【Y】第32回The Young Salon講演会を開催しました

2月9日(土)午後、国分寺労政会館にて45名出席の下、第32回The Young Salon講演会を開催しました。講師として以前、福澤諭吉の脱亜論をテーマに講演頂いた前、当国分寺三田会会長の菅谷国雄さんを御迎えし、福澤諭吉研究の第2弾として「福澤諭吉の晩年~その想いと蓋棺録を読む~」を演題にお話頂きました。今回講演の趣意は、昨年明治150年、時代の節目・変わり目、世界情勢の変化、ポピュリズムの蔓延等により、我々の理想としている民主主義に危機が訪れている事に講師が焦燥感を抱き、そのヒントを探す中、150年前、わが国の文明化・民主主義の揺籃期に福澤先生が既にその事に気付き、広く国民にメッセージを発していたことが分かり、皆さんに紹介することにあります。

福澤先生は1835年1月10日に大阪中津藩屋敷で生まれ、蘭学を志して21歳の時に長崎へ、その後、大阪緒方洪庵の適塾を経て1858年築地鉄砲洲に蘭学塾を開きました。これが慶應義塾の起源で昨年創立160年を迎えております。先生は1901年2月3日に66歳で亡くなられましたが、今回の講演では福澤先生の晩年に焦点を当てています。講演の概要は下記の通りです。
尚、引き続き行われた懇親会には講師を含め26名が参加し、和気藹々の楽しい会となりました。

