【歴】第76回 歴史をひもとく会(武蔵国分寺歴史ドラマ第2弾)

現国分寺三田会副会長で、前国分寺市長の星野信夫氏が語る講演会「武蔵国分寺歴史ドラマ」の第2弾が平成28年12月17日(土)本多公民館で行われました。大好評だった前回の続編ということで、会場には57名(当分科会としては過去最高)の参加者が詰めかけました。

・博識ぶりに称賛の声

当日、星野講師は、関連する歴史的な出来事について時代背景を交えて手に取るように解説され、我々聞いている側は、自分が恰もその時代に遭遇しているかのようでした。武蔵国分寺地域に関する秘話は興味深い物語ばかりであり、硬軟織り交ぜて語られる幾多の人物像は息遣いが感じられるように我々に迫ってきました。

多彩な知識に基づく解りやすい説明、仏教についての深い知識、各時代の背景を貫く思想や年号・出来事・人物など歴史上の事柄を流れるように説明するその博識ぶりに、会場から称賛の声が挙がりました。

・武蔵国分寺歴史ドラマ:第2弾

武蔵国分寺の焼失後、仏教文化・学問の中心であったこの地域は、鄙びた農村へと姿を変えます。その後、長い戦国の時代が収束し、太平の世となった江戸時代には、世の中に封建秩序が形成され、儒教思想が根付きます。幕府の知行割で、多摩地域が幕府直轄地となった頃から、武蔵野の開発と共に国分寺地域は発展していきます。特に玉川上水の開墾(分水)がこの地にも大きな恩恵をもたらしました。従来の国分寺村、恋ヶ窪村に加え8新田が開発され、住民が安定した生活を営むことの可能な地に変貌していったのです。しかし、元文の大飢饉などの破滅的な危機に直面した時期もあり、更に18世紀の半ばに尾張徳川家のお鷹場となってからは、厳しい規制に苦しむ時期もありました。様々な変遷を経て時代は幕末動乱期に至ります。此の時期に活躍した人々の足跡に触れながら歴史ドラマは明治以降の国分寺に進みます。

旧幕府直轄領時代よりも生活が苦しくなったという当時の住民らの反新政府感情を下地として起こった御門訴事件は悲惨でしたが、新政府側の反幕府感情との軋轢によるものでもありました。明治22年に10ヶ村が合併して(新)国分寺村(人口2910人、420戸)が誕生しました。甲武鉄道(現中央線)の開通、国分寺駅の開設により、駅を中核に地域の中核都市として順調に発展を続けて現在に至ります。

・興味津々、なるほど、納得

57名の参加者は、講師の話に頷いたり、ハタと膝を打ったりの連続で、ア…なるほどそうだったのかと納得の様子が覗きみえました。日常、何気なく通り過ぎていた場所の縁起や、普段は気にも留めなかった地名・屋号・苗字などの由来を聞くにつけ、「目から鱗」という様子が散見され、アッという間に2時間が過ぎていました。

郷土史の語り部から、貴重な講話を聴く機会になったという感想が漏れ聞こえてきました。市内の小中学生にも聞かせたい、これからの世代に受け継いでいくべきだとの意見も多く出ていました。

この続きとして、「武蔵国分寺歴史ドラマ」の第3弾は、激動の時代であった大正・昭和から平成の現在に至るまでの道程や、現在進行中の国分寺駅前再開発に絡む裏話など、興味津々のお話が聞けると思われますので、ご期待ください。