【歴】第86回 歴史をひもとく会 講演会報告

2回 会員による歴史談義

人に歴史ありとか・・・。悠久の時の中で、人は自らの歴史の糸を紡ぎ、織りなした物語を心の玉手箱の中にそっと仕舞い込んでいます。それを引き出して、味な話を聞かせてほしいというのが、この企画のコンセプト。

第86回の講演会は10月6日(土)、本多公民館にて、歴史をひもとく会会員のお二方を講師に迎え、47名の参加者の下で行われました。まず、最初にご登壇されたのは第1回でも講演して頂いた斎藤信雄氏で、昨年に引き続き「古事記」に纏わるお話です。

講演1「現代の身近にある古事記」

斎藤 信雄 氏 (昭38・政治)

 

ご現代の身近にある古事記20180922冒頭に講師は、古事記とは何ぞや、即ち上・中・下の3巻に分かれる古事記では、上巻で天地の始まりから神武天皇誕生までが書かれている事を紹介。そして、主な神々及びその神々に纏わる神話が物語調に興味深く語られ、聞く者を古代ロマンの世界に引きずり込んでいく講師のゆったりとした口調と話の巧みさに、全員がうっとりと聞き惚れました。一神教の厳格さとは異なり、万物に神宿るという多神教のおおらかさ、八百万の神々に囲まれて暮らす日常のありがたさなど、古事記が現代にも根付いていることが語られました。更にお話は、我々の日常生活の身近にある、国分寺市・小金井市・小平市内の神社に進んでいきます。この地に神社を立てる上で、3つのポイント即ち、①武蔵野台地にあること②国分寺崖線にあること③玉川上水が流れていることを重要な要素として挙げています。具体的な神社名とその由来など古事記にまつわる興味深い縁起が紹介されて、まだ聞き足りないという雰囲気の内に講演時間満了となり、聴衆も古代ロマンと古事記の世界に大いに魅了されました。 

 

次に登壇されたのは同期生の武田寿和氏で、京都の銘菓「八つ橋」に纏わるお話です・

 講演2「聖護院八つ橋の秘密」

武田 寿和 氏 (昭38・政治)

京銘菓「聖護院八ッ橋総本店改講師は、この表題を選んだ理由からお話を起こします。小学生の頃から、知っているし、味も分かっている。でもその由来など誰も気に留める者はいない…、そこに気づいた講師の着想のユニークさが興味深いものに感じられます。京都聖護院の森で八橋検校の墓参に訪れる人々に、琴型の煎餅を売り出した「八つ橋総本店」の330年にわたる歩み、「八橋検校」の生い立ち、「修験宗総本山聖護院門跡」、八つ橋の名を巡っての「伊勢物語」等々凡そ八つ橋に関係する事象を網羅的に調べ上げて解説。更に京都の聖護院八つ橋総本店及び愛知県の三河にある八橋という地名の残る場所(知立市八橋町)への現地調査によって詳細な把握を行っていること等、内容は、思わず、うーんと唸ってしまいそうな秀逸な構成である。そこはかとなく優雅でニッキの香りも高く甘くおいしい八つ橋に相応しい味のある話でしたが最後に、八つ橋業界の現状と問題点について述べた時、今年の6月に起こった「八つ橋創業に関する衝撃的な事件」が如何にも残念という講師の気持ちが伝わってきました。

両講師共に、歴史をひもとく会の会員であり、聞く側との距離も近く講演会とはかくあるべきとのムードに包まれてとても素晴らしいひと時でありました。

以 上

 

【歴】第85回 歴史をひもとく会 講演会報告

京都1200年、人物に見る天皇家と仏教の歴史

 平安の都の名にそぐわぬ治乱興亡の歴史を秘めた京都は、いつも四季の華やぎを添えてわたくしたちを迎え入れてくれます。

そんな京都に惹かれ、王朝の歴史に興味を持った伊東克氏が、京都ステイを重ねつつ京都研修に没頭するようになったきっかけは、海外での貴重な経験すなわち、定年退職後、スペインに語学留学した折、クラスメイトから「日本の皇室は本当に万世一系なのか」と聞かれ、満足な返答ができなかったことにあるとのこと。

 85回の講演会は7月7日()、本多公民館にて、国分寺三田会の会員(S39経)で京都通の伊東克氏を講師に迎え、44名の参加者の下で行われました。

講演の冒頭に講師は、京都の印象として次の4点、①伝統と常なる挑戦、②寺社と連綿たる伝統行事、③世界に通じる革新的企業群の隆盛、④温故知新を挙げています。明治維新による東京遷都後の衰退を乗り越えて、今日も繁栄を続ける京都の核心を捉えた見事な視点といえましょう。

 さて、講演は2部編成で、第1部は天皇家の歴史、休憩をはさんで第2部は平安期における仏教の歴史について行われました。講演内容は、歴代の天皇や仏教の高僧の人物像を語ることを通して、歴史物語に迫るという特徴的な試みであり、その手法は、あたかも塩野七生著の「ローマ人の物語」に通じる様に感じます。

 1部では、桓武天皇から始まり、嵯峨、清和、醍醐、後三条・白河、崇徳・後白河、後鳥羽、後醍醐、後水尾と続き、最後の光格天皇まで10人の天皇の物語が語られ、特に平安時代の歴代の天皇を、親政の時代、摂関時代、院政時代と3つに切り分けて説明。その内容はとても興味深く、普段は耳にできない事柄や、今まで知らなかったお話ばかり。真剣に、じっと聞き入る会員の表情からも会場全体が講演に魅了されている様子が窺われました。

 1部終了後の休憩の合間に、「京都検定試験問題」が会場内に配布され、10問のうち5問以上正解ならば、3級の資格レベルということで、参加者が懸命に回答に取り組む姿が興味深い光景でした。こういったところに講師のサービス精神が伝わってきます。

 2部は、平安期から鎌倉期までの日本の仏教を切り開いた高僧の物語。最澄に始まり空海、円仁、法然と続き最後は親鸞まで5人を選び、奈良時代に国教となった仏教が、その後どの様に隆興していったか。官によって取り入れられた仏教は、遣唐使を通じてその奥義が伝授され、最澄の死後には比叡山延暦寺に大乗戒壇の設置も認められ、やがて鎌倉期に入り、比叡山で学んだ法然・親鸞等により民衆仏教へと変化していく様子が熱く語られました。

 今回の公演を通じて、講師が伝えたかったものは、海外生活を通して知り得た日本のすばらしさ、世界が羨む皇紀2670年余りに及ぶ天皇制の伝統の凄み、京都1200年に及ぶ歴史の重み等々ではないかと推量します。京都学の片鱗に触れ、興味深い話に感じ入った一日でした。

以上

 

