【歴】第90回 歴史をひもとく会 開催報告

 

 

「15世紀後半の関東内乱『享徳の乱』と武蔵」の報告

「室町時代の代表的キーワードは、『応仁の乱』に非ず」という革新的学説があるという話を聞き及び、是非お話しを伺いたくご登壇頂いたのが、室町時代の歴史究明のパイオニアである慶應義塾大学文学博士の峰岸純夫先生です。

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講師紹介  峰岸 純夫 先生

1961年 慶応義塾大学文学研究科修士課程修了
1961~1971年 横浜市立港高校・慶應義塾志木高校教員
1971~2003年 宇都宮大学・東京都立大学・中央大学の助教授・教授
その間に慶應義塾大学・学習院大学などの非常勤講師
1990年 慶應義塾大学より文学博士の学位授与

 

令和最初の講演会とあって、会場の本多公民館2階講座室には46名の会員が詰めかけ、熱心に講演に耳を傾けました。
冒頭、講師は『享徳の乱』を知っている人は手を挙げてくださいと質問し、3名の会員が手を挙げたのを確認して、講演に入りました。昔の教科書には載っていなかったので高齢者は知らないが、今は載っているので若い人たちは知っているとのこと。
講演は、講師直筆の資料に沿って、分かり易い語り口で始まりました。

 室町時代が進むにつれ、貴族支配による荘園制度が崩れ、地方武士団が耕地の簒奪のためお互いに抗争を繰り広げる混迷の様相を呈していった。当時は、京都(朝廷+将軍)と関東(鎌倉府の公方+関東管領)による二重支配構造が根底にあり、東西に2つの独立国が存在。このような時代背景の下で、享徳3年12月に起きた大事件が端緒となって、その後、東国の社会を根底から改変するような大乱に発展していった。この大事件とは、即ち、鎌倉(古河)公方の足利成氏が補佐役である関東管領の上杉憲忠を自邸に招いて誅殺したことによる。
この事件の本質は上杉方の背後にいた京の幕府(足利義政)が東の幕府である関東公方の打倒を目指した「東西戦争」の一端であった。つまり、二大権力の相克を基軸とし、京の幕府が上杉勢を使って関東に武力介入したことで騒乱に発展したものと言い換えることができる。その後、この大乱を鎮めるべく、京の幕府は将軍義政の庶兄、天竜寺香厳を送り込むが、結局は鎮圧に失敗。この責任を巡っての内輪揉めにより、後に山名宗全が管領細川勝元に反旗を翻し、東軍・西軍に分かれて戦うことになる、かの有名な応仁の乱に繫がって行くと説く。峰岸史観を貫く炯眼将に恐るべしという処でしょう。

 次に武蔵の国との関連では、分倍河原合戦の話、高幡不動尊境内にある「上杉堂」の紹介、「人見街道」地名の由来等々興味の尽きない話が続きます。

 先生の説明では、室町期の歴史の研究に当たっては主要な資料が殆ど存在しないとか。周辺の資料を粘り強く解明して、こつこつと積み上げて行かざるを得ないということでした。根気の要る困難な道であり、そんな中から導き出された、究明の成果は大いに評価されるべきものと思われます。

 峰岸先生は一見、謹厳な歴史学者の風貌の内側で、実にざっくばらん、ユーモアに溢れ、豊かな人間味を垣間見せる親しみやすい方であります。聴衆は熱心に聞き入っていましたが、講演後の質問コーナーは、司会者の好リードもあって、和やかな雰囲気の中で行われ、先生の判り易い丁寧な回答に質問者全員が納得、とても印象に残る講演会となりました。

以 上

【歴】第89回 歴史をひもとく会 開催報告

歴史散歩「江戸の大名屋敷を歩く「六本木~赤坂見附~四谷見附」

== 歴史散歩行程図 ==

== 歴史散歩行程図 ==

5月の爽やかな風と好天に恵まれた5月17日(金)、毎年恒例の歴史散歩、今年は「江戸の大名屋敷を歩く」と題して、六本木ヒルズから赤坂見附での昼食を挟んで四谷駅までの約10キロ強を33名でのんびりと歩きました。

集合は午前10時六本木ヒルズメトロハット前。まず毛利庭園へ、ここは六本木ヒルズとともに長府藩毛利家上屋敷跡です。ここでは四家に分かれてお預けになった赤穂浪士のうちの10人が切腹しており、また父がこの家の家臣だった乃木希典将軍が幕末にここで産まれています。明治維新後は曹洞宗大学林(駒沢大学の前身)。真田家の邸宅などがありましたが、終戦後はニッカがボトリング工場を造り、1967年まで操業していました。ここにあった池や地下水を使ってボトリングをしていたため、池はニッカ池と呼ばれていました。その後テレビ朝日が工場跡地を購入し、池は美しい庭園として保存されていましたがヒルズ建設に伴い現在の毛利庭園の下に埋められてしまいました。

