【Y】第33回The Young Salon 講演会を開催しました

テーマ:「国家が破綻する時:ポルトガルのソブリン危機」

4月13日(土)午後、国分寺労政会館にて38名参加の下、第33回The Young Salon 講演会を開催しました。講師として1974年慶応義塾大学経済学部を卒業後外務省に入省され、マルセイユ日本国総領事、法務省大臣官房審議官、モントリオール日本国総領事、ドミニカ共和国(兼ハイチ共和国)駐箚特命全権大使、ポルトガル共和国駐箚特命全権大使等の要職を歴任された四宮信隆氏をお迎えし、「国家が破綻する時:ポルトガルのソブリン危機」をテーマにお話し頂きました。尚、引き続き行われた懇親会には講師を含め20名が参加し、和気藹々の楽しい会となりました。講演概要は以下の通りです。

 記

  2010年からの3年間、まさにポルトガル経済がどん底の時期に、大使として、日本が両国関係のために何ができるかを考えながら仕事を行ってきた。過去の歴史の中で国が破綻することは少なからずあり、典型的なものは戦争だが、ポルトガルの場合は財政がたち行かなくなり破綻にいたった。その中で破綻の原因や政府・国民、また社会がどういう動きをしたか、さらに日本が外交的にどのような関与をしたのかについて話をしたい。
1. ポルトガル共和国と日本
ポルトガルの人口は1,000万人強と、ヨーロッパの中では中規模、面積は日本の約四分の一、一人当たりのGDPは日本の約半分。日本にとっては、1543年の鉄砲伝来や1549年のフランシスコ・ザビエルの来訪から、ポルトガルが欧州との最初の出会いとされるが、一方で日本人が初めて欧州に行ったのもポルトガルである。天正遣欧少年使節より早く、鉄砲伝来のわずか10年後の1553年に鹿児島の洗礼名ベルナルド(日本人)がザビエルに同行してポルトガルに渡り、バチカンで法王に謁見、ポルトガルで亡くなったことがイエズス会の記録に残っている。
2. ユーロ危機
ユーロ危機は、アメリカのサブプライムローン、リーマンショックによる世界同時不況を背景とし、直接的には2009年にギリシャで政権交代があり、前政権が財政赤字をごまかしていたことを公表、信用を失ったギリシャの国債が暴落、利回りが高騰して資金調達が出来なくなったことが発端である。当時のユーロ通貨制度では各国の財政状況は自己責任とされており、財政危機があっても外部からの救済制度が整っておらず、支援策が滞って危機が拡大していった。そもそもEUは、欧州での不戦を決意した仏・独の同盟から発したものであり、ユーロ制度もインフレ(財政規律)問題に強い意識をもつ独の意向が色濃く反映された形で発足した。加盟国の財政状況に厳しい自己責任を問う制度も、これが反映したものである。 2010年、EU・ECB・IMFの3者がトロイカと称する支援グループを作ってギリシャを金融支援したがうまくいかず、アイルランド・ポルトガル・スペイン・イタリアに危機が拡大した。この状況下で2011年末にECB総裁に就任したマリオ・ドラギ氏が、ユーロ救済のためならなんでもやると宣言し、自己責任主義が修正され始めたことで、ユーロ危機は回復の方向に向かって行く。
3. ポルトガルの財政破綻
(1)財政破綻の状況
2010年に財政赤字が急増する中、12月に当時のソクラテス首相が財政緊縮策を打ち出すがうまくいかず、トロイカへの金融支援を要請(bail out)せざるを得なくなり、その責任を取って辞職、総選挙で新首相に就任したコエーリョ氏の下で経済再建が始まることになる。この当時、2011年から2013年にかけては、緊縮政策によりGDPの成長率はマイナス、経済も悪化し、失業率は15%以上に達した。特に若年者失業率は25%ぐらいまで上昇し、公的債務残高の対GDP比は120%を超える状況にあった。
(2)破綻の原因
このような破綻の原因には、次の3つの側面が考えられる。
①ポルトガル自身の問題 まず、生産性の低さ・貯蓄率の低さ・農業依存による産業の未成熟等のための経済の脆弱性が挙げられる。また、輸出入の約7割、対ポルトガル直接投資の約8割がEU域内国という欧州依存の経済構造のため、欧州の景気の影響をもろに受ける経済の体質がある。更に、ユーロ通貨へ参加するため、財政赤字と緊縮財政の悪循環を繰り返してきた財政事情もある。なお、ラテン系特有の国民性からくる財政規律の自覚の低さも背景にあるのかもしれない。 ②ポルトガル以外の問題 また、国際金融市場における投機の問題がある。一儲けを狙った投機筋が暗躍し、ポルトガルだけではなくギリシャやアイルランドがそれに嵌ってしまったとも言えるであろう。