【歴】第84回 歴史をひもとく会 バスハイク 報告

 ~常陸国分寺へのバスハイク~

斜め前方に筑波山、左後方遥かに霞ヶ浦、雄大な眺望の中、舟塚山古墳の頂上に佇むと、爽やかな緑の風が吹き抜けていきます。会員一行30名は、6月3日朝8時30分に国分寺駅前を出発し、常磐道を経て、古代ロマンの息づく常陸の国へバスハイクにやってきました。その昔、この地は豊かな産物に恵まれ、人口も多く、付近には大豪族の墳墓が点在しています。この古墳は、全長186m、幅100m、高さ11mの規模を誇る東国第2位の前方後円墳で、5世紀後半の築造、大阪の仁徳天皇稜に共通する特徴を備えているとか。同行していただく地元石岡市観光ボランテイアの方々から詳しく説明を受けた後、次なる行先は本日のメインである常陸国分寺・常陸国分尼寺遺跡です。
東山道沿いの武蔵国分寺に対し、ここは、都から神奈川で海に出て、房総を経て常陸に至る東海道の終点に造られています。当時の常陸の国は大国で、北方民族の蝦夷地に対峙する東日本の軍事拠点、経済・宗教文化の中心地でした。そこに国府が置かれ、特設の国営工房も備え、都から多くの有能な人材が投入されていました。
天平13年に聖武天皇により鎮護国家を祈るため、建てられた常陸国分寺は、戴いた資料によると、壮大な七堂伽藍、七重の塔を備えその高さは65mもあったとか。寺領60町歩、常住僧20名を擁したという。その北方に位置する常陸国分尼寺は法華滅罪之寺と云われ、矢張り広大な寺領に常時10名の尼僧がいたと云われている。
昼食後は観光スポット「看板建築巡り」に石岡市のメインストリートを散策。過去の大火で大半の住居が焼失し、路面部を看板の様に奇抜でモダンな装飾を施して、コリント風・アールデコ調の街並に復興したとか。大正・昭和のレトロな雰囲気を存分に堪能しました。
最後に向かったのは「常陸風土記の丘」。近隣遺跡からの出土品展示館や古代の住居を復元したテーマパークです。近隣で取れる砂鉄を利用した鉄製武具の一大産地であったことが判り興味深い。
雲一つない蒼穹の下、雄大な自然の中で歴史スポットを巡り、悠久の時間に思いを馳せて古代のロマンを大いに満喫したバスハイクでした。
テーマパークの出口で手を振って見送ってくれるボランテイアの方々に別れを告げて帰路に着きました。

以上

 

【歴】第83回「歴史をひもとく会」講演会報告

第83回歴史をひもとく会の講演会は、平成30年3月31日(土)、国分寺駅南口の国分寺労政会館3階において、49名が参加の下、当歴史をひもとく会の代表世話人である星野信夫氏に「武蔵国分寺歴史ドラマ第3弾~再現ドラマから明治維新へ」というテーマでお話しいただきました。 

冒頭に、第Ⅰ部として、過去2回の講演内容の振り返りという意味も含めて、「武蔵国分寺の建立から江戸の新田開発までを中心に」と題して、武蔵国分寺前史や武蔵国分寺の創建~隆盛~衰退の歴史が語られました。仏教の伝来があり、鎮護国家に向けた聖武天皇による国造りの壮大な思想や国分寺創建の目的、その後の戦乱期における国分寺焼失によって衰退期に向かう背景が解説されました。やがて、江戸期に至ると、当地は府中領に属する幕府直轄地に組み込まれ、不毛の武蔵野に恵みをもたらす玉川上水が開鑿されて、幕府の施政による国分寺地域の新田開発が進み、発展していきます。第Ⅱ部は、「明治維新以降の国分寺」と題して、維新前後の混乱期の様々な逸話、官軍の東征と甲武鎮撫隊との攻防や、恋ヶ窪にちなむ歌碑・句碑の話、新政府に対する多摩の農民運動による御門訴事件などが語られました。地方制度の確立と新郡区町村編成により、国分寺地域が三多摩郡の北多摩に属すこととなった下りで、残念ながら、講演時間切れとなりました。事前に配布されたレジメには、昭和期の市制施行までの項目が・・・・・引き続き第4弾が期待されます。 

参加者からは、「とても面白かった」「時間が足りない」「あっという間の2時間だった」などの声がしきり。思えば、確かに一度聞いたことのある内容なのに、殆ど新鮮な感覚で話が迫ってくるのはどうしてなのだろうか。講演内容に関する圧倒的な知識量と人を逸らさない語り口、時々交える人間味のあるユーモアや年号の語呂合わせ等々、講演者の持つ力量の為せる業であろう。星野マジックによる歴史ドラマに酔いしれたひとときでありました。

【歴】第82回「歴史をひもとく会」講演会報告

第82回講演会は平成30年1月20日(土)本多公民館ホールにおいて72名の出席の下、パリ在住の国際ジャーナリスト山口昌子氏を講師にお招きし、「パリの福沢諭吉を訪ねて」をテーマにお話しいただきました。

【講師のプロフィール】
山口昌子氏は、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、産経新聞に入社し、1990年より21年間パリ支局長を務め、1994年にボーン・上田記念国際記者賞、2013年にレジオン・ドヌール勲章シュバリエを受賞され、フランスに関する著書も多数出されている。

【講演の内容】
今回は、遣欧使節団の一員として渡欧した福沢諭吉の足跡を、10年間に亙って追跡し、2016年11月に出版した著作、「パリの福沢諭吉~謎の肖像写真を訪ねて」(中央公論新社)をベースにご講演いただきました。

講演の内容は大別すると、①文久遣欧使節団と福沢諭吉の足跡について、②「西洋事情」の中身はパリ仕込みであったこと、③パリで撮影された諭吉の肖像写真の謎の解明の3点に集約されます。

福沢諭吉は、生涯に3回の海外渡航を行っており、最初の咸臨丸での渡米は余りにも有名ですが、1862年(文久2年)に派遣された「文久遣欧使節団」の軌跡や、ましてその中に翻訳係として諭吉が加わっていた事については殆ど知られておりません。
幕府が5か国と結んだ修好通商条約の一部改正のため、1年かけて各国を廻り、パリにはその年の春と秋の合計1か月余り滞在しました。初めて見る日本人を現地メディアが興味深く報道した記録が残っており、特に人類学者ドゥニケールがその著作本の中で、「日本の典型的なエリートの顔」として諭吉の顔写真を載せ、高く評価していることは興味深い。当時のヨーロッパ人は、日本人が東洋の野蛮人ではなく、高度の文明人であることを驚きをもって眺めたに相違ない。

