【歴】第113回 歴史をひもとく会 開催報告

小平の歴史 -国分寺の歴史もからめて-

11月15日(土)午後2時より、東京都公文書館研修室にて、44名の参加者を集め、第113回例会が行われた。
国分寺三田会には、小平市在住の会員が23名、さらに歴史をひもとく会の世話人14人のうち、半数の7人が小平市民であるので、小平の歴史を学ぶ機会をと願っていたところ、星野さんのご紹介で、今回の講師、中野純先生においでいただき、「小平の歴史―国分寺の歴史をからめて」と題する講演が実現した。

中野純先生(2)≪講師プロフィール≫

中野 純先生
小平生まれの小平育ち
上智大学文学部史学科を卒業後、同大学院博士課程にて研鑽を積む
国分寺市埋蔵文化財調査に携わり数多くの論文を発表
令和5年より、小平市役所 地域振興部文化スポーツ課にて文化財を研究

≪講演内容≫

旧石器時代から現代に至る約38,000年間の小平の歴史を、約1時間半の講義で、コンパクトに分かりやすく教えていただいた。
小平の古代の歴史は、1974年に発見された鈴木遺跡から読み解くことができる。ここには、旧石器時代から新石器時代に至る12文化層が確認され、長く人が定住したことが分かる。星野さんのお父上が発見された、国分寺の熊ノ郷遺跡、多摩蘭坂遺跡も同時代のものだが、こちらは9文化層から構成されており小平の鈴木遺跡の方が、長く定住者が存在したと推測できる。
石器時代に人の住んだ小平だが、縄文時代の土器の発見はなく、定住者はいなくなったと考えられる。その大きな理由は「水がない」ということだ。このことは、その後の小平に常に影響を及ぼす。
古代になると、東山道が小平を通ったと思われるが、それを裏付ける遺構は見つかっていない。しかし現代の3Dデジタル技術によって、人の目よりも正確に様々なことが分かり始めているので、これからの研究に期待が集まっている。
奈良時代の竪穴式住居跡が一軒だけ、八小遺跡(小平第八小学校内)にあるが、狩りのための作業小屋のようなものだったと考えられている。水がない小平で集落の形成は難しかったのではないか。
中世には、重要な道である鎌倉街道が小平を通っていたと考えられるが、詳しくはわかっていない。室町時代には、戦国大名が小平を通過したと考えられるが、水の補給ができないため、人が住んでいたという伝承もない。
近世になり、水がないという小平の問題を一気に解消したのは、江戸に水を送るために1653年に完成した玉川上水だ。きれいな水を確保するために、尾根筋に40キロの上水を、わずか8カ月で完成。測量技術も未熟だった時代に驚くべきことだ。玉川上水ができると、そこからの分水が可能になり、「小川分水」ができ、これによって小平に水を確保でき、水路と道路を兼ね備えた短冊形地割をもって、小川新田、鈴木新田等の新田開発が進み、人々が定住できるようになった。また、玉川上水沿いの桜が「名勝小金井桜」として有名になり、桜並木と玉川上水に架かる小金井橋と富士山という構図の浮世絵が盛んに描かれた。その絵の右岸こそ小平だ。
近代で特筆すべきは、明治3(1870)年に起きた「御門訴事件」だ。明治政府の農業政策に異議を持つ武蔵野12村(小平の鈴木新田、大沼田新田、野中新田等が含まれる)が、品川県庁へ門訴を決行したが、武力鎮圧され首謀者は投獄されてしまった。これは江戸時代の一揆の名残か、自由民権運動の先駆けか評価の分かれるところだが、小平の農民にとっては一大事件だった。
関東大震災直後には、箱根土地による小平の土地買収が始まり、明治大学(最終的には一橋大学)を中心とした「国分寺大学都市計画」(実際は国分寺ではなく小平)がスタート。国分寺線、多摩湖線も開通。国分寺は別荘地として開発された。(現在の殿ヶ谷戸公園、日立研究所など)
戦前、小平には陸軍技術研究所、陸軍経理学校など陸軍の施設が広範囲に存在した。(現在の小平駐屯地、警察学校、ブリジストン、サレジオ学院、電波研究所等)戦時中、1945年6月にはB29の撃墜事件が起きた。
戦後は、小平、国分寺、小金井の合併説が浮上するも、小平の南側(中央線利用地区)と北側(西武新宿線利用地区)で意見の合致が見られず、成立せず。
近年では、1991年台風の影響により、新小平駅が水没。これは大雨によって、湧水が溢れたことによるもので、JRがポンプでくみ上げ、西国分寺駅近くの真姿の池に放流することとなった。
水がないことによって、定住することは厳しい土地柄であった小平だが、新田開発以降、宅地開発が進み、現在の姿になっている。

文責:上原 安江

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