【歴】第96回 歴史をひもとく会 開催報告

会員による歴史談義・江戸の食文化

 第96回例会(会員による歴史談義)が、3月12日(土)国分寺公民館ホールにおいて出席者55名、感染対策に十分に留意して開催されました。講師は沼野義樹さんと菅谷国雄さんです。当初、昨年7月に開催する予定でしたが、コロナ禍の影響で延期を重ね、3月の開催となりました。
 最初に星野世話人代表よりあいさつがあり、4度目の正直でついに開催できたことへの感謝の言葉とパックス・トクガワーナとも言える260年余りの江戸時代の平和が日本独自の文化である俳句や浮世絵、和食を生み出したとのお話がありました。続いて、お二人の講師による魅惑的な歴史談義が始まりました。

 

第1部 「江戸の食文化・江戸の料理を学ぶ」

講師:沼野義樹(昭和48年経済学部卒)IMG_4615 (2)

昭和48年経済卒(桐朋高校)

 

尾崎ゼミ  考古学研究会
国分寺三田会幹事
La Madre Cooking(料理の会) 代表世話人
江戸料理本(豆腐百珍など)を参考に江戸町人の料理を調理再現
料理人の知恵に学び調理を知的に楽しむ

 最初に江戸の食材と調味料について深い研究成果が披露され、続いて江戸町人の食生活が具体的に生き生きと描かれ、最後に沼野さんが実際に復元調理された江戸料理の数々が実物の写真と共に紹介され、江戸時代にタイムスリップして食べ歩いているかのような豊かな気持ちとなってお話が終わりました。
 江戸時代の町人の食事の特徴は地域に根ざした食材と発酵食品をうまく使ったことにあるそうです。
 地域に根ざした食材は幕府の政策と深い関わりがあったそうです。魚介に関しては、幕府が摂津の漁師を招いて佃島を開いたことにより、上方の優れた漁法が定着し、種類、量とも豊富に供給されるようになりました。クロダイ、カレイ、スズキ、イワシ、アジ、コハダ、シラウオ、マグロなどの海水魚、ウナギ、ドジョウなどの淡水魚、シジミ、アサリ、ハマグリといった貝類が食卓を彩ったようです。
 また、野菜については幕府が摂津農民を招き、進んだ農業技術を広めたことに加え、諸藩が地元の農民を呼び寄せたことなどもあり、品質の良い野菜が作られるようになり、将軍家に献上したことからブランド野菜が誕生したようです。夏野菜を3月に献上したりしたため、初物フィーバーの起源となったそうです。小松菜、練馬大根、砂村ネギ・ナスなどが知られるようになりました。砂村では魚河岸の生ごみの発酵熱を利用した促成栽培が行われたり、江戸の下肥を肥料として効率的に利用する仕組みができ、野菜の栽培が発展したようです。下肥は良い物を食べている家の下肥が高く買われたという面白い話もありました。また、下肥の収入は大家の収入となり、それによって正月に店子にもちがふるまわれたりしたそうです。
 続いて、これらをどのように調理したか、調味料や味についての興味深いお話が続きました。江戸時代初期には肉体労働者が多かったため、塩辛いものが好まれ、上方のものが優勢だったのですが、中期以降は生活が安定したのと、町人が甘さを知ったことで、甘辛いものが好まれるようになり、同時に江戸のものが広まりました。
 江戸の味の中心となったのが濃口醤油と甘味噌で、これに砂糖や鰹節が加わって、そば、うなぎ、にぎりずし、天ぷら、ドジョウ鍋に欠かせない調味料となり、これが現代まで続いているわけです。
 続いて、お話は江戸町人の食生活に移っていきました。
 江戸町人の生活に欠かせないのがお酒です。酒については上方からの下りものがずっと好まれたようで、特に灘の酒は人気があったようです。高価なので、薄めて出されることが多く、アルコール度は4〜5度程度だったそうで、7〜8升の大酒飲みが良く話にでてきますが、かなり割り引いて聞く必要がありそうです。