次に、諭吉は帰国後20万部のベストセラーとなった「西洋事情」を通してまだ日本にその概念さえ存在しなかった「鉄道」「図書館」「博物館」「学校」「病院」「ガス灯」「軍隊」等々、近代日本に必要な制度や知識を紹介しましたが、それ等の殆どは、イギリスではなく、最初の訪問国であるフランスのパリでの見聞によるものであったのは驚きである。
ナポレオン3世による第二帝政時代のパリは、「パリ大改造」を終えて、豪華絢爛な都市であり、諭吉らの一行を大いに魅惑したに違いない。特にこの時期に出会ったレオニドロニに強く触発され、「新聞」及び「新聞記者」を発見して、ジャーナリストとしても目覚めた諭吉にとっては、その後、生涯の事業の一つとなった『時事新報』の創立に繋がって行くのである。

さて、講演者の山口昌子氏が、パリでの諭吉の足跡を10年間に亙って追跡し得られた数々の新発見は、真に興味深いものばかりである。その中でも特筆すべきは、使節団メンバーの肖像写真の撮影者の正体を解明したことである。当時、写真は発明されて間がなく、写真家のナダールが高名を博していたが、撮影には高額の費用が掛かる貴重なものであり、メンバーにとっては所詮高根の花であった。ナダールが遣欧使節団一行を撮った集合写真は残されているが、では、今に残る彼ら一人一人の肖像写真は一体誰が撮影したのか。
実は、その写真を撮影したのは、謎の写真家といわれる無名のポトーであった。彼は、パリの植物園の中にある自然史博物館の研究員で、人類学的興味から、東洋人の顔を写真に残そうと思ったのである。そのネガやオリジナル写真は今もパリに存在する。一行が秋にパリを再訪した折に、ポトーのもとを訪れて撮影が行われたものであった。各人の正面と横顔が写されているが、諭吉の写真だけは、更に斜めからのアングルでも撮られている。この3枚の福沢諭吉の若き日の肖像写真は、激しいオーラを放っており、何でも見てやろうという好奇心に満ち溢れた姿が、フランスの人類学者を強く惹きつけたに違いない。日本のボルテールと言われ、近代日本の構築に貢献した偉人・福沢諭吉が如何にパリで形成されたかを、鮮明に浮かび上がらせた山口昌子氏の業績は高い評価に値するものである。
会場に詰め掛けた多くの出席者に驚きと感動を与えたことは間違いない。終演時に送った拍手が鳴り止まなかったことが何よりの証である。

以上

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【歴】第81回歴史をひもとく会 スピーチ大会開催報告

IMG_1038tif講演会プログラム

第81回歴史をひもとく会は11月19日(日)本多公民館において、44名の出席のもと開催されました。今回は初めての試みとして、歴史をひもとく会会員による「私と歴史」をテーマとするスピーチ大会とし、会員4名がそれぞれ独自の題材で講演されました。時間の関係から残念ながら用意された内容をすべてお話しできなかった方もおられましたが、各自周到な準備の下に、素晴らしい内容の講演となりました。このスピーチ大会は来年度以降も適時実施していきたいと考えております。

 

一番手は、49年政治卒の井上徹氏による「別子銅山と新居浜太鼓祭り」

ご自身の故郷愛媛県新居浜市に1690年から1973年の閉山まで283年の歴史を有した日本三大銅山の一つ別子銅山の日本の近代化への貢献、その裏の苦難の歴史、その繁栄をもたらした別子三翁と言われる三人の経営者の生き方、そして歴史的意義を風化させないための観光開発、世界遺産登録を目指している現在の状況を情熱を込めて語られました。もう一つのテーマ、阿波踊り、よさこいとともに四国三大祭りの一つである「新居浜太鼓祭り」については残念ながら時間の関係から割愛されました。

次は、38年政治卒の斎藤信雄氏による「古事記を訪ねて」

日本に正統な天皇国家を確立したいとして、天武天皇が稗田阿礼と太安万侶に編纂を命じた神話集「古事記」に語られている数々の神話について熱く語られました。主な内容は、イザナギとイザナミによる日本列島の誕生(天地創造)、太陽神天照大御神が天岩屋に身を隠したために高天原が闇となり悪しき神が溢れて災いが起きた。そのため神々が知恵を出し合い天照大御神を岩屋から引き出したという天岩屋神話、須佐之男命の八岐大蛇退治神話、出雲大社と諏訪大社創建のいわれ(国譲り神話)、古事記には南方系神話の影響が強いことなど。

 

三番目は、30年経済卒の丸山茂氏による「歴史散策―歴史から学ぶ―」

IMG_1038tifIMG_1038jpgかつて奈良に住まわれていた講師、奈良の史跡巡りで出会った美しいもの、未知との出会いについて語られました。蘇我入鹿の首が切られて宙に浮かんでいる様子が描かれている談山神社の縁起絵巻、浄瑠璃寺の極楽浄土と九体の如来像、日本一の美女吉祥天女像、いくつかの寺にある慈愛に満ちた十一面観音、東大寺二月堂のお水取り、東大寺南大門の運慶の金剛力士像、薬師寺の三重の塔と薬師如来。また、歴史上の「・・・たら、・・・れば」を考える楽しみについても語られ、秦の始皇帝、項羽と劉邦、関ヶ原の天下分け目の戦い、将軍秀忠の歴史的浮気、などを題材に「れば、たら」を考えることの面白さを、最後に歴史から学ぶとしてご自身の考えられる理想のリーダー像についても述べられました。

 

最後は、39年政治卒の小林隆夫氏による「米百俵と慶應義塾」

小泉元首相により有名となった長岡藩の「米百俵」の逸話、戊辰戦争で敗れ悲惨な経済状況にあった長岡藩の再興に強い意志と行動力で多大な貢献をした小林虎三郎と一歳違いの幼友達で親戚でもあった戊辰戦争で会津とともに散った河合継之助、そして河合継之助の親友であった三島億二郎のそれぞれの生き方、考え方について非常にわかりやすく丁寧に語られました。継之助亡き後、長岡の再興には人材の育成が第一と強く主張して実行した小林虎三郎、虎三郎のその考えに共鳴し、維新後の長岡を指導した三島億二郎、三島は福澤諭吉の思想に共鳴しており、交流もあったことから、長岡から多くの人材が慶應義塾に送られ、その後長岡の指導者となったほか慶應義塾の塾長や要職を歴任した者も多く輩出されていること、三島が明治5年に作った長岡洋学校における授業方法が輪読形式で、生徒間で意見交換し最後に先生が意見を述べるという現在のゼミ形式であり福澤諭吉の「半学半教」の考え方に近かったことなど、これまで知ることのなかった長岡藩と慶應義塾の緊密な関係は新鮮で驚くような話でした。

【歴】第80回歴史をひもとく会講演会 報告

第80回講演会が9月2日(土)、本多公民館において44名の出席の下、開催されました。IMG_0553
講師は、塾法学部政治学科を昭和41年に卒業され、その後法政大学大学院で政治学博士号を取得、法政大学の教授を経て、現在同大学名誉教授である中江兆民研究の第一人者寺尾方孝氏。
土佐生まれのジャ-ナリスト、思想家、そしてジャン・ジャック・ルソーを日本に紹介し自由民権運動の理論的指導者となった中江兆民の人とその思想についてご講演頂いた。

