【歴】第89回 歴史をひもとく会 開催報告

歴史散歩「江戸の大名屋敷を歩く「六本木~赤坂見附~四谷見附」

== 歴史散歩行程図 ==

== 歴史散歩行程図 ==

5月の爽やかな風と好天に恵まれた5月17日(金)、毎年恒例の歴史散歩、今年は「江戸の大名屋敷を歩く」と題して、六本木ヒルズから赤坂見附での昼食を挟んで四谷駅までの約10キロ強を33名でのんびりと歩きました。

集合は午前10時六本木ヒルズメトロハット前。まず毛利庭園へ、ここは六本木ヒルズとともに長府藩毛利家上屋敷跡です。ここでは四家に分かれてお預けになった赤穂浪士のうちの10人が切腹しており、また父がこの家の家臣だった乃木希典将軍が幕末にここで産まれています。明治維新後は曹洞宗大学林(駒沢大学の前身)。真田家の邸宅などがありましたが、終戦後はニッカがボトリング工場を造り、1967年まで操業していました。ここにあった池や地下水を使ってボトリングをしていたため、池はニッカ池と呼ばれていました。その後テレビ朝日が工場跡地を購入し、池は美しい庭園として保存されていましたがヒルズ建設に伴い現在の毛利庭園の下に埋められてしまいました。

次にヒルズ前へ戻り、六本木通りをくぐり、六本木トンネルを通って国立新美術館へ。六本木トンネルの左側は23区内唯一の現役米軍基地「赤坂プレスセンター」、今でも軍用ヘリコプターが発着しています。六本木トンネルから国立新美術館へ入る門の向かい側は広大な青山霊園、ここは郡上藩青山家の下屋敷でした。本家の篠山藩青山家の上屋敷は青山一丁目交差点の北西の一角にあり、現在の青山通りの南北に青山一族が住んでいたことからこの一帯が青山と呼ばれるようになったそうです。国立新美術館の敷地は隣接する政策研究大学院大学、日本学術会議を含めすべて幕末四賢侯爵の一人伊達宗城の宇和島藩伊達家の上屋敷跡です。明治維新後は軍用地となり歩兵第三連隊が駐屯しました。後に二・二六事件の主力部隊はここから出動しています。関東大震災後に鉄筋コンクリート3階建ての巨大兵舎が造られ、代表的な復興建築物の一つでした。戦後も建物は残り、米軍接収を経て東大生産技術研究所として長く使われましたが、耐震性の問題から取り壊され、国立新美術館となりました。元の建物の一部が切り取られて敷地内に残されています。国立新美術館敷地内を通り、正門から外へ。左に向かう道(龍土町美術館通り)は道が上下に分かれて並走しています。下の道は江戸時代の道、上の道は明治以降、馬車や自動車が走るようになって造られた道です。江戸時代の道は勾配の変化が急で、車が走るのに適さなかったため、新たに勾配の緩やかな道を造ったそうです。道の左側(青山側)は蓮池藩鍋島家上屋敷があり、その石垣の一部が並走する二本の道の間に残されています。龍土町美術館通りを進み突き当りの東京ミッドタウンへ。ここは萩藩毛利家中屋敷跡です。屋敷跡はその後軍用地となり、戦後米軍に接収されましたが返還後防衛庁となり、防衛庁の市ヶ谷移転後再開発され2007年東京ミッドタウンとしてオープンしています。ミッドタウン敷地西側の境界部分の歩道を進んで檜町公園へ入りました。歩道脇に再開発時の発掘調査で出てきた石組みを再利用した石垣がありました。檜町公園は池を含め江戸時代の毛利家の庭園を受け継いでいるそうです。檜町公園で休憩した後、赤坂へ向かいましたが、このあたりは檜坂、本氷川坂など急な坂道の連続でした。檜坂を下って右へ行き、本氷川坂を上る角のマンションの敷地内に幕末最も活躍していたころ勝海舟が住んでいた邸跡の説明版と木碑がありました。坂本龍馬が初めて勝を訪ねたのもここです。本氷川坂(これは結構きつい坂でした)を上り、赤坂の鎮守氷川神社へ。元は赤坂見附近くにあったそうですが、八代吉宗が現在の地に移転させたそうです。ここは浅野内匠頭夫人の実家があった所でもあります。氷川神社の鳥居の向かい側は松代藩真田家の中屋敷でした。神社を出て左へ行き、さらに左、右と曲がって行くとまた勝海舟邸跡がありました。静岡から東京に戻った勝海舟が、1872年から1899年に亡くなるまで住んだ邸跡です。近年、海舟と龍馬の像が建てられています。その後、赤坂見附まで歩き、駅前の酒蔵「季」でゆっくりと昼食、昼食後は、赤坂見附駅の地下道を通って、弁慶橋の袂、東京ガーデンテラス紀尾井町(元の赤坂プリンスホテルの場所)の前へ。ここから麹町の文藝春秋本社のあたりまですべて紀伊徳川家上屋敷でした。石碑と説明板がありました。東京ガーデンテラス紀尾井町を右に見てまっすぐ進み、清水谷公園へ。公園内には、この付近で明治11年5月14日赤坂仮御所(現迎賓館)へ向かう途中に石川県士族らに暗殺された大久保利通を悼む巨大な哀悼碑が建っています。また、大名屋敷とは関係ありませんが、麹町通り拡幅の際に発掘された江戸時代の玉川上水の巨大な石枡も展示されています。公園を出て右へ、突き当りを左に曲がって紀尾井坂を上りました。「紀尾井坂」は、付近に紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家の屋敷が並んでいたため、それぞれの頭文字を取って名付けられたものです。紀尾井坂を上り切った左側がホテルニューオータニの正面玄関。ここから弁慶橋の袂、つまり東京ガーデンテラスの向かい側まで、すべて彦根藩井伊家の中屋敷跡です。ホテルへの入口右端に石碑と説明板がありました。そのままホテルの庭園へ向かうと天明年間からあったといわれているカヤとイヌマキの巨木がそびえています。ホテルの庭園は池の位置など井伊家時代のものをある程度引き継いでいるといわれています。そのまま庭園を通りホテル内へ入り正面玄関から出ました。ホテルを出て左へ行くと江戸城外堀の出入り口で唯一城門のない喰違見附跡です。城内に紀伊徳川家、尾張徳川家、井伊家という親藩・譜代の屋敷が並んでいたため城門が無くても守りは十分と考えられたとのことです。城の入口は現在は緩やかなカーブの道となっていますが、当時は直角のクランク状になっていたことが説明板で分かりました。明治7年岩倉具視が征韓派の士族に襲われ、弁慶濠へ転げ落ちて命からがら逃げ延びた場所でもあります。喰違見附からホテルニューオータニ方面へ戻り、突き当たりを左折しました。右側の紀尾井ホールから新宿通りまでの上智大学一帯が尾張徳川家中屋敷跡です。道路脇に石碑と説明板がありました。そのまま新宿通りへ出て、午後2時半前、四谷駅前で解散となりました。一人の落後者もなく、ほぼ予定通りの楽しい散歩でした。