③ユーロ通貨制度の内在的問題 共通通貨制度のため各国ごとの為替変動がなく、ユーロ圏内での国際収支・競争力の調整ができないにもかかわらず、ユーロ通貨制度には上述の通り、財政危機の国への財政支援が禁止され、各国は自己責任で財政健全化を図らねばならなかったことがある。さらに、ユーロ域内では北と南で経済格差があるにもかかわらず、ユーロの信用力で南欧の国もお金を借り易くなったためバブルが生じたが、世界が不況になって一気にそのお金を引き揚げられると、破綻に追い込まれることになる。
4. 財政再建
(1)財政再建プログラム
ポルトガルはEU・ECB・IMFの3者に支援を要請、2011年6月から3年間で780億ユーロの融資が行われることになった。ただし、当然ながらその国の財政を立て直す厳しい緊縮政策とセットにしての融資であり、しかも一度に全額の融資が行われるのではなく、四半期毎に財政再建が進んでいるかチェックが行われて、それに応じての融資という厳しい条件付きであった。実際、四半期ごとに追加の緊縮策を求められて、不況は深刻になっていった。 財政再建プログラムの内容は、①財政収入の増加 ②支出削減 ③経済体質強化のための改革から成る。財政収入増加策としては付加価値税が23%へ増税、所得税も増税、社会保険料・医療費・公共料金・教育予算等の大幅引き上げ等が行われた。支出削減策としては公務員の給与削減や新規採用の中止、一部大使館の閉鎖等を含む政府機関の削減、年金削減、教育・福祉予算の削減、企業への補助金の削減・廃止等が実施された。大型の公共事業計画は、すべて凍結された。さらに、政府が保有する資産の売却としてポルトガル航空、発電、配電企業や銀行等の国営企業のほとんどが民営化された。EU域外からの資本誘致のために、大統領や閣僚はビジネスマンを引き連れて、手分けして世界中に散らばる状況であった。
(2)国内の苦難(現場の状況)
失業率が高まり、特に若い人が非常に苦しんでいた。また、貧困の拡大も進んだ。リスボンの中心街で市のトラックが止まり、市民へパンとスープの炊き出しを行っていたのを目撃した。地方の市長たちを会食に招待した際、市民への食糧供給が市の財政を圧迫しているのが大問題だという発言もあった。食料を求めて、見知らぬ人が自宅を訪ねてくる話も幾度か耳にした。国際日の式典で、各国大使の面前で大統領や首相が困窮した地方住民に罵倒されるシーンにも遭遇した。主管大臣の財務相は、夫婦で町に買い物に出た際に市民に取り囲まれる事件などもあった。また、別の政府高官は、厳しい緊縮策を求めるトロイカ、特に独の国民世論がポルトガル経済の運命や国民生活まで支配していると私に嘆くこともあった。 中産階級も悲鳴を上げるなか、当時の新聞には「国を覆う絶望感」という見出しが躍る程であった。しかし、意外にもデモなどで暴力事件が起こらなかったのには感銘を受けた。厳しい状況にも係わらず社会の秩序を保つことができた芯の強い国民性という感じを受けた。 もう一つ印象的だったのは、緊縮政策に対し違憲判決がずいぶん出されたことである。日本では考えられないと思うが、公務員給与・ボーナスのカットや年金削減等の政府の緊縮政策に対して憲法裁判所が違憲判決を次々と出し、それに対応して政府が政策の変更を余儀なくされる事態がしばしば見られた。 苦難の状況にあっても、弱者救済や人間性・人権の尊重という欧州的な歴史の中で培われてきた文化や価値観を垣間見る気がしたものだ。
5. 日本の関与
2010年10月の着任早々ポルトガルの国債が急落するのを目のあたりにして、日本も何か支援できないかと考えていたところ、直後に中国の胡錦涛総書記(当時)がポルトガルを訪問し、5億ユーロのポルトガル国債の購入を約束したとの情報を入手した。 日本は国債の購入は実現できなかったが、当時始められたトロイカによるギリシャ支援の資金として「欧州金融安定化ファシリティー(EFSF)」という基金が作られたので、この基金の債券の2割を日本政府が購入することになった。ポルトガル政府からは、予想以上の感謝の表明があった。日本の証券会社もこの債券を購入したようだ。 その後も、日本企業の進出が少しでも容易になればとの考えから、2011年12月に「二重課税防止条約」を締結した。また、NEDOによるエネルギー関連の協力案件や口蹄疫で輸入禁止措置がとられたままだったイベリコ豚の輸入解禁等を実施、さらに経済関係者の交流には大使館も積極的に関与した。
6. 日本の財政は大丈夫か
2018年の日本の公的債務残高は対GDP比で238.2%にのぼっており、ポルトガルの財政破綻時で130%台、ギリシャは100%いっていなかったことに比べて、日本は大丈夫なのかという心配がでてくる。これにはいろいろの説明があるが、日本の場合、国債は殆どが日本人の所有のため、国際金融市場で投機にさらされる恐れが少ないとか、国内にはまだ増税の余力(返済力)があるなどの議論があるようだ。