<主な講演内容>

中江兆民(本名:篤助)は、1847年土佐国高知、山田町の貧しい足軽(その後下級警察吏)の家に生まれる。父の死により15才で家督を相続、同年吉田東洋が開いた藩校文武館に開校と同時に入学するも、直後に東洋は暗殺される。近思録、四書五経、十八史略、八家文などを素読、奥宮慥斉から陽明学を学び、細川潤次郎から蘭学を学ぶ。土佐でありながら尊皇攘夷思想とは無縁だった。

1865年土佐藩留学生として英学修行のため長崎派遣されるが実際には平井義十郎を師としてフランス学を学ぶ。長崎にて坂本竜馬と知り合い、その人柄に一目置く。

1867年後藤象二郎から25両の援助を得て(岩崎弥太郎には断られる)江戸遊学。村上英俊の門下生となったが、遊郭通いなどにより破門。フランス公使の通訳などをして生活。

1871年大久保利通に直談判して岩倉使節団に同行。サンフランシスコ到着後岩倉視察団とは別行動し、大陸横断の列車で1872年フランス到着、しばらくパリ、リオンに滞在。1873年パリに戻り、西園寺公望、光明寺三郎らと交わる。明治政府の留学生償還の方針に対し井上毅から留学延長の支援を受けるも1874年6月帰国。

1874年文部省勤務、翌年東京外国語学校長に就任するも漢文、漢詩の授業を軽視する当局の教育方針と対立、約1年で辞任。1875年5月元老院権少書記官、1877年1月元老院書記官辞任。

1874年10月東京麹町に仏学塾を開く。1878年頃、済美黌、二松学舎、紹成書院などで漢学の修練に励む。

1881年西園寺公望を社主として創刊された『東洋自由新聞』の主筆となり、ジャーナリストの道を歩み始めるも同紙はわずか34号で廃刊。1882年、末広徹腸、田口卯吉・馬場辰猪らとともに前年結成された自由党の機関紙『自由新聞』社説係に、しかし国会開設を目指して機運が盛り上がっていた時に党首板垣が洋行してしまうという板垣洋行問題に関連して馬場が解雇され、末広、田口も辞任、12月には兆民も辞任した。1888年大阪で東雲新聞を創刊し主筆として多くの論説を書いた。

ジャーナリストとして最も活躍した時期であった。

1887年三大事件建白運動(地租軽減・言論集会の自由・外交策の挽回)、大同団結運動を支援し、「後藤象二郎の意見封事」を代筆。12月26日保安条例公布により尾崎行雄、星亨、林有造、竹内綱(吉田茂実父)ら570名とともに皇居外三里退去処分となり大阪へ。1889年旧自由党再興に力を貸し、自由党再興派に与して1890年7月第1回衆議院議員選挙に大阪第4区から当選。1890年9月立憲自由党結成。しかし1891年2月政府予算案に反対し「査定案」でまとまっていた党の結束が、「土佐派」の裏切りにより崩れたのに腹を立て、「無血虫の陳列場」という論説を執筆し議員を辞職した。

著作としての最高傑作は、『三酔人経綸問答』(1887年)。「金斧と号する洋火酒(ヘネシーのコニャック)」を飲みながら三酔人が国家の経綸を談論する、理論派の洋学紳士・リアリストの豪傑の客・中庸の立場の南海先生3人の鼎談。また『一年有半・続一年有半』は食道癌の宣告を受けてから記した遺著(哲学書)で自身を哲学者と言っていた兆民唯一のベストセラーとなった。

IMG_0548 兆民は「東洋のルソー」「革命思想の鼓吹者」といわれているが、そのような理論を体系的に説いたことはない。彼は「自由」と「平等」を終始価値理念としていたが、積極的自由(自己実現の欲求)がなければ消極的自由(いわゆる制約のない自由)も意味がないという考え方をしており、何かを実現したいときに人間は自由を意識すると言っている。これはルソーの考え方である。また、ジョン・スチュアート・ミルの「自由論」を引用し、仲間同士で議論しながら互いに言論の自由を認め合うことが自由である。つまり寛容が大切であるとも言っている。
以 上

【歴】第79回歴史をひもとく会 金沢文庫・金沢八景 歴史散歩

2017年5月30日、前日までの雨も止み、曇り~晴れの天気となりました。今回のテーマは『金沢区称名寺・金沢文庫を中心とした歴史をひもとく』。
講師は前回の横浜散歩で大変お世話になりました市川隼氏(鎌倉三田会。昭42年政、44年経)に再度お願いし、32名の参加となりました。

JR根岸線・新杉田駅に集合し、金沢シーサイドラインにて、長昌寺(ちょうしょうじ)に。ここは、芥川賞・直木賞で有名な直木三十五の墓がある寺。直木三十五の隣には直木賞作家の胡桃沢耕史の墓が。徒歩にて慶珊寺(けいさんじ)に。門前には岸信介元首相揮毫の「孫文上陸記念碑」、寺の裏に直木三十五の旧宅跡。なお、「上陸」というのに違和感がありましたが、実は、昔は寺の近くまでは海でした。

再び、金沢シーサイドラインに乗り、波がきらめく静かな金沢の海を見た後、一路、本日のメインイベントの「称名寺と金沢文庫」。静かな庭園の中の寺院を散策し、「国宝 金沢文庫展(称名寺聖教・金沢文庫文書国宝指定記念)」を開催中の金沢文庫へ。昨年8月に金沢文庫が管理する総計2万点余りが、一括して国宝に指定された記念の展覧会です。学芸員による懇切丁寧な説明を受け、鎌倉中期~後期の歴史について紐解きました。

ランチは、称名寺傍の「ふみくら茶屋」でアナゴの天婦羅等の懐石料理とお酒等で心身を癒しました。ここで一旦解散し、直帰グループと「金沢歴史の道」を経て帰るグループに分かれました。後者のグループは、途中、龍華寺において星野さん(昭42年経)のご尽力(ご縁?)で、ご住職ご夫妻とボランティアの方々による思いもかけない美味しい珈琲による「お接待」が。一同、大感激。その後、「金沢歴史の道」を進みつつ帰路につきました。15,000歩を優に超える、大変有益で充実した歴史散歩となりました。

【歴】第78回 歴史をひもとく会 講演会 報告

  • 講演 ; 演題「福澤諭吉とその人生を開いてくれた恩師・恩人について」
          講師・柴田利雄先生(帝京八王子中学高等学校校長)

 

  • 日時 ; 4月22日(土)午後3時00分~5時00分
  • 会場 ; 本多公民館・視聴覚室(B1)
  • 参加者; 48名

 

