【歴】第87回 歴史をひもとく会 開催報告

南北朝時代の武士と国分寺・府中

祈りの「奈良」、雅の「平安」、相克の「安土桃山」、太平の「江戸」、各々の時代の様相は明らかですが、然らば「室町」は、その時代の相貌は。今回、この問いへの答えを求めて、新進気鋭の国文学者である慶應義塾大学文学部の小川剛生教授にご講演をいただきました。

第87回講演会は、平成30年12月8日(土)都立多摩図書館2Fセミナーホールにて、歴史をひもとく会の会員46名の参加者の下で行われました。

冒頭、講師は配布資料に書かれた地図を基に、武蔵国の地政学的な解説から説き起こし、府中に置かれていた国府を通じての武蔵国支配の仕組みや、当時の地方豪族であった在地領主が領土を安堵するのに如何に腐心していたかを説明された。彼らは独立志向型で、自分のことは自分でやるという意識が強く、中世期は当事者主義・自己責任の時代であったと切り込んでいます。戦(いくさ)を例にとれば、軍勢を整える戦費はすべて自前で、負けたら没収。当時の武蔵国は、地頭としての小領主がひしめき、形式的にも自己の支配権を保証してくれる幕府の権力に臣従し、その義務(奉公)として彼らは軍役・治安維持・インフラ整備・普請などを負担させられていた様です。
武蔵国を貫く鎌倉街道上道(かみつみち)は、南に相模、北に上野・越後に繋がる幹線道路で、主要な軍用道路でもありました。北に、大領主が多かった北関東と対峙し、南北の流通の支配と権益を賭けて、利根川を軍事境界線としてせめぎ合っていました。やがて時代が移るに従って、公方足利氏と管領上杉氏の抗争に転化して行き、公方側が些細なことを言いがかりにして度々北関東勢に戦いを起こし、上道を利用して出兵を繰り返し、軍事的プレゼンスが半ばセレモニー化していたのが時代の様相であり、まさに道が時代を作ったと云えましょう。

さて、学問上のネックは、室町期の研究に必要な資料が極めて不足しており、京都から遠く離れた地方については、当時を紐解く資料は殆ど見当たらないのが実情です。然し乍ら、大正時代に発見された高幡不動金剛寺の本尊である不動明王の胎内に残されていた古文書(70通の書状断簡)は、当時の様相を知り得る貴重な手掛かりとして資料的価値が高いものであることが判ってきました。
約30年前から解読が開始され、50通は小領主の山内経之の書状で、内容は家族への恋慕と戦場での窮状に伴う補給の無心等を訴えているものと判明しました。当時の武士階級の実情を把握する貴重な資料として更なる解明が待たれる。
講師は、配布資料を原典購読風に解説し、分かり易く現代語に翻訳してくれています。近在の馴染みのある寺院からの出土品にまつわる興味深い話が次々と紹介されて、聴衆も中世の武家の世界に大いに引き込まれ、あっという間に講演時間満了となりました。

会場内は咳払い一つ聞こえず、講師の話を聞き漏らすまいと、全員が真剣に配布資料を食い入る様に眺め、恰も、学生時代の教室に戻った様な雰囲気がとても印象的でした。その脳裏には、室町という時代の相貌はどの様に映ったのであろうか。これもまた興味の尽きないところです。

以 上

IMG_8497 (2)・ 講師 慶應義塾大学文学部教授 小川 剛生氏
・  1993年 慶応義塾大学文学部国文科卒
・  2006年『二条良基研究』で第28回角川源義賞を受賞(最年少)
・  2016年 慶應義塾大学文学部教授就任
・  2017年 第3回西脇順三郎学術賞受賞
・  ◇著書「足利義満 公武に君臨した室町将軍」(中公新書)ほか多数