【歴】第74回 講演会「実は徳川家康が作った現代の東京」を開催しました

第74回講演会が8月27日(土)、本多公民館において41名の出席の下、開催されました。講師は、作家で江戸歩き案内人として江戸の街の構造から江戸城、大名屋敷、寺社、街の変遷、軍用地跡、細道など東京23区内のあらゆる歴史痕跡に精通する黒田涼氏。

<主な講演内容>

1.現代の東京に残る徳川家康の江戸の街造りの遺産、痕跡

総武線が四谷から浅草橋あたりまでS字状に走っているのは、江戸城の外堀を利用したため。駅も当時の見附門のところに設置されており、四谷駅や飯田橋駅などの駅前には城門の石垣が残っている。新幹線や京浜東北線の線路、首都高速もやはり江戸城外堀を利用している。新橋付近の首都高速と新幹線の線路の間には外堀の底だった部分が低い通路として残っているなど、都心の各地に家康の街造りの遺産がある。

2.家康が始めた大自然改造

IMG_8971家康は湿地帯で利用価値がなかった江戸東部を人が住める場所にし、田畑として活用するために東京湾に流れ込んでいた利根川を現在の太平洋への流れに変えた利根川東遷事業、東遷事業以前の利根川(東京湾に注いでいた)に合流していた荒川(元荒川)を単独で東京湾に流れ込んでいた入間川(下流は隅田川)へ付替えた事業、さらには神田川、日本橋川、小名木川の開削、現代の丸の内、日比谷地区となった日比谷入り江の埋め立て、築地、佃島などの江戸前の埋め立てなどの一大土木事業を行った。これらは治水、通運だけでなく増加する人口対策も考慮されており、これらの土地は現代の東京の中枢部となっている。なお、利根川東遷事業はその後の水害などに伴う何回もの改修工事を経て、大正末期まで続けられた。

3.家康が決めた江戸の土地区分と街道整備

家康は、江戸城の周り、東南を中心に大名屋敷を置き、北および西の方角には旗本屋敷を、現代の日本橋から銀座地区に町人を住まわせるなど江戸の土地区分を定めた。日本橋から京橋、銀座の街区および歩道を除く今の中央通りの道幅は江戸時代のままである。また当初の下町は、日本橋、京橋、銀座地区いわゆる城下町のことであったが、その後家康の土地改良で人が住めるようになった現在の江東区、葛飾区、江戸川区などが下町と言われるようになった。これに対し、西の丘陵地帯、特に江戸城のすぐ西側の番町あたりを山の手といった。関東大震災後、番町あたりから現在の中央沿線、東急東横線沿線、小田急線沿線などに人が移り住み、現在の山の手を形成した。また、現代の五街道(東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道)も家康が作った道であり、内堀通り、外堀通り、明治通りなどの東京の環状道路も元は家康が作ったといえる。

4.江戸期日本の特殊な体制

幕藩体制というのは、中央集権でも地方分権でもない不思議な政体であった。参勤交代制により大名は全員江戸生まれとなり、領地がどこであるかにかかわらず支配階級がみな顔なじみになっていた。また、みな江戸生まれ江戸育ちであるため、文化も共通となっていた。藩主として領地に戻った(初めて行った)時、はからずも江戸文化を地方に伝達することとなった。新田開発が一段落しコメの生産量が増えなくなり、大名が困窮したため特産品の奨励が行われ地方経済が発展した。一方、江戸では大名の江戸屋敷維持経費が嵩み、現代の価値で言えば毎年4,000億円が江戸で消費された。江戸の経済は大名屋敷が支えたといっても過言ではない。日本経済は今以上に江戸一極集中であった。当時の日本は、司馬遼太郎が「坂の上の雲」で書いたような小さな国ではなく、ドイツ、イタリア、アメリカより人口は多く、江戸は世界最大の都市だった。

その他、当時の江戸に入るには東海道より東山道がメインだった。江戸は西の大地と東の湿地の境界に発展した。当時関東は未開の地だったが、江戸の発展とともに物資の輸送のための交通の要所になり、さらに江戸向け物資の生産地、集積地として発展していった。などのお話しが2時間近くにわたり、わかりやすい語り口で語られた。

講演会終了後に、国分寺駅北口の中華料理「プリンセスライラ」に席を変えて、黒田涼氏も交えた懇親会を開催し、大いに盛り上がりました。 

次回の歴史をひもとく会は10月26日(土)、明治の文明開化発祥の地、そして福沢諭吉が蘭学から英学に大転換したキッカケにもなった「横浜」の史跡を探訪いたします。別途ご案内いたしますので奮ってご参加下さい。