【講師プロフィール】 柴田利雄先生
略歴; 1947年:東京都町田市生まれ、  1966年:早稲田高等学校卒業、
1970年:慶應義塾大学文学部日本史専攻卒業後、同大大学院進学、特に日本文化史を探求
1972年:慶應義塾高等学校日本史教諭として勤務、以後、同校主事、慶應義塾評議員などを経て、2013年3月同校定年退職
2014年4月より帝京八王子中学高等学校校長に就任、今日に至る
歴史に関する講演も多数、慶應義塾賞受賞、慶應義塾名誉教諭、福沢諭吉協会会員、日英協会会員。
著書;『福澤諭吉のレガシー』(丸善)、『幕末維新のすべてがわかる本』(ナツメ社)、『やさしく語る「古事記」』(ベスト新書)

 

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影 *ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影
*ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵

【講演内容】
福澤諭吉は1862年27歳の時に、幕府の随行員として約1年間訪欧している。
写真①はその時撮影したものだが、何とりりしい品格ある姿だろうか?
20歳代後半でこれだけの気品に満ちているというのは、どういう前半生を過ごしてきたのだろうか?
その福澤諭吉に大きな影響を与えた2人の人物がいる。
一人は恩師である緒方洪庵、もう一人は恩人・木村芥舟。
それぞれどんな出会いがあり、どのような影響を受けたのか、これからお話ししたい。

(1)福澤家とその家族
福澤家の故郷は長野県茅野であり、奥平家に仕えていた。
奥平家は武田信玄の家臣であったが、後、徳川家康の家臣となり、徳川幕府成立後は譜代大名として中津(大分県)に封じられた。
福澤諭吉の父の名は咸(かん、通称・百助)、母は橋本お順。*当時は夫婦別姓
兄弟は2男3女で諭吉は末っ子。
父は大阪で中津(奥平)藩の年貢米を換金する仕事をしていた。
諭吉は大阪で生まれ、1歳半頃に父親が死去、家族は中津に戻る。

(2)蘭学、そして恩師・緒方洪庵との出会い
19歳の時、兄に勧められ、家老家子息・奥平壱岐の話し相手(かばん持ち)として長崎に行き、そこで山本物次郎と出会う。
山本はオランダ語に通じた軍学者で、西洋の戦術を導入した。
眼の不自由な山本を助けつつ、諭吉はオランダ語を学んだ。
また奥平壱岐が買い入れた築城書(蘭人ペル著)を借りて写し取り、オランダ語を覚えていった。   *この築城書で五稜郭(函館、長野龍岡城)が造られた。

その後、福澤諭吉は中津に戻るが、蘭学を学びたいという気持ちが強く、大阪に行き、兄の勧めで有名な緒方洪庵の適塾へ入る。
適塾は当時100名弱の塾生がおり、8級から1級に分けられ、その上に特級があり、塾長1人が置かれていた。
8級から1級は上の級が下の級を教える、半学・半教(半分学び半分教える)という仕組みであり、特級だけが緒方洪庵から直接教えてもらうことができた。
諭吉は短期間(在学は実質約2年)で塾長になった。
緒方洪庵は名医として稼いだお金で蘭学を広め、亡くなるまでに塾生は延べ3000人になった。
諭吉は緒方洪庵の、私財を投げ打って学問を広げることに感銘を受けるとともに、人間はどうやって真理を究明するのか、ということを教わった。

(3)慶應義塾の創立と英語との出会い
1858年(安政5年)福澤諭吉は奥平藩の指示で江戸(奥平屋敷)に行き、蘭学塾を開く(慶應義塾の創立)。
1858年に日米修好通商条約が結ばれ、この時期に福澤諭吉は横浜に行き、英語の時代が来たことを痛感した。
「敢為(かんい)の精神」で新たに英語を学ぶことを決意する。   *敢為=物事を思い切って行うこと
英語を学ぶために、英語通訳として活躍していた森山多吉郎に教えを乞うたが、森山が多忙でなかなか進まなかった。
奥平藩が蘭英辞書を買い取ったことにより、諭吉の英語習得は一気に進んだ。

(4)木村芥舟との出会いとアメリカ渡航
1858年、日米友好通商条約締結。
1860年、条約批准のため、幕府は米船ミシシッピ号で新見正興を全権としてアメリカへ送ることにした。
同時に、副使として木村芥舟を咸臨丸で送ることにした。
福澤諭吉は木村芥舟に乗船することを何度も頼み込み、結局「海軍奉行木村芥舟従僕」として同行することになった。
苦難の末、咸臨丸は無事サンフランシスコに到着。
ミシシッピ号もワシントンDCに到着し、条約は無事批准された。
この航海の経験が福澤諭吉の活躍の出発点となり、終生、木村芥舟を恩人として敬愛した。

(5)恩師・恩人への感謝の気持ち(恩返し)
緒方洪庵は幕末に死去。
福澤諭吉は大阪に行くたびに奥様のヤエに、「お見舞い」と称してお金を持って行った。
初めは遠慮していたヤエも「福澤先生は倹約家で清廉潔癖な方で、きれいなお金だろうから」と頂くことにした。
ヤエが病気の時には、そっと100円(現在の100万円)を布団の下に入れていった。
ヤエの死後、福澤諭吉は大阪に行く度に墓参りに行って、墓を自ら洗った。
「これは自分の仕事だから。」と言って、他の人にはさせなかった。
木村芥舟に対しても、盆暮の挨拶を欠かさず、「お見舞い(お金)」を持って行った。
日が経って、木村芥舟の長男・浩吉が「お見舞い」を遠慮したい旨を伝えると
「私のお父さんに対するささやかな恩返しだ。」と言って、その後も続けた。

(6)講演会で話された福澤諭吉に関するそのほかの話
①明日4月23日は慶應義塾の開校記念日である。
これは創立(1858年)以来、3か所目となる現在の三田の山に移転・開校した1875年(明治5年)旧暦3月23日を西暦4月23日と判断して決定したもの。
福澤諭吉の生誕記念日1月10日、命日は2月3日。

②福澤諭吉の後半生はあまりにも有名で、知らない日本人はいないと言っていいくらいだ。
生涯に115冊の単行本を出版し、時事新報にて2000以上の社説を書いている。
30年前の学者の試算によると、福澤諭吉の明治10年の前後5年、計10年間を平均すると1年間の総収入は10億円であったとのこと。
そのお金で慶應義塾を作り、時事通信社や交詢社なども作った。
また多くの寄付の依頼にも応じていたが記録は残さなかった。

③福澤諭吉は咸臨丸でサンフランシスコに行った時、写真屋で記念写真を撮った。
その後、写真屋の13歳の娘と一緒に写真を撮っている。
この事は福翁自伝に書かれているが、本や話の中で妻の錦(きん)以外の女性が登場するのは極めて珍しい。  *この女性との写真は慶應義塾に寄贈されている。

④福澤諭吉は日記は書いていない。
多くの著作があるが、自分の手柄話はほとんど書いていない。
「憲政の神様」と言われた尾崎幸雄が述懐した。
「福澤先生の晩年、自分は慶應義塾で学んだが、その時はそんな偉い人だとは思わなかった。言論や本を読んで後でわかったことだが、福澤先生は日本人ではまれにみる偽悪者だ(自分を悪ぶっている)。
福澤先生はすべての分野に精通している。これほどの総合的な教養人はいない。」

 

*最後に質問をお受けしました。
菅谷国雄会員の質問; 福澤諭吉のバランス感覚というか、現実主義的な思想はどなたの影響があったのだろうか?

