【E】第129回Oh!Enkaの会を開催しました

1.日時   令和元年12月15日(日)10;00~12:00
2.会場   本多公民館・視聴覚室
3.出席者  会員(国分寺三田会、国分寺稲門会):47名、
・      非会員(会員家族・同伴者):4名
・      計51名
4.プログラム 講演会
・   演題 : 皇太子の先生になった人 小泉信三
・   講師 : 慶應義塾大学 福澤研究センター 准教授 都倉武之
・       (都倉准教授のプロフィールについては下記ご参照ください)

今日は塾歌斉唱のあとすぐに都倉准教授の講演会が始まりました。
平成から令和に変わった本年ならではの、時宜を得た誠に興味深い講義内容でした。

【講演要旨】
・福澤研究センターは福澤先生を通して近代日本を問うということが設立の趣旨である。慶應義塾が近代日本に対して問題を問いかけ続けているということを訴えていくことが使命である。福澤先生の思想を先生が生きてきた時代とそのあとの時代も含めて、どう解釈して教育に生かしてきたのか、生かし切れなかったところがあるのかを考えてきた。その延長の中で小泉信三先生がどういう教育をされたのか、福澤思想をどう解釈してきたのかも研究対象にしてきた。最近は1968-69年代の学生運動の調査、その中での慶應の位置づけの研究等にも手を広げている。

{はじめに}
・小泉信三(1888~1966)のイメージ
体育会の神様(「練習は不可能を可能にする」・小泉体育賞)としてよく知られている。経済学者であり、反マルクス主義の保守論客である。
戦時中塾長を務め、長男は戦死し「海軍主計大尉小泉信吉」を著し、学徒出陣もあった。戦後は皇室と深く関わり、東宮御教育参与を務め、皇太子のご成婚に尽力された。
戦時中に塾長だったことが小泉信三の評価を難しくしており、否定的評価を抱いている先生方もおり、一方では小泉の下で過ごした時代を誇りに思っている方もたくさんいた。アンチ小泉と小泉万歳の両極端に別れる中、小泉研究はタブーで、15年前は誰も手を付けなかった。研究すること自体を批判され、相当不快な思いもした。続々本が出る現在は隔世の感がある。歴史上の存在として議論され始めたということか。
・2008年11月の慶應義塾創立150年記念式典に天皇・皇后両陛下の行幸啓があった。90年、100年式典にも昭和天皇が行幸されている(75年式典は秩父宮)。
私学に天皇が行幸することは慶應の存在位置が変わったこと、また小泉信三の存在が大きい。その他小泉信三展、福澤諭吉展等にも天皇皇后、秋篠宮がお出でになっている。
・上皇が42歳の誕生日を前にした記者会見で、自分が影響を受けた人として小泉信三、安倍能成(学習院院長)、坪井忠二(東大理系、科学者としての天皇を育てた)を挙げている。
・平成の天皇の時代の評価は高い。国民に寄り添い(災害・事件・弱者)、戦争と向き合う姿勢が評価されている。昭和の時代は戦争あるいは天皇制というイデオロギー的な論争があったが、平成はそうしたイデオロギーから遠い存在になっていった。一方では「象徴天皇」論が深まらなかったという点は否めない。
・今年8月に田島道治の「拝謁記」が公表されたが、田島は主権者としての昭和天皇を象徴としての天皇に軌道修正していった。昭和天皇にとっての「象徴」は、消極的であることに意味があった。
小泉は「象徴」を積極的に解釈して意味を与えることを天皇に促した。その背景に福澤諭吉の思想が活かされた。
天皇は憲法に定めるとおり「世襲制」のものでありかつ「日本国民の総意に基づく」ものである。小泉は、難しい存在であることを天皇が自覚し責任を持つよう求めた。

{1.父小泉信吉と福澤諭吉}
①小泉信吉(のぶきち・1849~1894)は紀州藩出身で、慶應2年に福澤門下に入った。この頃中津、紀州、長岡が塾の三藩といわれ特に門下生が多かった。いずれも幕府に近い藩であり、明治になって政府から距離を置き、もの申す立場がここに芽生えていた。紀州出身者には重要な人物が多くいた。松山棟庵(福澤の主治医・慈恵医大の創立者の一人)、和田義郎(幼稚舎創立者)、鎌田栄吉(25年以上塾長を務めた)等。
・維新の混乱時も福澤と行動を共にし、英国留学を経て大蔵省、横浜正金銀行、日本銀行の要職を歴任した。
・明治20年福澤が呼び戻し塾長となり、大学部の設置に尽力した。その後間もなく福澤と衝突し、修復しないまま若くして亡くなった。
・福澤は信吉を高く評価しており、死後も塾の代表的人物として名を挙げている。「演説は小泉の発案、くれぐれも憶えておいてくれるように」「気品の泉源、智徳の模範」等の発言がある。また、死の翌日長文の弔辞を書き上げ小泉家に届けた。小泉家の子供たちはこれをもって父の姿に学ぶことを怠らなかった。
その中で「その心事剛毅にして寡欲、品行方正にして能く物を容れ、言行温和にして自から他を畏敬せしむる」「能く本塾の精神を代表して一般の模範たるべき人物は、君を措て他に甚だ多からず」と絶賛している。

