【歴】第82回「歴史をひもとく会」講演会報告

第82回講演会は平成30年1月20日(土)本多公民館ホールにおいて72名の出席の下、パリ在住の国際ジャーナリスト山口昌子氏を講師にお招きし、「パリの福沢諭吉を訪ねて」をテーマにお話しいただきました。

【講師のプロフィール】
山口昌子氏は、慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、産経新聞に入社し、1990年より21年間パリ支局長を務め、1994年にボーン・上田記念国際記者賞、2013年にレジオン・ドヌール勲章シュバリエを受賞され、フランスに関する著書も多数出されている。

【講演の内容】
今回は、遣欧使節団の一員として渡欧した福沢諭吉の足跡を、10年間に亙って追跡し、2016年11月に出版した著作、「パリの福沢諭吉~謎の肖像写真を訪ねて」(中央公論新社)をベースにご講演いただきました。

講演の内容は大別すると、①文久遣欧使節団と福沢諭吉の足跡について、②「西洋事情」の中身はパリ仕込みであったこと、③パリで撮影された諭吉の肖像写真の謎の解明の3点に集約されます。

福沢諭吉は、生涯に3回の海外渡航を行っており、最初の咸臨丸での渡米は余りにも有名ですが、1862年(文久2年)に派遣された「文久遣欧使節団」の軌跡や、ましてその中に翻訳係として諭吉が加わっていた事については殆ど知られておりません。
幕府が5か国と結んだ修好通商条約の一部改正のため、1年かけて各国を廻り、パリにはその年の春と秋の合計1か月余り滞在しました。初めて見る日本人を現地メディアが興味深く報道した記録が残っており、特に人類学者ドゥニケールがその著作本の中で、「日本の典型的なエリートの顔」として諭吉の顔写真を載せ、高く評価していることは興味深い。当時のヨーロッパ人は、日本人が東洋の野蛮人ではなく、高度の文明人であることを驚きをもって眺めたに相違ない。

次に、諭吉は帰国後20万部のベストセラーとなった「西洋事情」を通してまだ日本にその概念さえ存在しなかった「鉄道」「図書館」「博物館」「学校」「病院」「ガス灯」「軍隊」等々、近代日本に必要な制度や知識を紹介しましたが、それ等の殆どは、イギリスではなく、最初の訪問国であるフランスのパリでの見聞によるものであったのは驚きである。
ナポレオン3世による第二帝政時代のパリは、「パリ大改造」を終えて、豪華絢爛な都市であり、諭吉らの一行を大いに魅惑したに違いない。特にこの時期に出会ったレオニドロニに強く触発され、「新聞」及び「新聞記者」を発見して、ジャーナリストとしても目覚めた諭吉にとっては、その後、生涯の事業の一つとなった『時事新報』の創立に繋がって行くのである。

さて、講演者の山口昌子氏が、パリでの諭吉の足跡を10年間に亙って追跡し得られた数々の新発見は、真に興味深いものばかりである。その中でも特筆すべきは、使節団メンバーの肖像写真の撮影者の正体を解明したことである。当時、写真は発明されて間がなく、写真家のナダールが高名を博していたが、撮影には高額の費用が掛かる貴重なものであり、メンバーにとっては所詮高根の花であった。ナダールが遣欧使節団一行を撮った集合写真は残されているが、では、今に残る彼ら一人一人の肖像写真は一体誰が撮影したのか。
実は、その写真を撮影したのは、謎の写真家といわれる無名のポトーであった。彼は、パリの植物園の中にある自然史博物館の研究員で、人類学的興味から、東洋人の顔を写真に残そうと思ったのである。そのネガやオリジナル写真は今もパリに存在する。一行が秋にパリを再訪した折に、ポトーのもとを訪れて撮影が行われたものであった。各人の正面と横顔が写されているが、諭吉の写真だけは、更に斜めからのアングルでも撮られている。この3枚の福沢諭吉の若き日の肖像写真は、激しいオーラを放っており、何でも見てやろうという好奇心に満ち溢れた姿が、フランスの人類学者を強く惹きつけたに違いない。日本のボルテールと言われ、近代日本の構築に貢献した偉人・福沢諭吉が如何にパリで形成されたかを、鮮明に浮かび上がらせた山口昌子氏の業績は高い評価に値するものである。
会場に詰め掛けた多くの出席者に驚きと感動を与えたことは間違いない。終演時に送った拍手が鳴り止まなかったことが何よりの証である。

以上

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