(7)柴田先生はご返答に替えて、以下の話を披露されました。
①福澤諭吉の話
「人間は、10歳までは家の教育、10歳からは寺子屋や学校の教育、
20歳を過ぎたら心を磨かなければならない。」

②母(橋本お順)が諭吉に話した父の話
「父は『門閥は親の仇』とよく言っていた。
父は、大変な儒学者で少ない収入でも多くの本を買っていた。
また良い学者がいると聞くと、遠くても歩いて会いに行きその人に学んだ。
帆足万里(大分県日出(ひじ)の儒学者・理学者)や伊藤仁斎とその息子・東涯(ともに儒学者)にはぞっこんであった。」

福澤諭吉の話
「母が常に亡き父のことを話していたので、父の顔は覚えていないが、父は生きているが如くいつもそばにいた。」 *父は諭吉1歳半の時に死去
諭吉の『自由に才能を生かせる世の中を作りたい』という思いは、父から受け継いだのではないか?

③これこそが福澤家の家訓、「屋漏(おくろう)に恥じず」
屋漏とは屋根裏の雨漏り(見えない雨漏りのこと)。
中国では屋漏の神様がいるといわれており、その神様が見ていても恥じないことをする。
人が見ていてもいなくても、恥じない行いをするということ。

(講演終了)
最後に、星野代表世話人よりお礼の品を差し上げお開きとなりました。

柴田先生は、歴史家としての豊富な知識と講談師顔負けの巧みな話術で、2時間余りにわたって、出席者を魅了されました。
講演会終了時には大きな拍手と歓声が上がりました。

その後、会場を国分寺駅北口・中華料理「プリンセスライラ」に移し、懇親会を行いました。 柴田先生を含む35名が参加し、大いに盛り上がりました。

 

第78回担当 井上徹(世話人)

 

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影
*ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵
写真②③④;講演会

【歴】第77回歴史をひもとく会 講演会

真田家 第14代当主をお迎えして:「家をのこす」真田家の歴史と継承

今回は、昨年の大河ドラマ「真田丸」でお馴染みの、波乱の運命を辿った真田家のお話として、真田家第14代当主である眞田幸俊先生(慶應義塾大学理工学部教授)を講師にお迎えしました。
出席者数は、国分寺三田会および近隣三田会、稲門会に加え、国分寺三田会会員のご家族・ご友人(特に、真田家と所縁の深い長野県立上田高校出身の方々が大挙して参加)、そして、国分寺の一般の方々と、歴史をひもとく会の講演会史上最多の146名となりました。

1.日時  平成29年2月4日(土) 14時30分~17時
2.会場  国分寺本多公民館 2階ホール
3.出席者 146名
4.内容

冒頭、星野信夫代表世話役の司会でスタートしました。
眞田幸俊先生によるお話は、前半が主に大河ドラマを彷彿させる「真田家のヒストリー」、後半は手に汗握る「江戸時代以降の真田家の生き残り戦略」の2部で構成されました。
数多くのパワーポイントを使用されながら、まるで大学の授業の雰囲気に加え、時々ユーモア(ご子息等のご家族のご様子等)を交えた大変に興味深い内容のお話でした。
最後に、静岡大学・小和田哲男名誉教授先生の「信繁は武名を残し、信之は家名を残した」を引用され、講演会の締めくくりとされました。

講演の概要は、以下のとおりです。
■真田家の系譜
真田家は「家をのこす」ことに注力。上田に「海野」という一族がおり、親戚筋から入った幸綱が真田(「小さい田んぼ」の意)を名乗ったのが最初。その息子達、信綱・昌輝・昌幸の三兄弟が武田家に仕えて活躍。因みに、私(眞田先生)の長男が生まれた時に田舎に連絡したら「でかした!」、そして次男の時は「これで真田家も安泰!」と言われた。

■信幸、信繁兄弟
信幸(1566年生)は、本多忠勝の娘の小松姫を妻として迎えている。信繁(1567年生(1569年生との説あり))は上杉・豊臣の人質となり豊臣の旗本衆に加えられ、妻は大谷吉継の娘。ドラマでは、兄の方がしっかり者、弟がやんちゃで描かれていたが、現代の眞田家の息子達も奇しくも同じ状況。

■武田二十四将
武田家が信玄の時代になったことで、幸綱は「これは!」と考え武田信玄の家臣に連なった。当時の武田は北条・今川と三国同盟を結んでいたため、国力向上のためには信濃を狙うしかなかった。しかし、当時の信濃は群雄割拠の時代。こうした中、信濃に親戚関係・知り合い関係が多い真田は、武田にとって使いやすかった。そして、武田二十四将の中に真田が3人も入るようになった。

■天正10年~11年(1582~1583年)
1573年に武田信玄が亡くなり、武田家が1582年に滅亡。

■真田7万石
1587年頃の各大名の勢力図を見ると、真田が最大の時期で、北条200万石、徳川家康は180万石、上杉84万石と囲まれて、真田は7万石。これでは、どこかに頼らなければ生きていけない。主家を滅ぼした織田信長に付き、明智光秀に織田信長が討たれると上杉に付き直す。その後、北条に付き直す。

■第1次上田合戦(1585年)
徳川から「北条に沼田を渡せ」と言われたが真田として受け入れ難く、そうこうしている内に上田城を築城。1585年に完成。「ここぞ」とばかりに徳川と手切れし、上杉の配下に。これに徳川家康が怒って第1次上田合戦に。徳川勢7000に対し真田せいぜい2500。しかし、昌幸が優れていた点は「家康は来ない」と情報戦でこれを握っていた。このため、「徳川が大軍であっても、指揮命令系統を崩せば何とかなる」と踏んでいたようだ。

■上田城
濠を渡ってすぐの所に城の門が見える。しかし、土の壁を築いて真っすぐに進めないように工夫。真田は「高砂」を謡って徳川軍を挑発し、敗走とみせかけ。徳川軍はそれを追いかけ、城に入ったものの身動き出来ず大混乱。そして、対岸に戻ろうと川を渡っている最中に、堰を切られて大洪水となり、徳川軍は1000を超える死者。なお、その後、徳川の重臣・石川数正が豊臣に出奔したこともあり、徳川軍は軍を引いた。