 元禄時代には1日3食が定着したようで、男は1日4〜5合の白米を食べていたようで、カッケにかかるものが多く、江戸患いなどと言われていたようです。『守貞漫稿』という書物によると、飯は朝にまとめて炊き、朝は味噌汁とつけもの、昼は冷や飯とおかず、夜は茶漬けか粥とつけものが一般的だったようです。
 また、江戸は男の人口が過剰で独り者も多かったことから、外食産業が発達しました。高級料亭もありましたが、水茶屋、屋台見世、一膳飯屋、煮売茶屋、居酒屋などがどこに行っても見られるようになりました。一膳飯屋では当時人気の奈良茶飯や深川飯などが売られ、屋台見世は立ち食いも多かったようで、天ぷら、そば、すしが売られました。居酒屋は酒の小売りが、店頭でも飲めるようになり、やがて肴も提供するようになり居酒屋となりました。豊島屋が有名でした。
 江戸で人気の食べ物はそば切り、かばやき、天ぷら、にぎりずし、ドジョウ、初物だそうで、それに関わる面白い川柳が話題にされました。(「丑の日にかごでのりこむ旅うなぎ」)
 お話の最後に沼野さんが実際に復元調理された料理が写真と共に紹介され、思わずお腹が鳴ってしまった人も多かったようです。奈良茶飯、スズキの鮭焼き、鰻もどき、利休卵など十数種類に及び、食欲をそそったところで第1部は終了しました。
 沼野さんは伝統ある慶應義塾大学考古学研究会に所属されていたのですが、慶應考古学の実証的精神が深く感じられるお話でした。

 

第2部 「江戸の食文化・そば切り今昔」

講師:菅谷国雄(昭和37年経済学部卒)IMG_4649 (2)

昭和37年経済卒(慶応高校)
島崎ゼミ  ワンダーフォーゲル部(KWV)
国分寺三田会 第4代会長
福沢諭吉読書会
蕎麦切り30余年
ゴルフ他趣味多彩

 菅谷さんは、二百数十年に及ぶ平和の時代、パックス・トクガワーナが生み出した日本文化は必ず後世に継承しなければならない貴重な財産であり、その中の一つとしてそばを取り上げられました。300年近い平和が人類史の中でいかに稀有のものかは、他にはクレオパトラで知られるプトレマイオス朝の260年の平和があるくらいである。それほど稀有なものであるから、そこから生まれたものも人類全体の財産と言っても良いくらい貴重なものであるというお話でした。
 そばのルーツは諸説あるが、奈良時代の遣唐使が持ち帰った粉製品が僧侶の精進料理として食されたのが始まりとされるそうです。その後、伊吹山中腹の太平護国寺で水田に適さない傾斜地で、救荒食物としての蕎麦が栽培されたが、ここは昼夜の寒暖差が大きく蕎麦の栽培に適していて美味であり、客人にも評判となり、彦根藩から江戸幕府に献上されたという記録があるそうです。室町・戦国時代までは小麦粉に混ぜて、団子や蕎麦がきとして食べられていましたが、江戸時代になってそば切りが流行するようになり、江戸時代末期には食べ物屋6000軒のうち、3000軒の蕎麦屋があったと伝えられています。蕎麦の普及については、そばによって江戸患いと言われたカッケを克服しようとしたという説を批判的に紹介され、そばの普及は江戸町人の嗜好という文化的要因ではないかと推測されました。
 お話の中では人口学について言及があり、平和が続いた江戸時代に非常に人口が増加し、これが江戸文化の創造に大きく貢献したということが紹介されました。
 最後は、柳家小さんの「時そば」を聞き、大いに笑うと共に、江戸文化がどれほど現代人にも根付いており、また継承していかなければならないかを実感して素敵な時間が終わりました。菅谷さんのお話には、なにか落語家のはなしのような雰囲気が感じられて引き込まれ、伝統というものの意味を感じさせられました。