次にヒルズ前へ戻り、六本木通りをくぐり、六本木トンネルを通って国立新美術館へ。六本木トンネルの左側は23区内唯一の現役米軍基地「赤坂プレスセンター」、今でも軍用ヘリコプターが発着しています。六本木トンネルから国立新美術館へ入る門の向かい側は広大な青山霊園、ここは郡上藩青山家の下屋敷でした。本家の篠山藩青山家の上屋敷は青山一丁目交差点の北西の一角にあり、現在の青山通りの南北に青山一族が住んでいたことからこの一帯が青山と呼ばれるようになったそうです。国立新美術館の敷地は隣接する政策研究大学院大学、日本学術会議を含めすべて幕末四賢侯爵の一人伊達宗城の宇和島藩伊達家の上屋敷跡です。明治維新後は軍用地となり歩兵第三連隊が駐屯しました。後に二・二六事件の主力部隊はここから出動しています。関東大震災後に鉄筋コンクリート3階建ての巨大兵舎が造られ、代表的な復興建築物の一つでした。戦後も建物は残り、米軍接収を経て東大生産技術研究所として長く使われましたが、耐震性の問題から取り壊され、国立新美術館となりました。元の建物の一部が切り取られて敷地内に残されています。国立新美術館敷地内を通り、正門から外へ。左に向かう道(龍土町美術館通り)は道が上下に分かれて並走しています。下の道は江戸時代の道、上の道は明治以降、馬車や自動車が走るようになって造られた道です。江戸時代の道は勾配の変化が急で、車が走るのに適さなかったため、新たに勾配の緩やかな道を造ったそうです。道の左側(青山側)は蓮池藩鍋島家上屋敷があり、その石垣の一部が並走する二本の道の間に残されています。龍土町美術館通りを進み突き当りの東京ミッドタウンへ。ここは萩藩毛利家中屋敷跡です。屋敷跡はその後軍用地となり、戦後米軍に接収されましたが返還後防衛庁となり、防衛庁の市ヶ谷移転後再開発され2007年東京ミッドタウンとしてオープンしています。ミッドタウン敷地西側の境界部分の歩道を進んで檜町公園へ入りました。歩道脇に再開発時の発掘調査で出てきた石組みを再利用した石垣がありました。檜町公園は池を含め江戸時代の毛利家の庭園を受け継いでいるそうです。檜町公園で休憩した後、赤坂へ向かいましたが、このあたりは檜坂、本氷川坂など急な坂道の連続でした。檜坂を下って右へ行き、本氷川坂を上る角のマンションの敷地内に幕末最も活躍していたころ勝海舟が住んでいた邸跡の説明版と木碑がありました。坂本龍馬が初めて勝を訪ねたのもここです。本氷川坂(これは結構きつい坂でした)を上り、赤坂の鎮守氷川神社へ。元は赤坂見附近くにあったそうですが、八代吉宗が現在の地に移転させたそうです。ここは浅野内匠頭夫人の実家があった所でもあります。氷川神社の鳥居の向かい側は松代藩真田家の中屋敷でした。神社を出て左へ行き、さらに左、右と曲がって行くとまた勝海舟邸跡がありました。静岡から東京に戻った勝海舟が、1872年から1899年に亡くなるまで住んだ邸跡です。近年、海舟と龍馬の像が建てられています。その後、赤坂見附まで歩き、駅前の酒蔵「季」でゆっくりと昼食、昼食後は、赤坂見附駅の地下道を通って、弁慶橋の袂、東京ガーデンテラス紀尾井町(元の赤坂プリンスホテルの場所)の前へ。ここから麹町の文藝春秋本社のあたりまですべて紀伊徳川家上屋敷でした。石碑と説明板がありました。東京ガーデンテラス紀尾井町を右に見てまっすぐ進み、清水谷公園へ。公園内には、この付近で明治11年5月14日赤坂仮御所(現迎賓館)へ向かう途中に石川県士族らに暗殺された大久保利通を悼む巨大な哀悼碑が建っています。また、大名屋敷とは関係ありませんが、麹町通り拡幅の際に発掘された江戸時代の玉川上水の巨大な石枡も展示されています。公園を出て右へ、突き当りを左に曲がって紀尾井坂を上りました。「紀尾井坂」は、付近に紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷が並んでいたため、それぞれの頭文字を取って名付けられたものです。紀尾井坂を上り切った左側がホテルニューオータニの正面玄関。ここから弁慶橋の袂、つまり東京ガーデンテラスの向かい側まで、すべて彦根藩井伊家の中屋敷跡です。ホテルへの入口右端に石碑と説明板がありました。そのままホテルの庭園へ向かうと天明年間からあったといわれているカヤとイヌマキの巨木がそびえています。ホテルの庭園は池の位置など井伊家時代のものをある程度引き継いでいるといわれています。そのまま庭園を通りホテル内へ入り正面玄関から出ました。ホテルを出て左へ行くと江戸城外堀の出入り口で唯一城門のない喰違見附跡です。城内に紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家という親藩・譜代の屋敷が並んでいたため城門が無くても守りは十分と考えられたとのことです。城の入口は現在は緩やかなカーブの道となっていますが、当時は直角のクランク状になっていたことが説明板で分かりました。明治7年岩倉具視が征韓派の士族に襲われ、弁慶濠へ転げ落ちて命からがら逃げ延びた場所でもあります。喰違見附からホテルニューオータニ方面へ戻り、突き当たりを左折しました。右側の紀尾井ホールから新宿通りまでの上智大学一帯が尾張徳川家中屋敷跡です。道路脇に石碑と説明板がありました。そのまま新宿通りへ出て、午後2時半前、四谷駅前で解散となりました。一人の落後者もなく、ほぼ予定通りの楽しい散歩でした。

