)、依存心を捨て、身体の衰えに負けない精神力で自分を元気に保つ、③75歳を超えると臓器が耐用年数を迎え、自己修復力が低下し、認知症への不安が生じてくる等、心身ともに変わることを認識する必要がある。残念ながら認知症は現在の医学では治療ができない。認知症になってしまったらできないことを今やるべきである。
また、お金では幸せを買うことができないが、お金である程度老後の不便さ、不具合を回避することはできる。自分のお金を老後のために上手に使い、確保しておくことが必要である。
老後を迎えるにあたって三つのステージに分けて考え、対応することが重要である。前期(65歳~75歳)では、自分のことは自分で対処し、仕事を続ける等自立を心掛け、健康管理に留意する。一人暮らしのできる人は長生きができる。中期(75歳~85歳)ではあらゆる面での衰えが自他ともに感じられるようになり、認知症や介護の問題が身近になってくる。先行きが不透明だが、今やりたいことはすぐやるように心がける。後期(85歳~)は人生の最終楽章であり、医療の限界を知りジタバタしないことである。
それでも介護、医療が必要になる時が来る。まず、家族介護の難しさを認識すべきである。介護は優しい気持ちだけではうまくいかない。介護は技術・知識・コツ・仕組み・道具立てを必要とするプロの仕事なのである。また、このままだと崩壊が懸念される公的サービスの実態、ピンからキリまである高齢者施設の実態、そして受ける側にとっては苦痛や不安が伴う医療措置や延命を第一優先にせざるを得ない医療現場の実態等について知っておくことも重要である。
介護はプロに任せ、苦痛なく枯れるように穏やかに人生の幕を閉じる。これが家族への最良のプレゼントである。“終わり良ければすべて良し”である。

最後に、大塚先生から超高齢化社会への二つの提言をいただいた。

1. 高齢者の定義の見直し
高齢者の定義を65歳から75歳とし、それぞれが自分の力で生きる努力をする。そうすることで社会は活性化し、わが国の抱える難問の解決法も見えてくる。
2. ヨーロッパ式人生の終わり方
ヨーロッパの老人病院では寝たきりの患者が極めて少ない。動物の世界がそうであるように、自分の力で食べ物が飲みこめなくなったらそれ以上の手段はとらない。我が国もヨーロッパ式の人生の終え方を見習うべき時期に来ている。

老後は誰にも訪れますが、多くの方が十分に準備をせず、ついつい先延ばしにしてしまいます。今回の大塚先生のお話はまさに目からうろこで、「終活」を考える上で重要なヒントをたくさんいただきました。人生を楽しみながら、老け込むことなく、自分で老後を考え準備しておくことの必要性を改めて感じました。

〈大塚宣夫先生プロフィール〉
1942年 岐阜県生まれ
1966年 慶應義塾大学医学部卒業
1968年~1979年まで (財)井の頭病院で精神科医として勤務
1980年 青梅慶友病院を開設し、院長に就任
1988年 同病院を医療法人社団慶成会に変更し、理事長に就任
2005年 よみうりランド慶友病院を開設
2010年 医療法人社団慶成会会長に就任
著書:「人生の最後は自分で決める」(ダイヤモンド社) 他
(文責 髙橋伸一)

講演会事務局 前原憲一(S45工)、藤枝とし子(S43文)、髙橋伸一(S45法)、
岩田友一(S45工)、古賀良三(S46経)、久保田宏(S46工)、
池田敏夫(S47商)、沼野義樹(S48経)

大塚先生1

講演すがた1

会場風景1

【講】国分寺三田会特別講演会を開催しました。

1.日時  2016年年 3月26日(土)14:15~16;30
2.会場  国分寺労政会館
3.演題  -戦後70年、封印されてきた真実を語るー “日本にもあった戦争神経症”
4.講師  目黒 克己氏(昭和34年慶應義塾大学医学部卒・医学博士、元国分寺三田会会長)
5.出席者 102名
・     (会員59名、近隣三田会8名、医学部塾員1名、近隣稲門会7名、欅友会23名、その他4名)