②福澤における父の意味への着目
・小泉信三は、福澤にとって父親の存在は非常に大きく、父を慕いその名を辱めぬことを期していたことを発見した。これは小泉が皇室に求めた役割を考えることにつながる。
・福澤の父(百助)の生涯は封建制度・身分社会に束縛され満足な学問が出来なかった。その姿を見て儒教に批判的な人格が形成された。「門閥制度は親の敵で御座る」
・父の存在が大きいということを最初に小泉が言い出した。「モラルバックボーン」
・これを指摘した小泉も同じく父の存在の影響を強く受け、自分を律していた。

{2.慶應義塾における小泉信三}
①慶應義塾のサラブレッド
・小泉信三は明治21年三田に生まれた。
・父が早世したあと、小泉家は福澤邸に同居、後に福澤が新居も手配した(今も残っている)。
・妻とみは阿部泰蔵の娘であり、兄と小泉は大の親友であった。(阿部泰蔵は門下生でウェーランドの講義を聴いていた一人・明治生命の創設者)
・小泉は幼少時福澤と接していたが、たわいもないことだけ覚えていることを悔やんでいた(福澤は青い鳥)。
・福澤の死の翌年に普通部に入学した。
・小泉は塾の学風が気に入っており、特に教員や塾員に対しても、さん付けで呼んでいたことが、人をその肩書きによらず、その真実の徳と功とによって評価しようとする一種の気風を吹き込む効果があった、と言っている。

②スポーツの良き理解者
・庭球部の名選手であり、キャプテンも務めた。後に部長も務めた。当時官学が強かったが、私学として対抗し倒していった。明治の終わり頃には官学は淘汰された。
・スポーツが教育上どういう意味を持つかを深く考えた。学徒出陣の際に最後の早慶戦を実行した。
・「スポーツが与える三つの宝」~練習が不可能を可能にする体験・フェアプレーの精神・友
・小泉は「文武双全」という言葉を使っている(「文武両道」は儒教的)。
・スポーツの教育的意義を重視しており、教育としてのスポーツは人格形成に資すると考えていた。「かりに対校競技に熱中した体験を持たずに終わった学生生活は、学生生活というに値しない、という者があっても、それはさほどの言い過ぎとは思われない。たかが運動競技などというのは、出世主義の秀才あたりの言い草に過ぎない」(毎日新聞コラム)

③リベラルな経済学者
・福田徳三(政治学科・経済理論の先駆者)に学び、強い影響を受けた。
・教員となり、当時席巻していたマルクス主義に対抗して保守論陣を張った。戦後の左翼的風潮にも対抗した。「儒教に対する福澤、マルクス主義に対する小泉」

④困難な時代の塾長(1933~1947)
・日吉開設、藤原工大開校、三田の環境整備を行った。
・塾生の規律・気品に厳しく、自ら注意することもあった。
・戦中の塾長として、官学主体の論調の中、塾存続に苦悩、苦労した。
・学徒出陣、空襲を経験し、また子息を亡くし、自らも重傷を負うという苦難に満ちた時期であった。
・戦時下の言論界での福澤批判(特に徳富蘇峰の功利主義・個人主義・独立自尊の批判)の矢面に立ち、自ら反論した。
・私学存続の厳しい道のりの中、福澤創始の私立を守ることへの小泉信三固有の使命感を持っていた。
・戦後は戦争責任論については塾内で微妙な関係にあり、教壇に戻ることはなかった。

{3.東宮御教育参与としての小泉信三}
・戦争末期から終戦をまたいで戦後まで、政府には小泉待望論があった。
・特に戦後の待望論の背景には、民主主義の祖としての福澤諭吉、「帝室論」の存在、戦争中の態度(軍部・政府に阿らない)、戦中の不幸な体験、マルクス主義批判のリベラリストという要素がある。
・一方では塾内にも小泉否定論はあった。戦争責任やマルクス主義批判や皇室と関わりを持つことは政府迎合、御用学者と批判する向きもあった。
・東宮の教育責任者を要請された時、官職に就くことを固辞し、民間人として東宮御教育参与(昭和21年)、東宮御教育常時参与となった(昭和24年)。戦後間もない頃から内閣顧問、文部大臣、宮内庁長官を要請されたが一貫して断っている。(昭和23年宮内庁長官には田島道治が就任している)

