【Y】第24回ヤングサロンの会を開催しました

【テーマ:地方自治~現場の苦悩と喜び~】

 5月21日(日)、前国分寺市長、星野信夫さんを講師にお迎えし講演会を開催しました。開催場所も、星野さんにとっては市長時代に誘致を決めた思い出のある都立多摩図書館。天井も高く好環境の中で熱のこもった素晴らしい講演会でした。
講師は2001年に第5代国分寺市長に初当選され、以来2013年に退任されるまで、3期12年間の長期に亘り務められてこられました。まちづくりの理念として「共生、参加、創造」を、またスローガンとして「改革断行」を掲げて市政を担当してこられました。この間、「職員に支えられ市民に応援され市政を務められたと思う」と冒頭で述べられた感想が印象的でした。以下、就任当時の状況および大型事業への取り組みに的を絞り報告します。

 記

市政を振り返り:
最初の仕事は地域に相応しい「都立武蔵国分寺公園」の命名であった。最初の難題となったのが西国分寺駅東地区の再開発事業である。この案件は西国分寺駅近くに市民文化会館を建設する事業であったが、建設の是非を巡って議論の末住民投票が実施され、結果僅かに反対が賛成を上回り、幾多の経過を経て市民文化会館建設計画は廃止され、民間のスポーツクラブが建設される事に変更された。
市政に関して:
市長は市民から直接選挙で選ばれるので大きな権限を持ち、様々な案件の提案権を持っているが、あくまで決定権は議会にある。また国分寺市政は初代より保守、革新の市長が毎回入れ代わり、長期開発案件を遂行するには困難が伴う状況にあった。加えて国分寺市は府中市や小平市等と異なり、大規模事業所がなく市の歳入は個人市民税が中心である事から、大きな開発案件の遂行は財政的に困難な下地がある。一方、国分寺市の人口は市設立の当初5万6千人であったものが、高度成長期の波に乗り都内からの移動も多く人口が急激に増加し、現在は3倍の12万人に達している。こうした人口増加により下水道の整備・学校建設・ごみ処理施設の整備が急がれた。下水道の整備等では多額な借金を余儀なくされたが、バブルの崩壊と共に経済環境が悪化した為、多額の借入金返済に追われ、開発案件の計画・遂行上大きな障害となった状況がある。バブル崩壊後の失われた20年は国・地方の財政を著しく悪化させたが、実にその内の12年間が星野市政の期間でもあった。更に急速な少子高齢化が進み社会保障費が増大した時期にも重なっている。
国分寺駅北口再開発事業では:
1965年初代市長の代に最初の計画が掲げられたが、反対が多く長期に亘り進展がなかった。その間「開発よりも福祉優先」等の声が大きく挙がっていたが、星野市長は当再開発事業を継承し進める事とした。事業を進める上で大きな問題は地域に187名もの多くの権利者がおり、権利調整が難航した事であるが、その上2001年から始まったITバブルの崩壊が税収の大幅低下を招いた事が追い打ちをかける事となった。
一方、下水道の整備は開発工事と同時に着手すべきとの考え方から、駅周辺の下水道 が未整備状態にあり、一刻も早く開発工事を進める必要に迫られていた。更に万一開発を止める様な事になれば、損害賠償の問題等も発生する恐れがある為、事業の中断は許されず、如何に計画変更で難局を乗り越えられるかに焦点が絞られた。解決案として出されたのが、建物の建設場所を駅の近くに移し、建物の価値を高める事により商業床の販売収益を増加させ、以て開発費用の確保をする事であった。これにて一件落着と思いきや、またもやリーマンショックにより商業床が売れない事態が発生した。この問題については、「建物のスリム化と高層化」、且つ「商業床の多くを住宅床に変更」する事で開発事業は成功する目途が立った。市の想定を大幅に上回る額で落札され、建物除却の予算をつけてバトンタッチした。
ごみ処理の問題では:
複数の自治体で焼却炉を持つ場合は東京都から補助金が出る事や、大きな焼却炉設置による経済性、環境整備、自家発電設備保有等の利点がある事から平成16年、小金井市からの依頼により国分寺市と共同でゴミ処理する為の協議を開始した。
小金井市からは平成20年3月までに二枚橋近くにゴミ焼却場用地を確保する旨、またそれまでの間、小金井市のゴミを国分寺で処理願いたいとの申し出であった。しかし用地確定が出来ず問題が発生した。最終的に日野市長の決断により、国分寺及び小金井両市のゴミを受け入れる事で決着する事になった。当時日野市長はこの決断により逆に住民からの批判を招く事にもなったが、正しく日野市長の英断により難局が解決された次第である。
尚、日野市及び小金井市はゴミの減量化で現在全国一の優良自治体と言われているが、国分寺市は未だその域に至っていない。
都市計画道路整備について:
国分寺駅から北に登り、本多公民館の辺りで交わる道路が3・4・6号線(東西道路、日立中央研究所北川の道路)であるが、この道路は日本で一番時間がかかっている都市計画道路と言われている。新しい計画で道路が鉄道と交差する場合、立体交差とすべき事が道路法で定められている。この道路は西武線2本と交わるが、道路立体化には多額の費用がかかる為、都とも相談しながら進めているが、今後に残された課題もある。
都道3・2・8号線(南北道路、新府中街道)は中央線・西武線交差部分以外平面交差に改め計画推進中。この道路では小平市での反対運動は住民投票迄実行されたが、一応の決着を見ている。
講演出席者の質問に応え下記発言された事が印象に残っている:
大学は慶應義塾の経済学部、加藤寛ゼミで経済政策を勉強した。強く印象に残っている先生の言葉は、「マルクスは間違っていた。しかし、政策を論ずる者はマルクスの社会を変えて行こうとする社会的情熱に学ばなければならない」という言葉であった。
講演会後:
西国分寺駅近くの居酒屋に20名が集まり、大いに盛り上がった一日でした。