  • 福澤諭吉の著作と年譜
  1. 咸臨丸でアメリカへ渡航
    最初のトピックスは咸臨丸(軍艦)に乗り込みサンフランシスコに渡った事。艦長は軍艦奉行・木村摂津守、指揮官・勝麟太郎(勝海舟)・そして福澤諭吉は木村摂津守の従僕として乗り組んでいた。勝海舟との出会いもこの時が最初である。
  2. 初期の大事業
    三度の洋行を経た先生は「西洋事情」「学問のすすめ」「文明論之概略」を刊行、ここに先生の初期の大事業が集約されている。江戸から明治へ時代が激変する中で「文明化とは何か」「今この国は何をすべきか・国民はどの様に生きれば良いのか」一般大衆に平易な言葉で問いかけ、その精神の発達、智徳の向上を啓蒙する諸編は40代壮年期・福澤の珠玉の著作であり、特に「文明論之概略」は福澤研究の古典とも言うべき存在になっている。(学問のすすめ:当時の人口3500万人、販売数360万部、初編~17編)
  3. 40代半ば・最も気力が充実した時期の提言
    明治10年から時事新報創刊までは何れも、先生40代半ば・最も気力が充実した時期に「国権」「民権」「分権」に対する提言を平易な言葉で直言している。これらは19世紀初頭フランスの思想家(のちの外務大臣)アレクシ・ド・トクビルの「アメリカのデモクラシー」をベースにしたものであるが、明治新政府の専政に対し、西南戦争に至る迄の没落士族の不満が根底にある。明治12年の「民情一新」では英国型の議院内閣制度の必要性を説いた政冶論に加えて、蒸気・鉄道・電信・印刷と云った「人民交通の便」が民情を一新し文明開化をもたらすと述べている。
  4. 時事小言、時事新報、脱亜論
    時事小言の中で、先生は日本と西洋との兵備の比較(わが国の脆弱さ)を示し、富国強兵を訴えている。 江戸から明治へ、特に文明開化の揺籃期を迎えた明治10年代の福澤先生の我国を取り巻く認識、即ち①欧米列強によるアジア侵略・その野心②中国・朝鮮の固陋と混迷③日本の国力の脆弱さ、これらを総合して、時事新報の社説として国民に訴え政府に直言した。しかし、日清戦争後は戦争の狂騒に警鐘を鳴らし、明治34年に亡くなった福澤先生は、その後の軍部独走や大陸進出に関与する余地もなかった、と云うのが私の結論である。
  5. 慶應義塾大学
    大学部は明治23年に設立された。小泉信吉(のぶきち)塾長のもと、ハーバードから3名の教授の派遣を受け、総勢59人の学生を迎えて始業式が行われた。しかし官学との兵役免除など差別待遇が存続し、早々に大学部存続の危機に見舞われた明治29年、小幡篤次郎塾長のもと大学部の廃止が提案されたが、先生はこれに反対、その後義塾基本金募集を行い、31年に至り漸く幼稚舎・普通部・大学部の一貫した学制組織を打ちたてる事となった。
  6. 痩せ我慢の説
    明治24年の「痩せ我慢の説」については、明治24年の脱稿以後永年に亘ってその胸底に秘していたものを、先生が亡くなる寸前、時事新報の社説として明治34年から連載されたものである。
  7. 最晩年
    福澤先生は今から118年前の1901年(明治34年)2月3日に逝去された。その3年前の明治31年9月に脳出血が発症し、一時重体であったったが約3ヶ月を経て殆んど全快。大患から復帰した先生は、時勢の変化・修身処世の乱れを見て、「修身要領」を発表し当時の人心に大きな影響を与えた。34年1月25日に脳出血を再発、2月3日帰らぬ人となった。
  • 変革期の理想と老余の煩悩
  1. 膨大な著作・論説・書簡にみる福澤先生の思い
    晩年の明治30年、先生自らが刊行を決意した福澤全集緒言に記載された著作数は「唐人往来」から「痩せ我慢の説」まで全部で56編ある。又存命中、時事新報の紙上に執筆された論説は約5千編ある。更に先生は一生の間に1万通を超える手紙を書いたのではないかと推測され、昭和46年の「福澤諭吉全集」には2130通の書簡が掲載され、その後「福澤諭吉書簡集」も編纂されている。先生の言論人としての人生を通じて明治10年代から20年代、先生壮年期の主張は平易な言葉の中に強い意志をこめた発言が多くあった。そして又、晩年になって本音を語っているなかで、若い時と晩年の発言を繋いで見れば先生の本音がよく理解できるのではないか、これが本日のテーマである。
  2. 福翁自伝
    明治31年に脱稿された「福翁自伝」によれば先生が生涯変わることなく貫いた思想・心情が語られている。旧幕府はもとより新政府にも仕官を嫌い、空威張りの群れに入らぬ由縁、特に役人の醜態(空威張り・酒・妾など)に対する潔癖なまでの、特に不品行に対する嫌悪、忠臣義士の浮薄(痩せ我慢の説の遠因)に対する警鐘を鳴らし続けた。特に明治10年代に入ると、日本国中の士族・百姓・町人が少しばかり文字を学んで皆役人になりたい、金儲けに熱心で高尚な精神に至るという気概がない。晩年の先生の時世を憂うる煩悩の最たるものであった。
  3. 禁酒
    先生の「自伝」によれば、若い頃自分は大酒飲みであったが、32~33歳頃より苦しみながらも禁酒を始めたと書かれている。
  4. 日清戦争、朝鮮問題
    明治28年の春には日清戦争が終結し日本は勝利をおさめた。この戦争は福澤先生にとって開化路線の日本と固陋・旧弊・儒教・華夷思想の清国との戦いであり、年来の主張が実をむすんだ出来ごとで、満足な結果であった。当時経済状況も良く、「自伝」にも満足を表明しているが、戦勝に酔って軍事に傾きがちな世情を危惧した言葉を発信している。またこの戦後は、福澤先生が朝鮮問題について、朝鮮の政治的・文化的違和感と失望から、政治的恋愛が醒め、自分が係った諸問題を整理し始めた時期である。
  5. 時事新報(醜態の批判)
    明治29年の8月、先生は「時事新報」の社説に「紳士の宴会」や「宴会の醜態」を掲載、紳士・紳商と称する人が連日連夜宴会を催し、芸者を侍らせて泥酔昏倒する醜態を厳しく批判し、それに代わる文明の交際方として「茶話会」を提唱している。経済人が「私徳」を厳重にすることを忘れるな、と強く言って居られた。
  6. 老余の福澤先生
    このように、この時期の福澤先生は軍事的熱狂への危惧や、経済人の醜態への批判の気持ちを募らせ、かつての衆人精神発達の議論「文明論」へと再び傾斜していった。明治30年7月に一書に纏めて刊行された「福翁百話」では個人の行動と精神のあるべき姿が述べられているが、これは20年以上前に書かれた「文明論之概略」の冒頭緒言を思わせる言葉である。老余の福澤先生が再びその原点を述べた著作となっている。先生は「福翁百話」の著作動機を日原昌造宛の書簡で、俗界のモラル・スタンダードの高からざる事、終生の遺憾と述べ、自分の考える文明の精神が社会に理解されているのか、ある種の無力感を漂わせている。先生の終生の願い、即ち自主性や個人の誇りというものを備えた倫理感が日本社会に根づく事の難しさを肌で受け止めて居られたのである。この様に晩年の福澤先生は、日清戦争後の軍事熱の狂騒、経済界の醜態、朝鮮問題への挫折感、そして「文明論」の真意が理解されていないのではないかという失望、慶應義塾の財政と存続など焦燥の思いがつのり、「老余の煩悩」に苛まれる日々を送って居られたのではないかと思われる。

