古代武蔵国のなりたち
12月17日(土)午後2時より、国分寺市立もとまち公民館の視聴覚室にて、歴史をひもとく会第99回例会が開催された。お迎えした講師は、慶應義塾大学文学部准教授の十川陽一先生である。
演題は先生の専門である古代史の中から、我々にも馴染みの深い「古代武蔵国のなりたち」という興味深いもので、46名が出席する盛会となった。6ページにもわたる豊富なレジュメとパワーポイントのスライドを駆使しての濃密な内容で、明るく情熱的な語りで参加者を引き込んでいった。
十川 陽一氏 慶應義塾大学文学部 准教授
1980年生まれ
2003年(平成15年) 慶應義塾大学文学部史学系日本史学専攻卒業
2010年 博士(史学)
2019年~ 慶應義塾大学文学部准教授
<講演内容>
古代武蔵国は、現在の東京都・埼玉県・横浜市(南西部を除く)にわたる広大な領域を持つ国であり、『延喜式』によれば、多磨・都築・久良・橘樹・荏原・豊島・足立・新座・入間・高麗・比企・横見・埼玉・大里・男衾・幡羅・榛沢・賀美・児玉・那珂・秩父の21郡を所管する東海道の大国となっている。
この地域が最初に歴史に登場するのは埼玉古墳群の稲荷山古墳鉄剣銘で、この地域の豪族が「杖刀人首」として大王宮に奉仕したことがしるされている。
また、『先代旧事本紀』所引の国造本紀には无邪志、胸刺、知々夫の三国造が記されており、前2者の読みは「むさし」だと考えられ、国造に就任しうる氏族が2氏あり、1氏に絞ることができなかった可能性がある。
そして、『日本書紀』に武蔵の国造使主(おみ)と同族の小杵(おき)が国造の地位をめぐって争い、朝廷は使主を国造として小杵を誅したこと、乱の終息後、朝廷の直轄地であるミヤケを設置したことがしるされている。朝廷はこのように地方の内乱に介入することで、その影響力を強めていったと考えられる。
使主は北武蔵の豪族と考えられる一方、小杵は諸説あるが南武蔵の豪族とする説もある。当時、武蔵は東山道に属しており、主要な交通路は北武蔵から関東の中心であった上野(こうずけ)へと通じていたと考えられる。使主の勝利は朝廷の介入によるものだったが、朝廷も北武蔵を重視していたのかもしれない。
この状況は8世紀頃から変化してくる。それまでは東山道から北武蔵を経て南武蔵や相模へ行き、再び同じ道を北武蔵へと引き返してから上野へ向かうものだったが、東海道から相模、南武蔵、武蔵国府を経て東山道と合流するルートが成立してくるのである。南のルート上には国府はないもののいくつかの郡家が点在しており、人や物資の行き来があったのが、東海道と東山道を結びつける、駅路として認知されるようになっていったと考えられる。
『続日本紀』宝亀2年(771)10月己卯条 _
太政官奏すらく、武蔵国、山道に属すといえども、兼ねて海道を承け、公使繁多にして、祗供堪へ難し。其れ東山駅路、上野国新田駅より、下野国足利駅に達る。此れ便道なり。而るに枉まがりて上野国邑おは楽らぎ郡より五箇駅を経て武蔵国に到り、事畢りて去る日に、また同じき道を取りて、下野国に向ふ。今東海道は、相模国夷い参さま駅より下総国に達るまで、其の間四駅にして往還便はち近し。而して此を去りて彼に就くこと、損害極めて多し。臣等商量するに、東山道を改めて、東海道に属さば、公私所を得て、人馬息ふこと有らむ。奏するに可とす。
そこで、話題としたいのがKeio Museum Commonsの建設に伴って調査された三田二丁目町屋遺跡である。この遺跡からは古代の掘立柱建物と溝状遺構が検出され、円面硯など多くの遺物が出土した。溝状遺構は古代の官衙や豪族の居館の存在を示し、硯など出土も考えるとなんらかの官衙である可能性が考えられるのである。武蔵国分寺においても「三田」銘瓦も出土しており、三田が重要な地であった可能性がある。
ただ、南武蔵では荏原に有力郡家があったと考えられている。影向寺出土瓦から 7 世紀後半には荏原評の存在が確認できることに加え、隣接する橘樹郡の影向寺造営に関与するなど、大宝令以前の南武蔵における橘樹郡を核とした地域の繋がりも窺える。また、万葉集にも以下の歌がおさめられている。
『万葉集』巻 20(防人歌)
(4415)白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
右一首、主帳荏原郡物部歳徳
(4416)草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我は紐解かず寝む
右一首、妻椋椅部刀自売
(4418)我が門の片山椿まこと汝我が手触れなな地に落ちもかも
右一首、荏原郡上丁物部広足
上の歌には物部の名が見られるが、荏原郡内には当時の有力氏族である物部氏の分布が確認されており、主帳など郡司層との関連も指摘されている。
従って、三田二丁目町屋遺跡は郡家ではないものの駅等の官衙施設として新しい東海道からの南ルートの一翼を担っていたのかもしれない。