【歴】第78回 歴史をひもとく会 講演会 報告

  • 講演 ; 演題「福澤諭吉とその人生を開いてくれた恩師・恩人について」
          講師・柴田利雄先生(帝京八王子中学高等学校校長)

 

  • 日時 ; 4月22日(土)午後3時00分~5時00分
  • 会場 ; 本多公民館・視聴覚室(B1)
  • 参加者; 48名

 

【講師プロフィール】 柴田利雄先生
略歴; 1947年:東京都町田市生まれ、  1966年:早稲田高等学校卒業、
1970年:慶應義塾大学文学部日本史専攻卒業後、同大大学院進学、特に日本文化史を探求
1972年:慶應義塾高等学校日本史教諭として勤務、以後、同校主事、慶應義塾評議員などを経て、2013年3月同校定年退職
2014年4月より帝京八王子中学高等学校校長に就任、今日に至る
歴史に関する講演も多数、慶應義塾賞受賞、慶應義塾名誉教諭、福沢諭吉協会会員、日英協会会員。
著書;『福澤諭吉のレガシー』(丸善)、『幕末維新のすべてがわかる本』(ナツメ社)、『やさしく語る「古事記」』(ベスト新書)

 

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影 *ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影
*ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵

【講演内容】
福澤諭吉は1862年27歳の時に、幕府の随行員として約1年間訪欧している。
写真①はその時撮影したものだが、何とりりしい品格ある姿だろうか?
20歳代後半でこれだけの気品に満ちているというのは、どういう前半生を過ごしてきたのだろうか?
その福澤諭吉に大きな影響を与えた2人の人物がいる。
一人は恩師である緒方洪庵、もう一人は恩人・木村芥舟。
それぞれどんな出会いがあり、どのような影響を受けたのか、これからお話ししたい。

