【歴】第95回 歴史をひもとく会 開催報告

皇居東御苑への歴史散歩

コロナ禍に見舞われる前、歴史をひもとく会では年に1度「歴史散歩」と称して歴史を訪ね遠方に出かけることを恒例としていました。今回も当初は足利への歴史散歩を計画していましたが延期を余儀なくされ結局中止。5月には、近場の皇居東御苑へと変更しましたがこれも延期。
IMG_4482 (2) 12月16日、素晴らしい好天のもと、ついにやりました! 3度目の正直です!
午前10時半大手門前に集合、好天に恵まれ定刻には全員29名が集合。
案内人の車伸一さん手作りのレジュメと東御苑のパンフレットを配布。入り口では厳重な手荷物チェックとコロナ対策。すぐに車さんの名調子で解説が始まります。
詳しいはずです。車さんは知る人ぞ知る「江戸城天守を再建する会」の小平支部長ですから。
(左写真、車さんの説明に耳傾ける参加者)
当日は、大手門(東御苑内へ)~大手三の門(同心番所)~百人番所~中之門~大番所~中雀門~富士見櫓~松の大廊下跡~本丸跡(大芝生)~富士見多聞~大奥跡~天守台~寛永度天守模型~本丸休憩所(休憩)~展望台~汐見坂~白鳥壕~二の丸雑木林~新雑木林~二の丸庭園~諏訪の茶屋~都道府県の木~平川門~竹橋門跡~清水門(北の丸公園へ)~田安門と回りました。
車さん用意の膨大なレジュメの中から、ごく一部を紹介し当日を再現してみましょう。
そもそも皇居東御苑とは、将軍の住まいと政務の場である本丸御殿があった江戸城の核心部分で、面積は11,373坪、他に天守・大奥などがありました。
大手門最初の大手門(右写真)は江戸城の正面玄関、大名登城の際はここから大手三の門、中之門、中雀門と四つの門を通って本丸御殿にたどり着きました。大手三の門は下乗門とも呼ばれ、駕籠に乗ったまま通れるのは尾張・紀伊・水戸の御三家だけで他の大名はここで降ろされました。お供の者はここで主人の帰りを待ちながら情報交換をしたそうで、それが「下馬評」の語源との説明に、一同「なるほど!」と大喜び。
中之門の石垣は江戸城の中でも最大級の巨石が使用され、目地の殆どない、整層・布積みの石垣は「凄い!」の一言。こんな巨大な石をどうやって運びどのように設置したのか、当時の人たちの技術力に圧倒されるばかりでした。
途中には、同心番所・百人番所・大番所があり入城のチェックを受けます。
百人番所には忍者で知られる伊賀組・甲賀組・根来組などが詰めていました。忍者も平時にはこんなふうに活躍していたんですね。
富士見櫓左写真は江戸城に残る三つの櫓のうち、唯一本丸地区に残る「富士見櫓」です。江戸城遺構として残る唯一の三重櫓で、現存する櫓は、1657年の明暦の大火で焼失後、1659年に再建され、再建後は天守の代わりとして使用されていました。残念ながら当日は途中工事中で見ることができませんでした。浅野内匠頭が吉良上野介に切りつけた「松の大廊下跡」を過ぎると本丸跡・大奥跡の大芝生が目に飛び込んできます。今は何もない芝生を見ながら、ここで展開されたであろう様々なドラマに思いを馳せました。

 

 

 

 

天守台前広場より

 

右写真は「天守台」です。江戸城天守はまず家康が築き、秀忠・家光がそれぞれ建て直しましたが、冨士見櫓同様に明暦の大火で焼失、天守台は前田家が再建しましたが、天守の工事は「江戸の町の再建に金を回せ」という将軍後見役の保科正之(会津藩主)の建言で行われませんでした。車さんはその再建をめざしているのです!

 

 

 

寛永度天守模型などを見学した後、左写真は紅葉残る雑木林に向かう一行です。昭和天皇のご意向で自然のままに残された武蔵野の雑木林が懐かしさを感じさせてくれました。都道府県の木を見学し平川門(桜田門、大手門と並ぶ江戸城三大門)から東御苑を出て、竹橋門跡・清水門跡を経て、田安門に向かいます。
清水門・田安門の門内には、かつて清水家・田安家(8代将軍吉宗が創設した御三卿)の屋敷がありました。
田安門から城内を出ると土橋の右側は牛ケ渕、左側は千鳥ヶ淵。千鳥ヶ淵の水位の方が約10m高くなっています。内堀の一部ではありますが、「淵」と呼ぶのはダムの意味だそうで、家康が江戸に入った直後に自然河川を堰き止めて飲料水用の貯水池を造ったことがその起源です。

楽しかった歴史散歩もここで終了、車さんに感謝し記念写真を撮って名残を惜しみつつ解散しました。

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次回は3月12日「歴史談義(講師は菅谷・沼野両会員)」です。

(文責=星野、撮影=斎藤・車・塚原)