・目黒先生と戦争神経症の出会いは、1962年、国立国府台(コウノダイ)病院神経科に勤務していた時に一人の戦争神経症患者を受け持ったことから始まったそうです。戦争神経症とは、通常は軍隊内で発生した神経症のことです。前線で発生したものと内地あるいは後方の兵站基地で発生したものを合わせて戦争神経症としています。今回は①日本軍の戦争神経症の実態、②日本の戦争神経症の研究に関わった人々、国府台陸軍病院とその業績、③終戦と戦争神経症、 ④封印された戦争神経症の20年後の予後調査、⑤諸外国の戦争神経症、⓺第二次大戦における米軍に発生した戦争神経症の予後調査について語っていただきました。
・欧米では戦争医学として戦争神経症の研究が進んでいますが、日本人の精神力を強調する軍は戦争神経症については、一般に知らせていませんでした。しかし、現実には第一次大戦の欧米の経験から「戦争神経症」の対応を重要視して国府台陸軍病院を拠点としていました。終戦時、軍は資料の焼却を命じましたが、病院長の故諏訪敬三郎氏はひそかに8千冊の病床日誌を倉庫に残しました。目黒先生はこれを見つけ、戦後20年の時点で104例を対象に郵送と面接で予後の実態調査を行いました。104例のうち25%が治っていないと答え、治ったという人も神経症的傾向が続いていました。面接した主な4症例は次の通りです。「(症例1)軍隊生活への不適応(古参兵による私的制裁を受けた)」、「(症例2)戦闘行動の非人間性に対する不安(何度も討伐に参加。燃えている家に、消せるはずもないのに手桶で水をかける老婆が母親に似ていた)」、「(症例3)「戦闘による消耗(連日強行軍。作戦中に卒倒)」、「(症例4)心因あり、うつ状態(討伐に参加、古参兵の私的制裁、激しい空襲と食料不足、武器を失い、ひどく叱責される。不眠、うつ状態)」。
・目黒先生は故諏訪敬三郎氏から「今後50年間、論文に記した以外は口にするな」とくぎを刺され、封印してきました。調査当時は研究内容に対する世の中の評価は冷たかったそうです。そして調査後50年経った2015年に朝日新聞の取材に応じました(2015年8月18日付け朝刊:封印された「戦争神経症」)。目黒先生は「①真実は一つ。ただ、時代により評価が変わる。いまでは戦争神経症が新聞に取り上げられるようになった。②戦争は勝った側、負けた側どちらにも心の傷が残る。戦争は悲惨。」と言う言葉で講演を締めくくりました。
・小笠原会長の開会挨拶、天野先輩の閉会挨拶にもありましたが、安保法制、憲法改正等国のかたちが議論される中で今回の講演は戦争の悲惨さについて考える絶好の機会になったと思います。特に天野先輩の戦中、戦後を通じての体験から戦争はこりごりだと言う話は説得力がありました。また目黒先生という戦争神経症の研究者が国分寺三田会の先輩にいらっしゃるということは我々の誇りです。目黒先生、貴重なお話をありがとうございました。
講演記録は追ってHP(会員専用頁)に掲載します。ご期待下さい。
・講演会事務局 前原憲一(S45工)、藤枝とし子(S43文)、高橋伸一(S45法)、岩田友一(S45工)
・       古賀良三(S46経)、久保田宏 (S46工)、池田敏夫(S47商)、沼野義樹(S48経)

・   目黒 克己氏プロフィール
1960年       慶應義塾大学医学部精神神経科教室入局
1960年〜1968年 国立国府台病院神経科・国立精神衛生研究所
1966年       『20年後予後調査から見た戦争神経症』の研究で医学博士
1967年〜1968年 米国ハーバード大学医学部精神科研究員
1970年〜1991年 厚生省勤務。生活衛生局長で退官。
1994年から恩賜財団済生会本部理事、  現在、医療法人高仁会顧問

 

講演風景IMG_9289

会場風景IMG_9271変更   OLYMPUS DIGITAL CAMERA

 

【講】第8 回国分寺三田会特別講演会

(主催:国分寺三田会、協力:立川三田会・国立三田会、後援:国分寺市教育委員会)

2015年6月27日(土)に本年度の主要行事の一つであります「第8回国分寺三田会特別講演会」を国分寺駅ビルのLホールにて開催しました。講師に慶應連合三田会会長(北里大学名誉教授)の比企能樹先生をお迎えし、「端艇部と医学部の狭間から」という演題で講演をして頂きました。今回も立川三田会、国立三田会に加えて、その他近隣三田会、三四会、稲門会、国分寺稲門会の皆様を始め、国分寺・小金井・小平等の一般市民の方々も、多数出席されました。出席者総数は会場の収容人員にほぼ近い180名余でした。

尚、引き続いて行われました懇親会には比企会長以下、講演会出席者約100名が出席されました。渡邉副会長の挨拶に続き、比企会長から改めて「慶応義塾教育研究医療環境整備事業」についてのお話があり、目黒克己元会長のご発声で乾杯のあと、会食・懇談に移りました。

折角の機会ですので、懇談会上で募金箱を廻したところ、皆さんのご厚意で総額15万円の寄付が集まりました。全額を整備事業の一つであります「慶應義塾大学病院新病院棟建設事業募金」に寄付いたしました。皆さんのご協力に感謝致します。

【講演】
「端艇部と医学部の狭間から 恕して行う —未だロウアウトならず—」

慶応連合三田会会長 比企 能樹

<講演概要>
連合三田会会長の比企能樹さんの講演は、ロウアウトの説明から始まった。この意味は、ボートを漕ぐ(row)ときの精神を表わす言葉で、全力を尽くすことである。レースの最後の瞬間、フィニッシュまで漕ぎ尽くして果てようとするのがロウアウト精神とのこと。
比企さんとボートの関わりは体育会端艇部に選抜された時から始まる。厳しい練習に耐え、慶應のエイトは1956年8月のメルボルンオリンピック代表決定リーグに進む。各新聞は「慶大はだいぶ見劣りする」と評価していたが、決勝まで進出。京大とのレースでは僅か3/100秒差(その差30cm)で1位に。慶大クルーは日本代表としてオリンピック出場を果たす。オリンピックでは日本史上初の準決勝進出。しかし不運にも慶大チームが出場した日は、低気圧の影響でウェンドリー湖は波が高く軽量艇の慶大エイトは敗退。決勝進出ならず。翌日は晴れ上がり、水面は静かであった。もし天候が一日違っていたら・・・
その後、医師になった比企さんは内視鏡の分野に進む。
1958年米国でファイバースコープが開発され、負担の少ない内視鏡の道が開けた。1967年から内視鏡を使った治療が始まり今では胃癌が見つかっても、これまでの様に大きく切除しなくても良い場合も出てきた。病院によっては腹腔鏡を使った手術件数が開腹手術件数を上回っている程である。
最後に比企先生の医療教育のバックボーン・信条を話された。
それは「恕して「医」を行い、恕して生きる」。
(“恕する”とは「おのれの心の如くに人の心を思いやり」という福沢諭吉も重んじた言葉)


{尚、本講演会の講演録は次回会報(10月発行)に添付される予定です。}