 

【歴】第88回 歴史をひもとく会 開催報告

 

武蔵国分寺以前の歴史

 ~古墳時代から律令時代の黎明期を中心として~

人は、古代の話に触れる時、そこはかとなくロマンの雲が湧き出でる。身近なことなら猶更に。そんな趣向の下、第88回講演会は、平成31年2月23日(土)に、ひかりプラザ2Fのセミナー教室にて、わが町国分寺市域に点在する古代の遺構にまつわるお話をメインテーマに、国分寺市の市政戦略室に在籍し、将来を嘱望されている新進気鋭の学芸員、増井有真氏を講師にお招きし、歴史をひもとく会の会員49名の参加者の下で行われました。

 

【 増井有真氏略歴 】IMG_9120A

立正大学大学院(文学研究科史学専攻)卒。石造文化財調査研究所・品川区立品川歴史館・武蔵国分寺跡資料館を経て国分寺市市政戦略室勤務(観光協会事務局兼職)の傍ら、市内外で講演活動を継続中。
◇著書・論文 見学ガイド「武蔵国分寺のはなし」他多数。

 

冒頭、講師は歴史に埋もれた「もし・・・」の話として、「幻の熊ノ郷遺跡」から説き起こします。前国分寺住職の星野亮勝氏(当分科会の代表世話役、星野信夫氏の実父)が偶然に発見した土器の破片を考古学者に調査依頼したにも拘わらず、忘れられてしまい、後から発見された「岩宿遺跡」にその座を譲ってしまった。もし・・であれば考古学史上の旧石器時代研究の原点となっていたかもしれないというお話。縄文時代の重要文化財「勝坂式土器」の発掘、考古学の学術用語発祥の遺跡「本町(国分寺村石器時代)遺跡」、弥生時代に当たる「花沢遺跡」等々、国分寺駅周辺の地から貴重な学術資料が相次いでいることを紹介していきます。紀元3世紀から、多摩川流域に多くの古墳が作られて、古墳時代後期の6~7世紀になると、国分寺崖線の斜面には、横穴式の古墳が作られていったようです。やがて時は移り、古墳時代が終焉し、飛鳥の時代に入ると、仏教の伝来により、支配イデオロギーとしての国家仏教を軸とした秩序の形成が行われていきます。そして、乙巳の変(大化の改新)・壬申の乱を経て中央集権的な律令国家体制が進み始め、国府の設置・道路網の整備・国分寺の建立が行われます。我々の住んでいるこの国分寺市域は古代において枢要な地歩を占めていたことがよく判ります。

 

休憩を挟んで、後半は主に古代道路のお話です。

7世紀後半から8世紀にかけて国の支配体制を全国に及ぼすために、五畿七道の整備が行われ、都と国府を結び、中央と地方間を迅速に往還できる道路が作られました。駅制と呼ばれる交通・情報伝達システムに基づく駅路として整備されたのが「東山道・東海道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道の七道」です。一定の区間に駅家を設置し、駅馬・駅使が置かれて、駅家間を結ぶ駅務に当たっていました。当時のメイン道路である東山道は、上野から下野に延びているため、武蔵国に来るには、途中で東山道武蔵道を南下しなければならなかったのです。この東山道武蔵道が国分寺市内を通っており、国分寺市泉町地区の古代道路の発掘は平成7年から開始されています。その発掘にまつわる詳細かつ興味深い説明が続きます。瞠目すべき事に、現代の高速道路建設に当たり、国が科学技術を動員して行った道路計画の立案線と古代道路が極めて近似していたそうです。将に古代人の英知が現代に通じていることに驚くと共に、ローマ街道と同じく、将に道がその時代を作ったと云えるのではないでしょうか。

 

「旧じゃこあなへかむ」の歴史の糸に導かれて語られる珠玉の話題、講師の明快な語り口と分かり易いトークに魅了され、出土品にまつわる興味深い話が次々と紹介されて、古代世界に大いに引き込まれてあっという間に講演時間満了となりました。