■上田合戦後
豊臣秀吉の時代となり、上杉の仲介もあって昌幸は上洛。その後、家康配下の小名になって上田を治めた。秀吉の「北条に沼田は渡してやれ」との調停で沼田を割譲。名胡桃城(沼田城の目と鼻の先)があったが、ここを北条の猪俣という城代が勝手に攻め、これが「名胡桃城事件」となり、豊臣秀吉の怒りをかい、小田原征伐に繋がった。その後、信幸が治め、豊臣秀吉に小名として出仕。この前後して、本多忠勝の娘を正妻に迎えた。一方、信繁は、豊臣秀吉に気に入れられて旗本・家臣となり大谷吉継の娘を正妻に迎えた。ここから10年ぐらいは真田家としては平和な時代。

■関ヶ原の戦い
しかし、秀吉が亡くなると1600年関ケ原の戦い。西軍84,000、東軍74,000の兵力で。三成の密書が昌幸に届く。また、五奉行の連署状があり、これは「予め相談がなかった」ことに昌幸が不満を訴えたことに対する弁明と秀頼に忠節を誓って欲しいとの内容。

■犬伏の別れ
この書状を受けて、有名な犬伏の別れ。信幸は妻を通じて徳川に、昌幸・信繁は豊臣秀吉に通じていたので東西に分かれた。

■第2次上田合戦
昌幸・信繁は犬伏の別れの後、沼田城を経て上田城に戻った。沼田城に「孫の顔を見たい」と門を開けさせようとしたが、小松姫が槍を構え「父上と云えども、東西に分かれたからには門を開けることはかなわない」と追い返したとの通説がある。一方、信幸は秀忠に随行。秀忠は、上田城の開城を申し入れ。昌幸は開城を遅らせ開戦。秀忠は怒り狂って、第2次上田合戦。徳川38000と真田の3500。戦のヤリ方としては第1次と同じで、徳川を散々に翻弄。関ケ原で徳川勝利した後も昌幸・信繁は暫く上田城に籠っていたが、信幸の説得で開城。

■関ヶ原合戦後
昌幸・信繁父子は、高野山の蓮花定院に。非常に寒い場所。信繁の奥方が来るということもあり、女人禁制の高野山から移り、麓の九度山に真田庵を建てた。

■九度山での暮らし、大坂の陣まで
総勢50名程度で暮らしていた。暮らしは大変。なお、はっきり書いていないが、信之がお見舞いに行った形跡あり。1611年に昌幸は亡くなった。信繁は、相当、暇を持て余していた。

■真田信之
現在、上田高校のある上田城で執政を行っていた。城は戦で痛んでおり、幕府に対して修繕の要請を出していたが、なかなか認められない。徳川家から見れば、「あれは忌まわしい城だ」ということで。真田の時代には修繕されていない。

■信之の治世
10万石になっていたが、上田に重臣を置いて、本人は沼田を主に拠点にして政治を行っていた。家康に対して非常に気を遣っていた。岩櫃城(これも重要な城)の城下で「市」をやったら、物凄い人が集まった。ところが大坂の陣の直前だったらしく、「そのための浪人を集めたのでは」と幕府から疑われ、岩櫃城を棄却。これは大変な事。 信之の治世としては、戦で百姓が逃散するのが大きな問題。まずは経済再生。百姓を戻すために役貢を免除あるいは上田城下を精力的に整備。

■信吉・信政の大坂の陣出陣
豊臣と徳川がキナ臭くなってきた。幕府からの大坂出陣命令に対し、信之が病気がちのため、息子の信吉・信政が初陣に参加

■真田信繁九度山脱出
一方、信繁は大野治長の誘いを受けて、九度山から脱出。百姓の支援もあり。10月に大坂城に入場。

■大坂冬の陣
1614年、徳川20万、豊臣10万。大坂城は三方を川と海で囲まれ、総構えの非常に要堅な城。

■真田丸
大坂城の南の端に真田丸を信繁が築きあげた。この真田丸の攻防で、1日だけで数千名の死者が出たと言われている。諸説あって、真田丸は丸い砦、あるいは台形の城との説がある。東西180m、高さ5m、その中に柵を4層。寺町の中にあって、戦のヤリ方としては上田合戦と同じ。

■大坂夏の陣
豊臣と徳川が和睦となり、大坂城は濠を埋め立てられ、真田丸も棄却。浪人の扱いを巡って揉め、また大坂夏の陣。徳川15万5千、豊臣7万8千。城がないので、野戦で戦うしかない、初日は道明寺合戦。後藤又兵衛に2800が川を渡ったところで、真田と毛利が追い付いて徳川の出鼻を挫くはずが、真田が遅れて、後藤又兵衛は討死。信繁は殿軍として、伊達と闘いながら「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」と撤収したと通説言われている。そして、城を出て、徳川全軍と相対することになる。松平忠直軍を抜けて徳川本陣に切り込み。2度目3度目の攻撃で「あわよくば」という所まで行ったが家康の旗本に防がれ、残念ながら追いつかなかった。信繁が安居神社で倒れているところを、西尾宗次に打ち取られた。
ここまでが、ご存知の大河ドラマ

■信繁評
信繁については「槍の遣い手」「日本一の強者」と言われているが、これは島津の伝聞。信之が信繁を評するに『幸村君伝記』によると「幸村は国郡を支配する本当の侍。それに対し、我らは見かけを必死に繕ろい、肩を怒らしている道具持ちぐらいの差がある。また、物事穏やかにして我慢のところがある。強がらず、怒ったり、腹を立てることもない人物」との記録が残っている。義理の兄である小山田茂誠宛の手紙が生涯最後の手紙として残っているが、「秀頼公は厚遇してくれるが、城中は気苦労が多い」。また、お姉さん宛には「大坂城に入ったことで迷惑をかけて申し訳ない」というように非常に気を遣うような人物。

■夏の陣の後
兄である信之としては、信繁の活躍は困った話で親族が敵軍。信吉・信政は大坂の陣で大奮戦。大坂の陣では、各大名は本気で戦をやっていない。戦に勝っても領地は増えないから。しかし、真田は必死。その後、元家来の忍者・馬場主水に逆恨みされ「冬の陣の折に、信幸が信繁と内通していた等」と幕府に訴えられたが、詮議で否定された。

■小松姫の没後
小松姫の没後に、幕府から松代に移れとの命令。13万石(10万石からの加増)。重要な場所。悪い話でないが、中山道の要衝の上田に真田がいることは幕府として気持ち悪かった模様。信之は93歳まで生きていた。91歳まで現役。幕府に何度か家督相続の願いを出したが、「伊豆守は天下の飾りである」と言って認められず、91歳になって、やっと次男の信政(長男の信吉は既に逝去)に家督を相続して隠居生活。

■お家騒動
しかし、信政が急逝し、孫の幸道(2歳)が家督を継ぐに一悶着。「信利(信吉の次男)を継がせたらどうか」との幕府から申し入れ。最終的には信之が幕府を脅して、幸道の相続が決まったとの話が残っている。

