【歴】第88回 歴史をひもとく会 開催報告

 

武蔵国分寺以前の歴史

 ~古墳時代から律令時代の黎明期を中心として~

人は、古代の話に触れる時、そこはかとなくロマンの雲が湧き出でる。身近なことなら猶更に。そんな趣向の下、第88回講演会は、平成31年2月23日(土)に、ひかりプラザ2Fのセミナー教室にて、わが町国分寺市域に点在する古代の遺構にまつわるお話をメインテーマに、国分寺市の市政戦略室に在籍し、将来を嘱望されている新進気鋭の学芸員、増井有真氏を講師にお招きし、歴史をひもとく会の会員49名の参加者の下で行われました。

 

【 増井有真氏略歴 】IMG_9120A

立正大学大学院(文学研究科史学専攻)卒。石造文化財調査研究所・品川区立品川歴史館・武蔵国分寺跡資料館を経て国分寺市市政戦略室勤務(観光協会事務局兼職)の傍ら、市内外で講演活動を継続中。
◇著書・論文 見学ガイド「武蔵国分寺のはなし」他多数。

 

冒頭、講師は歴史に埋もれた「もし・・・」の話として、「幻の熊ノ郷遺跡」から説き起こします。前国分寺住職の星野亮勝氏(当分科会の代表世話役、星野信夫氏の実父)が偶然に発見した土器の破片を考古学者に調査依頼したにも拘わらず、忘れられてしまい、後から発見された「岩宿遺跡」にその座を譲ってしまった。もし・・であれば考古学史上の旧石器時代研究の原点となっていたかもしれないというお話。縄文時代の重要文化財「勝坂式土器」の発掘、考古学の学術用語発祥の遺跡「本町(国分寺村石器時代)遺跡」、弥生時代に当たる「花沢遺跡」等々、国分寺駅周辺の地から貴重な学術資料が相次いでいることを紹介していきます。紀元3世紀から、多摩川流域に多くの古墳が作られて、古墳時代後期の6~7世紀になると、国分寺崖線の斜面には、横穴式の古墳が作られていったようです。やがて時は移り、古墳時代が終焉し、飛鳥の時代に入ると、仏教の伝来により、支配イデオロギーとしての国家仏教を軸とした秩序の形成が行われていきます。そして、乙巳の変(大化の改新)・壬申の乱を経て中央集権的な律令国家体制が進み始め、国府の設置・道路網の整備・国分寺の建立が行われます。我々の住んでいるこの国分寺市域は古代において枢要な地歩を占めていたことがよく判ります。

 

休憩を挟んで、後半は主に古代道路のお話です。

7世紀後半から8世紀にかけて国の支配体制を全国に及ぼすために、五畿七道の整備が行われ、都と国府を結び、中央と地方間を迅速に往還できる道路が作られました。駅制と呼ばれる交通・情報伝達システムに基づく駅路として整備されたのが「東山道・東海道・山陽道・山陰道・北陸道・南海道・西海道の七道」です。一定の区間に駅家を設置し、駅馬・駅使が置かれて、駅家間を結ぶ駅務に当たっていました。当時のメイン道路である東山道は、上野から下野に延びているため、武蔵国に来るには、途中で東山道武蔵道を南下しなければならなかったのです。この東山道武蔵道が国分寺市内を通っており、国分寺市泉町地区の古代道路の発掘は平成7年から開始されています。その発掘にまつわる詳細かつ興味深い説明が続きます。瞠目すべき事に、現代の高速道路建設に当たり、国が科学技術を動員して行った道路計画の立案線と古代道路が極めて近似していたそうです。将に古代人の英知が現代に通じていることに驚くと共に、ローマ街道と同じく、将に道がその時代を作ったと云えるのではないでしょうか。

 

「旧じゃこあなへかむ」の歴史の糸に導かれて語られる珠玉の話題、講師の明快な語り口と分かり易いトークに魅了され、出土品にまつわる興味深い話が次々と紹介されて、古代世界に大いに引き込まれてあっという間に講演時間満了となりました。

会場内には私語一つ聞こえず、頻りに講師の話に頷いたり、感じ入ったり・・・・恰も遥かな時代に思いを馳せ、ロマンの雲の中を漂っている様な表情の方も見受けられました。

 

因みに、今回は主催者側の要望で多岐にわたるお話を盛り込んでいただいたので、予定時間内に収まり切らない悩みもありました。もし次の機会があれば、今回の内容を分割して、じっくりお話ししていただきたいとの希望が多く寄せられています。

以 上