会場内には私語一つ聞こえず、頻りに講師の話に頷いたり、感じ入ったり・・・・恰も遥かな時代に思いを馳せ、ロマンの雲の中を漂っている様な表情の方も見受けられました。

 

因みに、今回は主催者側の要望で多岐にわたるお話を盛り込んでいただいたので、予定時間内に収まり切らない悩みもありました。もし次の機会があれば、今回の内容を分割して、じっくりお話ししていただきたいとの希望が多く寄せられています。

以 上

【歴】第87回 歴史をひもとく会 開催報告

南北朝時代の武士と国分寺・府中

祈りの「奈良」、雅の「平安」、相克の「安土桃山」、太平の「江戸」、各々の時代の様相は明らかですが、然らば「室町」は、その時代の相貌は。今回、この問いへの答えを求めて、新進気鋭の国文学者である慶應義塾大学文学部の小川剛生教授にご講演をいただきました。

第87回講演会は、平成30年12月8日(土)都立多摩図書館2Fセミナーホールにて、歴史をひもとく会の会員46名の参加者の下で行われました。

冒頭、講師は配布資料に書かれた地図を基に、武蔵国の地政学的な解説から説き起こし、府中に置かれていた国府を通じての武蔵国支配の仕組みや、当時の地方豪族であった在地領主が領土を安堵するのに如何に腐心していたかを説明された。彼らは独立志向型で、自分のことは自分でやるという意識が強く、中世期は当事者主義・自己責任の時代であったと切り込んでいます。戦(いくさ)を例にとれば、軍勢を整える戦費はすべて自前で、負けたら没収。当時の武蔵国は、地頭としての小領主がひしめき、形式的にも自己の支配権を保証してくれる幕府の権力に臣従し、その義務(奉公)として彼らは軍役・治安維持・インフラ整備・普請などを負担させられていた様です。
武蔵国を貫く鎌倉街道上道(かみつみち)は、南に相模、北に上野・越後に繋がる幹線道路で、主要な軍用道路でもありました。北に、大領主が多かった北関東と対峙し、南北の流通の支配と権益を賭けて、利根川を軍事境界線としてせめぎ合っていました。やがて時代が移るに従って、公方足利氏と管領上杉氏の抗争に転化して行き、公方側が些細なことを言いがかりにして度々北関東勢に戦いを起こし、上道を利用して出兵を繰り返し、軍事的プレゼンスが半ばセレモニー化していたのが時代の様相であり、まさに道が時代を作ったと云えましょう。

さて、学問上のネックは、室町期の研究に必要な資料が極めて不足しており、京都から遠く離れた地方については、当時を紐解く資料は殆ど見当たらないのが実情です。然し乍ら、大正時代に発見された高幡不動金剛寺の本尊である不動明王の胎内に残されていた古文書(70通の書状断簡)は、当時の様相を知り得る貴重な手掛かりとして資料的価値が高いものであることが判ってきました。
約30年前から解読が開始され、50通は小領主の山内経之の書状で、内容は家族への恋慕と戦場での窮状に伴う補給の無心等を訴えているものと判明しました。当時の武士階級の実情を把握する貴重な資料として更なる解明が待たれる。
講師は、配布資料を原典購読風に解説し、分かり易く現代語に翻訳してくれています。近在の馴染みのある寺院からの出土品にまつわる興味深い話が次々と紹介されて、聴衆も中世の武家の世界に大いに引き込まれ、あっという間に講演時間満了となりました。

会場内は咳払い一つ聞こえず、講師の話を聞き漏らすまいと、全員が真剣に配布資料を食い入る様に眺め、恰も、学生時代の教室に戻った様な雰囲気がとても印象的でした。その脳裏には、室町という時代の相貌はどの様に映ったのであろうか。これもまた興味の尽きないところです。

以 上

IMG_8497 (2)・ 講師 慶應義塾大学文学部教授 小川 剛生氏
・  1993年 慶応義塾大学文学部国文科卒
・  2006年『二条良基研究』で第28回角川源義賞を受賞(最年少)
・  2016年 慶應義塾大学文学部教授就任
・  2017年 第3回西脇順三郎学術賞受賞
・  ◇著書「足利義満 公武に君臨した室町将軍」(中公新書)ほか多数

 

【歴】第86回 歴史をひもとく会 講演会報告

2回 会員による歴史談義

人に歴史ありとか・・・。悠久の時の中で、人は自らの歴史の糸を紡ぎ、織りなした物語を心の玉手箱の中にそっと仕舞い込んでいます。それを引き出して、味な話を聞かせてほしいというのが、この企画のコンセプト。

第86回の講演会は10月6日(土)、本多公民館にて、歴史をひもとく会会員のお二方を講師に迎え、47名の参加者の下で行われました。まず、最初にご登壇されたのは第1回でも講演して頂いた斎藤信雄氏で、昨年に引き続き「古事記」に纏わるお話です。