■信之没
この騒動に疲れ、この年の10月に信之が逝去。「何事も移ればかわる世の中を、夢なりけりと思いざりけり」。信之が隠居所に使っていた場所は、今は大鋒寺というお寺。信之のお墓がある。
遺訓が残っている。第一条は「君父を重んじ、親族をむつみ」、ここら辺は良くある話だが、「人民を慈愛し」、領民を大切にしなさい。そうしないと、やっていけない。家臣を大切に思うことが必要だ。私(眞田先生)が聴いた話で、殿様(当主)も大変だったということで、どんな風呂でも、風呂に入る時は「良い湯加減だ」と言えと。そうしないと家臣のメンツにかかわる。「殿様は不平不満を言うな」ということを聴いたことがある。そういうように気を遣いながら、家臣達を統率していったという歴史がある。

■真田濠、幸道藩主時代の手伝い、普請
戦が刀の戦ではなく、別の戦に変化。信之のころから、「金子」を相当認識。信之の遺領は27万両。1両10万円ですから270億円ぐらい。真田家は一説には秀忠に苛められたとの話もあるが、そんなことはなくて、最初から譜代大名格として帝鑑の間に。非常に重く用いられたが、ある意味使い易かった。関ケ原や大坂の陣もあり、幕府の命令を聞かなければいけないような立場だったかもしれない。幸道の時代には、多くの役務を仰せつかった。江戸城。真田濠(上智大学のグランドの所)。ここの工事をやったのは真田・伊達・上杉。しかし、名前は真田濠。「江戸城を攻めるならば、一番高い、ここからしかない」という場所。名誉なことなのだが、難工事。一説には「真田の泣き濠」と、泣きながらの工事。手伝い普請を数多く。

■善光寺
1700年に本堂が焼失すると幕府からの命で、いわゆる現在の伽藍を再建。7年に一度の御開帳に本堂と阿弥陀如来様の間の柱を納めているのは、今でも松代。私は15歳の時から施主。

■六代藩主幸弘と藩政改革、恩田民親(木工)
これらの工事による財政悪化と1742年に千曲川が氾濫し、地元の商人からの借金に加え、足軽まで半地借上(給料カット)。幕府から1万両の借財。また、松代大地震が起きて、幕府から7千両を追加で借財。このため、末席家老の恩田民親を財政掛りに登用し財政改革。足軽たちに対する半地借上の制度を取り止め。また、財政の透明化も推進。殖産興業にも注力し、財政が改善
なお、私(眞田先生)は信之との直接の血の繋がりはない。宇和島の伊達のところから十代目として入ってきた。その系統。

■幸貫と佐久間象山、松代藩文武学校
八代目幸貫は、松平定信の長男だが庶子のため真田家にきたもの。1823年に老中に抜擢され、水野忠邦の天保の改革の時に海防掛り。佐久間象山(一般には「しょうざん」。地元では「ぞうざん」)を抜擢して洋学の研究をさせた。九代藩主にかけて、文武学校(藩校)を作っている。松代藩文武学校は今でも残っている。六代目幸弘の時から、文武両道ということで藩士の教育が始まったが、八代・幸貫の時に建物を供託。水戸の弘道館を参考に1855年に開校。優秀な人材が集められ、学費は藩費。宗教色を排除して、蘭学や西洋砲術等の最新科学を積極的に取り入れ。また、試験の結果により俸禄を増減。非常に大きな建物で重要文化財。佐久間象山は幸貫の時代に登用され、私塾を開き、勝海舟や坂本龍馬を教育。「陸の上に大砲を置いても日本は守り切れない。海軍を作るべき」と「海防八策」を献策。これが、後々、勝海舟や坂本龍馬の時代に活かされた。また、日本最初の電信の実験を行った。

■戊辰戦争
松代藩は、早々に尊王攘夷。藩論を統一し新政府側に。越後・会津に出兵。

■幕末から明治へ
1869年に版籍奉還。伯爵家。八代目幸貫の時代には、三成の書状が真田家にあることは限られた者は知っていた。幕府から拝領した忠誠の証の吉光の短刀を納めていた箪笥の中に、石田三成の手紙を十数通保管していた。どうして信之が残しておいたか。信之は石田三成と懇意の中だったらしい。普通の家であれば、幕府に見つかると改易の口実となるので処分してしまうが、信之だけは残しておいた。想像の域を出ないが、石田三成と懇意の中で、その手紙と幕府に従わざるを得ない象徴の短刀を一緒に取っておいた。真田家は徳川家に忠誠をしていた訳ではなく、生き残るために仕方なくということを言いたかったのだろう。

■真田の生き残り戦略
最後に真田家が300年に亘って生き残ってきたのは、次代の変化に対応。勿論、戦国時代は戦を通して生き残ってきた。対して、江戸時代は経済的な苦難もあったものの、幕府に忠誠しながら生き残ってきた歴史がある。それだけではなく、藩主そのものの血筋まで変えて、何とか家あるいは国を残そうとして生きながらえて来た。しかし、幕府に100%忠節を誓ったかと言うと、そうではなく、三成の書状が残っているように、家を残すことを第一に、明治維新の際には新政府側についた。一方、国の中では経済や人材育成を中心に行って、国を支えた。
最後に、大鋒寺(信之の隠居所)に小さい籠と大きな籠の鳥の絵が残っている。普通、鳥の絵は、樹や空を飛んでいるが、信之が籠の中に捕らわれている鳥の絵を描かせた。元の住職の話では、昌幸あるいは信繁を表したものでは。二人が籠の中に捕らわれた苦しさを晩年眺めながら、思いを馳せていたのではないか。真田家は武名だけで残った訳ではなく、そのお陰もあって幕府から一目置かれた。
静岡大学・小和田哲男名誉教授先生がおっしゃった「信繁は武名を残し、信之は家名を残した」、まさにこういうことだろうと思う。戦国あるいは江戸時代、苦しい胸中の中、信之は家を残すために尽力し、歴代の藩主も領土を残すために尽力したことを改めて振り返る次第。

なお、上記以外にも、松代城、長国寺、真田神社、真田宝物館、松代十万石まつり、筝曲八橋流、長野石洲流怡渓会等についての興味深いお話もありました。

また、講演会終了後に、国分寺北口の中華料理「プリンセスライラ」に席を変えて、眞田幸俊先生も交えた懇親会を開催し、大いに盛り上がりました。

【眞田幸俊先生の略歴】
1969年 東京都生まれ
1997年 慶應義塾大学理工学研究科博士課程修了(工学博士)
2001年 慶應義塾大学講師、現在、慶應義塾大学理工学部教授
松代真田家14代当主。真田宝物館名誉館長をはじめ、松代藩文武学校武道会・筝曲八橋流・松代藩文武学校剣道大会などで主要な役を務められている。