(1)福澤家とその家族
福澤家の故郷は長野県茅野であり、奥平家に仕えていた。
奥平家は武田信玄の家臣であったが、後、徳川家康の家臣となり、徳川幕府成立後は譜代大名として中津(大分県)に封じられた。
福澤諭吉の父の名は咸(かん、通称・百助)、母は橋本お順。*当時は夫婦別姓
兄弟は2男3女で諭吉は末っ子。
父は大阪で中津(奥平)藩の年貢米を換金する仕事をしていた。
諭吉は大阪で生まれ、1歳半頃に父親が死去、家族は中津に戻る。

(2)蘭学、そして恩師・緒方洪庵との出会い
19歳の時、兄に勧められ、家老家子息・奥平壱岐の話し相手(かばん持ち)として長崎に行き、そこで山本物次郎と出会う。
山本はオランダ語に通じた軍学者で、西洋の戦術を導入した。
眼の不自由な山本を助けつつ、諭吉はオランダ語を学んだ。
また奥平壱岐が買い入れた築城書(蘭人ペル著)を借りて写し取り、オランダ語を覚えていった。   *この築城書で五稜郭(函館、長野龍岡城)が造られた。

その後、福澤諭吉は中津に戻るが、蘭学を学びたいという気持ちが強く、大阪に行き、兄の勧めで有名な緒方洪庵の適塾へ入る。
適塾は当時100名弱の塾生がおり、8級から1級に分けられ、その上に特級があり、塾長1人が置かれていた。
8級から1級は上の級が下の級を教える、半学・半教(半分学び半分教える)という仕組みであり、特級だけが緒方洪庵から直接教えてもらうことができた。
諭吉は短期間(在学は実質約2年)で塾長になった。
緒方洪庵は名医として稼いだお金で蘭学を広め、亡くなるまでに塾生は延べ3000人になった。
諭吉は緒方洪庵の、私財を投げ打って学問を広げることに感銘を受けるとともに、人間はどうやって真理を究明するのか、ということを教わった。

(3)慶應義塾の創立と英語との出会い
1858年(安政5年)福澤諭吉は奥平藩の指示で江戸(奥平屋敷)に行き、蘭学塾を開く(慶應義塾の創立)。
1858年に日米修好通商条約が結ばれ、この時期に福澤諭吉は横浜に行き、英語の時代が来たことを痛感した。
「敢為(かんい)の精神」で新たに英語を学ぶことを決意する。   *敢為=物事を思い切って行うこと
英語を学ぶために、英語通訳として活躍していた森山多吉郎に教えを乞うたが、森山が多忙でなかなか進まなかった。
奥平藩が蘭英辞書を買い取ったことにより、諭吉の英語習得は一気に進んだ。

(4)木村芥舟との出会いとアメリカ渡航
1858年、日米友好通商条約締結。
1860年、条約批准のため、幕府は米船ミシシッピ号で新見正興を全権としてアメリカへ送ることにした。
同時に、副使として木村芥舟を咸臨丸で送ることにした。
福澤諭吉は木村芥舟に乗船することを何度も頼み込み、結局「海軍奉行木村芥舟従僕」として同行することになった。
苦難の末、咸臨丸は無事サンフランシスコに到着。
ミシシッピ号もワシントンDCに到着し、条約は無事批准された。
この航海の経験が福澤諭吉の活躍の出発点となり、終生、木村芥舟を恩人として敬愛した。

(5)恩師・恩人への感謝の気持ち(恩返し)
緒方洪庵は幕末に死去。
福澤諭吉は大阪に行くたびに奥様のヤエに、「お見舞い」と称してお金を持って行った。
初めは遠慮していたヤエも「福澤先生は倹約家で清廉潔癖な方で、きれいなお金だろうから」と頂くことにした。
ヤエが病気の時には、そっと100円(現在の100万円)を布団の下に入れていった。
ヤエの死後、福澤諭吉は大阪に行く度に墓参りに行って、墓を自ら洗った。
「これは自分の仕事だから。」と言って、他の人にはさせなかった。
木村芥舟に対しても、盆暮の挨拶を欠かさず、「お見舞い(お金)」を持って行った。
日が経って、木村芥舟の長男・浩吉が「お見舞い」を遠慮したい旨を伝えると
「私のお父さんに対するささやかな恩返しだ。」と言って、その後も続けた。