講演1「現代の身近にある古事記」

斎藤 信雄 氏 (昭38・政治)

 

ご現代の身近にある古事記20180922冒頭に講師は、古事記とは何ぞや、即ち上・中・下の3巻に分かれる古事記では、上巻で天地の始まりから神武天皇誕生までが書かれている事を紹介。そして、主な神々及びその神々に纏わる神話が物語調に興味深く語られ、聞く者を古代ロマンの世界に引きずり込んでいく講師のゆったりとした口調と話の巧みさに、全員がうっとりと聞き惚れました。一神教の厳格さとは異なり、万物に神宿るという多神教のおおらかさ、八百万の神々に囲まれて暮らす日常のありがたさなど、古事記が現代にも根付いていることが語られました。更にお話は、我々の日常生活の身近にある、国分寺市・小金井市・小平市内の神社に進んでいきます。この地に神社を立てる上で、3つのポイント即ち、①武蔵野台地にあること②国分寺崖線にあること③玉川上水が流れていることを重要な要素として挙げています。具体的な神社名とその由来など古事記にまつわる興味深い縁起が紹介されて、まだ聞き足りないという雰囲気の内に講演時間満了となり、聴衆も古代ロマンと古事記の世界に大いに魅了されました。 

 

次に登壇されたのは同期生の武田寿和氏で、京都の銘菓「八つ橋」に纏わるお話です・

 講演2「聖護院八つ橋の秘密」

武田 寿和 氏 (昭38・政治)

京銘菓「聖護院八ッ橋総本店改講師は、この表題を選んだ理由からお話を起こします。小学生の頃から、知っているし、味も分かっている。でもその由来など誰も気に留める者はいない…、そこに気づいた講師の着想のユニークさが興味深いものに感じられます。京都聖護院の森で八橋検校の墓参に訪れる人々に、琴型の煎餅を売り出した「八つ橋総本店」の330年にわたる歩み、「八橋検校」の生い立ち、「修験宗総本山聖護院門跡」、八つ橋の名を巡っての「伊勢物語」等々凡そ八つ橋に関係する事象を網羅的に調べ上げて解説。更に京都の聖護院八つ橋総本店及び愛知県の三河にある八橋という地名の残る場所(知立市八橋町)への現地調査によって詳細な把握を行っていること等、内容は、思わず、うーんと唸ってしまいそうな秀逸な構成である。そこはかとなく優雅でニッキの香りも高く甘くおいしい八つ橋に相応しい味のある話でしたが最後に、八つ橋業界の現状と問題点について述べた時、今年の6月に起こった「八つ橋創業に関する衝撃的な事件」が如何にも残念という講師の気持ちが伝わってきました。

両講師共に、歴史をひもとく会の会員であり、聞く側との距離も近く講演会とはかくあるべきとのムードに包まれてとても素晴らしいひと時でありました。

以 上

 

【歴】第85回 歴史をひもとく会 講演会報告

京都1200年、人物に見る天皇家と仏教の歴史

 平安の都の名にそぐわぬ治乱興亡の歴史を秘めた京都は、いつも四季の華やぎを添えてわたくしたちを迎え入れてくれます。

そんな京都に惹かれ、王朝の歴史に興味を持った伊東克氏が、京都ステイを重ねつつ京都研修に没頭するようになったきっかけは、海外での貴重な経験すなわち、定年退職後、スペインに語学留学した折、クラスメイトから「日本の皇室は本当に万世一系なのか」と聞かれ、満足な返答ができなかったことにあるとのこと。

 85回の講演会は7月7日()、本多公民館にて、国分寺三田会の会員(S39経)で京都通の伊東克氏を講師に迎え、44名の参加者の下で行われました。

講演の冒頭に講師は、京都の印象として次の4点、①伝統と常なる挑戦、②寺社と連綿たる伝統行事、③世界に通じる革新的企業群の隆盛、④温故知新を挙げています。明治維新による東京遷都後の衰退を乗り越えて、今日も繁栄を続ける京都の核心を捉えた見事な視点といえましょう。

 さて、講演は2部編成で、第1部は天皇家の歴史、休憩をはさんで第2部は平安期における仏教の歴史について行われました。講演内容は、歴代の天皇や仏教の高僧の人物像を語ることを通して、歴史物語に迫るという特徴的な試みであり、その手法は、あたかも塩野七生著の「ローマ人の物語」に通じる様に感じます。

 1部では、桓武天皇から始まり、嵯峨、清和、醍醐、後三条・白河、崇徳・後白河、後鳥羽、後醍醐、後水尾と続き、最後の光格天皇まで10人の天皇の物語が語られ、特に平安時代の歴代の天皇を、親政の時代、摂関時代、院政時代と3つに切り分けて説明。その内容はとても興味深く、普段は耳にできない事柄や、今まで知らなかったお話ばかり。真剣に、じっと聞き入る会員の表情からも会場全体が講演に魅了されている様子が窺われました。