7. ポルトガルの再生と魅力
(1)ユーロ通貨体制の改革
2011年末にECB総裁に就任したドラギ氏が宣言した「ユーロを守るためには何でもする」との方針で、ECBは①各国の国債の無制限の買い取り措置、及び②各国の銀行へ低金利での長期融資を始めた。また、その資金手当てのため、以前ギリシャやポルトガル支援のため臨時の措置として作ったEFSFを恒久化した「欧州安定化メカニズム(ESM)」という基金が作られた。 しかしユーロ体制には、EU、ユーロ圏の金融政策と各国の財政政策とが分離しているという制度上の基本問題が依然として存在している。金融政策はECBが行い、各国の中央銀行はその指示に従うだけだが、各国の財政は自国政府が手当てするのが基本的な考えだった。しかし、ユーロ危機の反省から、EUレベルで各国の政策を調整し、財政、金融支援もできる体制をつくりつつあるのである。 また、財政破綻は銀行が破綻しそれを救済するために国の財政が悪化するというケースが多い。以前は銀行の救済も各国が自分でやる方式だったが、グローバル化した金融制度の中で、銀行の監督や破綻した際の処理についてEU・ECBが協力して対応し、必要な資金もEU、ECBが基金をつくって手当てするということをやってきている。今後、その取り組みはさらに進められよう。
(2)ポルトガルの努力の成果
財政再建プログラムを実行してきた結果、例えば2019年2月のOECDの「経済審査報告書」では、ここ数年でポルトガル経済は著しく改善、GDPは危機以前のレベルに回復、失業率も2013年のレベルから10ポイント減、危機直後からポルトガル経済を支えた輸出及び観光分野の成長に続いて、今では投資や個人消費等の国内需要も拡大してきており、ポルトガル経済は堅調な結果を継続する見込みとの評価を受けている。 さらに、経済構造を中長期的に強化することを目指して、不良債権の削減、先端産業・技術革新の導入、育成等にも努めている。また昨年度予算では、いよいよインフラ整備計画も再開し、かつて経済危機で凍結されていた3大プロジェクトが昨年から再び動き出している。 政治面では2016年に中央アフリカ共和国にPKO部隊を派遣、2017年には国連事務総長(元ポルトガル首相)の輩出やEU財務相会議の議長を務める等の実績を上げている。社会面では6月10日の「ポルトガル・ナショナル・デー(国際日)」を海外でも開催するようになり、世界中に出ていっているポルトガル系の人達やポルトガル語権諸国との連携を進めるまでになった。 これらは、財政危機の時代には考えられなかった変化だといえよう。
(3)ポルトガルの魅力
国民性は物静かでありながら芯が強い性格だが、口下手・売り込み下手なところがあり、日本人にとってはむしろ一緒にいると快適な人々との印象がある。比較的物価が安く、治安は欧州の中では特に良い。テロのうわさも聞かれない。文化・歴史・観光に関しても魅力に溢れており、例えばワイン・海産物の料理・アズレージョ(タイル)・ファド(国民歌謡)等は是非味わって頂きたいと思う。ユネスコ世界遺産も文化遺産14、自然遺産1、無形文化遺産6を数える。
8.日ポ関係
最後に日本との関係を申し上げたい。言うまでもなく古くて新しい友人だと思うが、丁度自分が着任した2010年が友好通商条約締結150周年にあたり、また2013年には種子島来航(鉄砲伝来)470周年であり、いずれの年も両国の各方面の方々とともに、数多くの記念行事を実施し交流を深めた。 さらに、2014年には日本の首相として初めて安倍首相がポルトガル訪問、その後コエーリョ首相の日本訪問も実現した。現在、日本からの企業進出も80数社に増加した。 財政破綻当時、ポルトガルを訪問した日本人は推定で年間6万人くらいだったが、皆さんが異口同音に言われた「この国には、また来てみたい」という言葉が印象的だった。日本でも少しずつポルトガルの評判が伝わったのか、日本観光客数は現在では年約12万人と倍増しているようだ。 また、昨年には「(一社)日本ポルトがル協会」が創立50周年を迎え、記念行事のひとつとして特別旅行を行った際には、リスボンで大統領が我々を迎えてくれた。歴史的な関係から東京以外の日本各地にも友好協会があり、さまざまな活動を行っている。 このように、ポルトガルは苦難の時期を経て再生を果たしてきたが、経済以外にも文化、歴史、社会、観光そして国民性など非常に魅力的な国であり、日本での人気も高まっている。いま、「ポルトガルの風」が吹いているように感じている。

IMG_2769