(6)講演会で話された福澤諭吉に関するそのほかの話
①明日4月23日は慶應義塾の開校記念日である。
これは創立(1858年)以来、3か所目となる現在の三田の山に移転・開校した1875年(明治5年)旧暦3月23日を西暦4月23日と判断して決定したもの。
福澤諭吉の生誕記念日1月10日、命日は2月3日。

②福澤諭吉の後半生はあまりにも有名で、知らない日本人はいないと言っていいくらいだ。
生涯に115冊の単行本を出版し、時事新報にて2000以上の社説を書いている。
30年前の学者の試算によると、福澤諭吉の明治10年の前後5年、計10年間を平均すると1年間の総収入は10億円であったとのこと。
そのお金で慶應義塾を作り、時事通信社や交詢社なども作った。
また多くの寄付の依頼にも応じていたが記録は残さなかった。

③福澤諭吉は咸臨丸でサンフランシスコに行った時、写真屋で記念写真を撮った。
その後、写真屋の13歳の娘と一緒に写真を撮っている。
この事は福翁自伝に書かれているが、本や話の中で妻の錦(きん)以外の女性が登場するのは極めて珍しい。  *この女性との写真は慶應義塾に寄贈されている。

④福澤諭吉は日記は書いていない。
多くの著作があるが、自分の手柄話はほとんど書いていない。
「憲政の神様」と言われた尾崎幸雄が述懐した。
「福澤先生の晩年、自分は慶應義塾で学んだが、その時はそんな偉い人だとは思わなかった。言論や本を読んで後でわかったことだが、福澤先生は日本人ではまれにみる偽悪者だ(自分を悪ぶっている)。
福澤先生はすべての分野に精通している。これほどの総合的な教養人はいない。」

 

*最後に質問をお受けしました。
菅谷国雄会員の質問; 福澤諭吉のバランス感覚というか、現実主義的な思想はどなたの影響があったのだろうか?

(7)柴田先生はご返答に替えて、以下の話を披露されました。
①福澤諭吉の話
「人間は、10歳までは家の教育、10歳からは寺子屋や学校の教育、
20歳を過ぎたら心を磨かなければならない。」

②母(橋本お順)が諭吉に話した父の話
「父は『門閥は親の仇』とよく言っていた。
父は、大変な儒学者で少ない収入でも多くの本を買っていた。
また良い学者がいると聞くと、遠くても歩いて会いに行きその人に学んだ。
帆足万里(大分県日出(ひじ)の儒学者・理学者)や伊藤仁斎とその息子・東涯(ともに儒学者)にはぞっこんであった。」

福澤諭吉の話
「母が常に亡き父のことを話していたので、父の顔は覚えていないが、父は生きているが如くいつもそばにいた。」 *父は諭吉1歳半の時に死去
諭吉の『自由に才能を生かせる世の中を作りたい』という思いは、父から受け継いだのではないか?

③これこそが福澤家の家訓、「屋漏(おくろう)に恥じず」
屋漏とは屋根裏の雨漏り(見えない雨漏りのこと)。
中国では屋漏の神様がいるといわれており、その神様が見ていても恥じないことをする。
人が見ていてもいなくても、恥じない行いをするということ。

(講演終了)
最後に、星野代表世話人よりお礼の品を差し上げお開きとなりました。

柴田先生は、歴史家としての豊富な知識と講談師顔負けの巧みな話術で、2時間余りにわたって、出席者を魅了されました。
講演会終了時には大きな拍手と歓声が上がりました。

その後、会場を国分寺駅北口・中華料理「プリンセスライラ」に移し、懇親会を行いました。 柴田先生を含む35名が参加し、大いに盛り上がりました。

 

第78回担当 井上徹(世話人)

 

写真①;1862年、福澤諭吉(満27歳)、ロンドンにて撮影
*ロンドンのザ・マイケル・G・ウィルソンセンター原画所蔵
写真②③④;講演会