 1部終了後の休憩の合間に、「京都検定試験問題」が会場内に配布され、10問のうち5問以上正解ならば、3級の資格レベルということで、参加者が懸命に回答に取り組む姿が興味深い光景でした。こういったところに講師のサービス精神が伝わってきます。

 2部は、平安期から鎌倉期までの日本の仏教を切り開いた高僧の物語。最澄に始まり空海、円仁、法然と続き最後は親鸞まで5人を選び、奈良時代に国教となった仏教が、その後どの様に隆興していったか。官によって取り入れられた仏教は、遣唐使を通じてその奥義が伝授され、最澄の死後には比叡山延暦寺に大乗戒壇の設置も認められ、やがて鎌倉期に入り、比叡山で学んだ法然・親鸞等により民衆仏教へと変化していく様子が熱く語られました。

 今回の公演を通じて、講師が伝えたかったものは、海外生活を通して知り得た日本のすばらしさ、世界が羨む皇紀2670年余りに及ぶ天皇制の伝統の凄み、京都1200年に及ぶ歴史の重み等々ではないかと推量します。京都学の片鱗に触れ、興味深い話に感じ入った一日でした。

以上

 

【歴】第84回 歴史をひもとく会 バスハイク 報告

 ~常陸国分寺へのバスハイク~

斜め前方に筑波山、左後方遥かに霞ヶ浦、雄大な眺望の中、舟塚山古墳の頂上に佇むと、爽やかな緑の風が吹き抜けていきます。会員一行30名は、6月3日朝8時30分に国分寺駅前を出発し、常磐道を経て、古代ロマンの息づく常陸の国へバスハイクにやってきました。その昔、この地は豊かな産物に恵まれ、人口も多く、付近には大豪族の墳墓が点在しています。この古墳は、全長186m、幅100m、高さ11mの規模を誇る東国第2位の前方後円墳で、5世紀後半の築造、大阪の仁徳天皇稜に共通する特徴を備えているとか。同行していただく地元石岡市観光ボランテイアの方々から詳しく説明を受けた後、次なる行先は本日のメインである常陸国分寺・常陸国分尼寺遺跡です。
東山道沿いの武蔵国分寺に対し、ここは、都から神奈川で海に出て、房総を経て常陸に至る東海道の終点に造られています。当時の常陸の国は大国で、北方民族の蝦夷地に対峙する東日本の軍事拠点、経済・宗教文化の中心地でした。そこに国府が置かれ、特設の国営工房も備え、都から多くの有能な人材が投入されていました。
天平13年に聖武天皇により鎮護国家を祈るため、建てられた常陸国分寺は、戴いた資料によると、壮大な七堂伽藍、七重の塔を備えその高さは65mもあったとか。寺領60町歩、常住僧20名を擁したという。その北方に位置する常陸国分尼寺は法華滅罪之寺と云われ、矢張り広大な寺領に常時10名の尼僧がいたと云われている。
昼食後は観光スポット「看板建築巡り」に石岡市のメインストリートを散策。過去の大火で大半の住居が焼失し、路面部を看板の様に奇抜でモダンな装飾を施して、コリント風・アールデコ調の街並に復興したとか。大正・昭和のレトロな雰囲気を存分に堪能しました。
最後に向かったのは「常陸風土記の丘」。近隣遺跡からの出土品展示館や古代の住居を復元したテーマパークです。近隣で取れる砂鉄を利用した鉄製武具の一大産地であったことが判り興味深い。
雲一つない蒼穹の下、雄大な自然の中で歴史スポットを巡り、悠久の時間に思いを馳せて古代のロマンを大いに満喫したバスハイクでした。
テーマパークの出口で手を振って見送ってくれるボランテイアの方々に別れを告げて帰路に着きました。

以上

 

【歴】第83回「歴史をひもとく会」講演会報告

第83回歴史をひもとく会の講演会は、平成30年3月31日(土)、国分寺駅南口の国分寺労政会館3階において、49名が参加の下、当歴史をひもとく会の代表世話人である星野信夫氏に「武蔵国分寺歴史ドラマ第3弾~再現ドラマから明治維新へ」というテーマでお話しいただきました。 

冒頭に、第Ⅰ部として、過去2回の講演内容の振り返りという意味も含めて、「武蔵国分寺の建立から江戸の新田開発までを中心に」と題して、武蔵国分寺前史や武蔵国分寺の創建~隆盛~衰退の歴史が語られました。仏教の伝来があり、鎮護国家に向けた聖武天皇による国造りの壮大な思想や国分寺創建の目的、その後の戦乱期における国分寺焼失によって衰退期に向かう背景が解説されました。やがて、江戸期に至ると、当地は府中領に属する幕府直轄地に組み込まれ、不毛の武蔵野に恵みをもたらす玉川上水が開鑿されて、幕府の施政による国分寺地域の新田開発が進み、発展していきます。第Ⅱ部は、「明治維新以降の国分寺」と題して、維新前後の混乱期の様々な逸話、官軍の東征と甲武鎮撫隊との攻防や、恋ヶ窪にちなむ歌碑・句碑の話、新政府に対する多摩の農民運動による御門訴事件などが語られました。地方制度の確立と新郡区町村編成により、国分寺地域が三多摩郡の北多摩に属すこととなった下りで、残念ながら、講演時間切れとなりました。事前に配布されたレジメには、昭和期の市制施行までの項目が・・・・・引き続き第4弾が期待されます。 