①福澤の「帝室論」(明治15年刊行)を皇太子と小泉が音読し、意味について議論した。
・「政治社外」(天皇を政治と切り離すべきである)として、天皇は国民を見守る存在であり、民心の収攬、緩和力になるべきである。また、文化面では学術・技芸の奨励・擁護することが皇室のあるべき姿である。
帝室は「万年の春」である。政治は灼熱・極寒の世界であり、それを上から暖かく見守っている存在である。
・「尊王論」もテキストとして用いていたと思われる。
天皇はなぜ尊いのか。人は古くて珍しいもので、役に立たないものを大事にする。生きている人間(天皇)なら更にそうである、と論じている。万世一系、皇祖皇宗を論ぜず、神性を否定したドライな皇室の意義づけをした。
福澤は、皇室の政治利用・絶対化への強い警戒を持っていた。

②「ジョージ五世伝」の購読
・ジョージ五世(英国王在位1910-36)は「立憲君主」としてのリーダーシップを発揮した。
・首相の遠く及ばない「特殊の感覚と見識」、「道徳的警告者たる役目」を持っていた。
・ジョージ五世はバジョットの「英国憲政論」を学んだ。
君主の政府・大臣に対する3つの権利として、(1)諮問に対して意見を述べる権利(2)奨励する権利(3)警告する権利を挙げている。
昭和天皇も「英国憲政論」を学んだが、後日「独白録」において、これを3つ踏み外したと述べている。田中義一辞職、2.26事件、終戦である(天皇が自ら意思表示をした)。
・小泉は、「立憲君主は道徳的警告者たる役目を果たすことが出来るといえる。そのためには君主が無私聡明、道徳的に信用ある人格として尊信を受ける人でなければならぬこと勿論である」と説いた。

③皇室の「民主化」
・小泉は皇太子を当たり前の青年として扱った。慶應流に、人を尊重しつつ特別扱いをしないと言うことを示した。日常の振る舞い、マナーについても教えた。
・スポーツについてもしきたりや流儀を教えようと硬式テニスを勧めた。
・民間人とのご成婚に道筋を付け、報道協定等についても尽力した。
・小泉の慶應義塾での経験や気風が大いに影響している。
・小泉は皇太子にとって父親代わりであり、皇太子は小泉にとって息子代わりとしてのお互いの気持ちがあった。

④ロボットではない、考える「象徴」
・2008年御進講の際のノート(御進講覚書)が発見された。
・小泉は皇太子に自分で物事を考えよと言うことを強く言った。皇室の位置と責任の自覚を強く促し、日本の皇室がなぜ残ったのか、民心が皇室を離れなかったのはなぜなのか、今後どのようにあるべきかを考えることは義務であるとした。
・「君徳といふことについて御考へになっていたゞきたい」「君主の人格その識見は自ら国の政治によくも悪くも影響するのであり、殿下の御勉強とは修養とは日本の明日の国運を左右するものと御承知ありたし」ということを皇太子に説いた。
・小泉が与えた、生涯にわたる課題を踏まえ、「平成皇室」の象徴天皇があったと言える。小泉信三が作り上げた人格が与えた影響は大きい。

{おわりに}
・慶應義塾は人格を作っていくために教育を重視している学校であり、さらに福澤と小泉の背後にそれぞれの父の存在があって人格が形成されたことを小泉は意識していた。その二人の影響の下に平成という時代があり、またその小泉は、自分の父が自分自身のモラルの柱になったことを自覚したように、皇室の存在が国民にとってそのような(自分にとっての父のような)存在になることを期待したのではないか。

【講演要旨終わり】

・最後は全員が肩を組み平林正明会員指揮による「若き血」斉唱とエール交歓でお開きとなりました。
※なお、「帝室論」については国分寺三田会ホームページ・福澤諭吉コーナに小林隆夫会員による要約版が掲載されていますのでご参照ください。
また、NHKで放映されたビデオを塩井代表がお持ちです。ご希望の方はお申し出ください。

【都倉武之プロフィール】
慶應義塾福澤研究センター准教授
専門は近代日本政治史・政治思想史・メディア史。
1979年生まれ。
2007年慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程満期単位取得退学。武蔵野学院大学助手、専任講師を経て2007年慶應義塾福澤研究センター専任講師。2011年より現職。
『近代日本と福沢諭吉』(共著、慶應義塾大学出版会、2013年)、『福澤諭吉の思想と近代化構想』(共著、慶應義塾大学出版会、2008年)ほか。
2004年より小泉信三研究を開始し、『父小泉信三を語る』(共編、慶應義塾大学出版会、2008年)、『アルバム小泉信三』(共著、慶應義塾大学出版会、2009年)などがある。

世話役代表:塩井勝也(S41法)
世話役:斎藤信雄(S38政)、金田 一(S42工)、高橋伸一(S45法)、久保田宏(S46工)、芳賀 崇(S47経)、平林正明(S47経)、山田 健(S47経)、池田敏夫(S47商)、井上 徹(S49政)

♪次回以降の予定
・1月19日(日) 午前10時~12時 本多公民館・視聴覚室 Songs
・2月23日(日)午前10時~12時 本多公民館・視聴覚室(予定)
・       コソボ室内交響楽団 指揮者 柳澤寿男
・       ピアノ 吉村美華子(柳澤寿男夫人)

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講師 都倉武之 准教授