    明治32年、晩年の福澤先生

    明治32年、晩年の福澤先生

●蓋棺録を読む
同じ時代に生きた明治人がどの様に福澤諭吉を見ていたのか、哀悼録等で当時の「福澤感」(方々の想いの一端)をお伝えしたい。

  1. 福地桜痴
    (君は欧米の文明を咀嚼してこれを日本化せるもの、君を外して誰ありとするかな、君の訃報を聞いて流涕滂沱(涙が止めどない様)これを弔する詞知らず。)明治34年2月4日日出国(やまと)新聞:福澤先生哀悼録
  2. 徳富蘇峰(猪一郎)
    「国民新聞」に「福澤諭吉氏を弔する」を掲載している。 (人は氏を目して、拝金主義の俗物と云うが、これ未だ氏が武士的真骨頂ある快男子たるを知らざるのみ。その行の高き、家族的生活の清潔なる、その侠骨の稜々たる、その愛国の血性ある、武士的真骨頂と見る。想うに明治100年の後に於いて、もし福澤諭吉氏の感化なるものを求めば、そは福澤全集にあらずして、福澤氏自身の性行人格なるべき哉)
  3. 山路愛山
    明治26年「国民新聞」所載の「明治文学史」の中で愛山は(福澤諭吉君を敬服するところは、彼が何処までも自己の品位は即ち自己に在ることを知り、官爵を捨て、衣貌を捨て自らを律し、生涯を通じて平民的模範を与えたることである。)
  4. 内村鑑三
    明治のクリスチャンの中でも内村鑑三は、その徹底した宗教的潔癖性から、福澤の経済主義・物質主義が拝金主義の流弊を生んだことを憎んだ。
  5. 木村介舟(喜毅)
    先生は我国の聖人なり。その碩徳偉業宇宙に光り輝き、幾多の新聞皆口を極めて讃称し、天下の人熟知する所、予が蝶々を要せず。 40余年先生との交際、先生より受けたる親愛恩情の一斑を記しこれを子孫に残さんとする
  6. 新渡戸稲造
    ただ新しい知識を注ぎ込むと云うよりも、新しい知識を得たいという志を起こすような教育をせられた。単に知識を注ぎ込むということなら教育屋にでも出来るがこれが真の教育であると思いました。心と心の交わり、私はただ一度先生にお目にかかっただけですが、頭の中に強く残っています。
  7. 印旛郡長沼総代・小川武平
    同村総代小川武平氏の弔詞は左の如し。 ・・・・明治33年3月遂に沼地引き戻しの許可の指令に接しましたのも、先生の賜物非ずしてなんぞや。先生の訓誡、村民の金科玉条なり。遺訓を胸に刻み村の幸福を失墜することなく参ります。明治34年2月7日 下総国長沼 小川武平 泣血拝
    (註)当時印旛郡長沼の惨状にも拘わらず沼地を政府に上納の命が下り、一村死を待つばかりの時に、福澤先生が政府に親展書を出してくれた。このお蔭で、その後沼地は村に引き戻され村民が蘇生した。その恩を弔詞で述べたものである。
  • まとめ
    本日は福澤先生の膨大な著作・論説・書簡の中から、今の我々の心に強く訴える珠玉のメッセージを選んでお伝えした。最後に小林秀雄の「福澤諭吉の炯眼」を紹介して本日の結びとしたい。これは「考えるヒント」の「福澤諭吉」と題するコラムを纏めたものであり、小林秀雄は文書の最後で次のように指摘している。
    ◎精神の自立を薦めようとする福澤先生は「民主主義は人々の心の内を腐らせる」ことに気付いた我国最初の思想家であると。
    福澤先生はノブレス・オブリージュを訴えたのではないだろうか。人々の志が高くならないと民主主義は定着しない、現在世間一般のポピュリズムが蔓延する中にあって民主主義は難しい。(志を高め、ポピュリズムを乗り越える努力が今求められている。)