参加者からは、「とても面白かった」「時間が足りない」「あっという間の2時間だった」などの声がしきり。思えば、確かに一度聞いたことのある内容なのに、殆ど新鮮な感覚で話が迫ってくるのはどうしてなのだろうか。講演内容に関する圧倒的な知識量と人を逸らさない語り口、時々交える人間味のあるユーモアや年号の語呂合わせ等々、講演者の持つ力量の為せる業であろう。星野マジックによる歴史ドラマに酔いしれたひとときでありました。

【歴】第82回「歴史をひもとく会」講演会報告

第82回講演会は平成30年1月20日(土)本多公民館ホールにおいて72名の出席の下、パリ在住の国際ジャーナリスト山口昌子氏を講師にお招きし、「パリの福沢諭吉を訪ねて」をテーマにお話しいただきました。

【講師のプロフィール】
山口昌子氏は、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、産経新聞に入社し、1990年より21年間パリ支局長を務め、1994年にボーン・上田記念国際記者賞、2013年にレジオン・ドヌール勲章シュバリエを受賞され、フランスに関する著書も多数出されている。

【講演の内容】
今回は、遣欧使節団の一員として渡欧した福沢諭吉の足跡を、10年間に亙って追跡し、2016年11月に出版した著作、「パリの福沢諭吉~謎の肖像写真を訪ねて」(中央公論新社)をベースにご講演いただきました。

講演の内容は大別すると、①文久遣欧使節団と福沢諭吉の足跡について、②「西洋事情」の中身はパリ仕込みであったこと、③パリで撮影された諭吉の肖像写真の謎の解明の3点に集約されます。

福沢諭吉は、生涯に3回の海外渡航を行っており、最初の咸臨丸での渡米は余りにも有名ですが、1862年(文久2年)に派遣された「文久遣欧使節団」の軌跡や、ましてその中に翻訳係として諭吉が加わっていた事については殆ど知られておりません。
幕府が5か国と結んだ修好通商条約の一部改正のため、1年かけて各国を廻り、パリにはその年の春と秋の合計1か月余り滞在しました。初めて見る日本人を現地メディアが興味深く報道した記録が残っており、特に人類学者ドゥニケールがその著作本の中で、「日本の典型的なエリートの顔」として諭吉の顔写真を載せ、高く評価していることは興味深い。当時のヨーロッパ人は、日本人が東洋の野蛮人ではなく、高度の文明人であることを驚きをもって眺めたに相違ない。

次に、諭吉は帰国後20万部のベストセラーとなった「西洋事情」を通してまだ日本にその概念さえ存在しなかった「鉄道」「図書館」「博物館」「学校」「病院」「ガス灯」「軍隊」等々、近代日本に必要な制度や知識を紹介しましたが、それ等の殆どは、イギリスではなく、最初の訪問国であるフランスのパリでの見聞によるものであったのは驚きである。
ナポレオン3世による第二帝政時代のパリは、「パリ大改造」を終えて、豪華絢爛な都市であり、諭吉らの一行を大いに魅惑したに違いない。特にこの時期に出会ったレオニドロニに強く触発され、「新聞」及び「新聞記者」を発見して、ジャーナリストとしても目覚めた諭吉にとっては、その後、生涯の事業の一つとなった『時事新報』の創立に繋がって行くのである。

さて、講演者の山口昌子氏が、パリでの諭吉の足跡を10年間に亙って追跡し得られた数々の新発見は、真に興味深いものばかりである。その中でも特筆すべきは、使節団メンバーの肖像写真の撮影者の正体を解明したことである。当時、写真は発明されて間がなく、写真家のナダールが高名を博していたが、撮影には高額の費用が掛かる貴重なものであり、メンバーにとっては所詮高根の花であった。ナダールが遣欧使節団一行を撮った集合写真は残されているが、では、今に残る彼ら一人一人の肖像写真は一体誰が撮影したのか。
実は、その写真を撮影したのは、謎の写真家といわれる無名のポトーであった。彼は、パリの植物園の中にある自然史博物館の研究員で、人類学的興味から、東洋人の顔を写真に残そうと思ったのである。そのネガやオリジナル写真は今もパリに存在する。一行が秋にパリを再訪した折に、ポトーのもとを訪れて撮影が行われたものであった。各人の正面と横顔が写されているが、諭吉の写真だけは、更に斜めからのアングルでも撮られている。この3枚の福沢諭吉の若き日の肖像写真は、激しいオーラを放っており、何でも見てやろうという好奇心に満ち溢れた姿が、フランスの人類学者を強く惹きつけたに違いない。日本のボルテールと言われ、近代日本の構築に貢献した偉人・福沢諭吉が如何にパリで形成されたかを、鮮明に浮かび上がらせた山口昌子氏の業績は高い評価に値するものである。
会場に詰め掛けた多くの出席者に驚きと感動を与えたことは間違いない。終演時に送った拍手が鳴り止まなかったことが何よりの証である。

以上

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【歴】第81回歴史をひもとく会 スピーチ大会開催報告

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第81回歴史をひもとく会は11月19日(日)本多公民館において、44名の出席のもと開催されました。今回は初めての試みとして、歴史をひもとく会会員による「私と歴史」をテーマとするスピーチ大会とし、会員4名がそれぞれ独自の題材で講演されました。時間の関係から残念ながら用意された内容をすべてお話しできなかった方もおられましたが、各自周到な準備の下に、素晴らしい内容の講演となりました。このスピーチ大会は来年度以降も適時実施していきたいと考えております。

 

一番手は、49年政治卒の井上徹氏による「別子銅山と新居浜太鼓祭り」

ご自身の故郷愛媛県新居浜市に1690年から1973年の閉山まで283年の歴史を有した日本三大銅山の一つ別子銅山の日本の近代化への貢献、その裏の苦難の歴史、その繁栄をもたらした別子三翁と言われる三人の経営者の生き方、そして歴史的意義を風化させないための観光開発、世界遺産登録を目指している現在の状況を情熱を込めて語られました。もう一つのテーマ、阿波踊り、よさこいとともに四国三大祭りの一つである「新居浜太鼓祭り」については残念ながら時間の関係から割愛されました。

次は、38年政治卒の斎藤信雄氏による「古事記を訪ねて」

日本に正統な天皇国家を確立したいとして、天武天皇が稗田阿礼と太安万侶に編纂を命じた神話集「古事記」に語られている数々の神話について熱く語られました。主な内容は、イザナギとイザナミによる日本列島の誕生(天地創造)、太陽神天照大御神が天岩屋に身を隠したために高天原が闇となり悪しき神が溢れて災いが起きた。そのため神々が知恵を出し合い天照大御神を岩屋から引き出したという天岩屋神話、須佐之男命の八岐大蛇退治神話、出雲大社と諏訪大社創建のいわれ(国譲り神話)、古事記には南方系神話の影響が強いことなど。

 

三番目は、30年経済卒の丸山茂氏による「歴史散策―歴史から学ぶ―」

IMG_1038tifIMG_1038jpgかつて奈良に住まわれていた講師、奈良の史跡巡りで出会った美しいもの、未知との出会いについて語られました。蘇我入鹿の首が切られて宙に浮かんでいる様子が描かれている談山神社の縁起絵巻、浄瑠璃寺の極楽浄土と九体の如来像、日本一の美女吉祥天女像、いくつかの寺にある慈愛に満ちた十一面観音、東大寺二月堂のお水取り、東大寺南大門の運慶の金剛力士像、薬師寺の三重の塔と薬師如来。また、歴史上の「・・・たら、・・・れば」を考える楽しみについても語られ、秦の始皇帝、項羽と劉邦、関ヶ原の天下分け目の戦い、将軍秀忠の歴史的浮気、などを題材に「れば、たら」を考えることの面白さを、最後に歴史から学ぶとしてご自身の考えられる理想のリーダー像についても述べられました。

 

最後は、39年政治卒の小林隆夫氏による「米百俵と慶應義塾」

小泉元首相により有名となった長岡藩の「米百俵」の逸話、戊辰戦争で敗れ悲惨な経済状況にあった長岡藩の再興に強い意志と行動力で多大な貢献をした小林虎三郎と一歳違いの幼友達で親戚でもあった戊辰戦争で会津とともに散った河合継之助、そして河合継之助の親友であった三島億二郎のそれぞれの生き方、考え方について非常にわかりやすく丁寧に語られました。継之助亡き後、長岡の再興には人材の育成が第一と強く主張して実行した小林虎三郎、虎三郎のその考えに共鳴し、維新後の長岡を指導した三島億二郎、三島は福澤諭吉の思想に共鳴しており、交流もあったことから、長岡から多くの人材が慶應義塾に送られ、その後長岡の指導者となったほか慶應義塾の塾長や要職を歴任した者も多く輩出されていること、三島が明治5年に作った長岡洋学校における授業方法が輪読形式で、生徒間で意見交換し最後に先生が意見を述べるという現在のゼミ形式であり福澤諭吉の「半学半教」の考え方に近かったことなど、これまで知ることのなかった長岡藩と慶應義塾の緊密な関係は新鮮で驚くような話でした。