【講】国分寺三田会特別講演会を開催しました。

1.日時  2016年年 3月26日(土)14:15~16;30
2.会場  国分寺労政会館
3.演題  -戦後70年、封印されてきた真実を語るー “日本にもあった戦争神経症”
4.講師  目黒 克己氏(昭和34年慶應義塾大学医学部卒・医学博士、元国分寺三田会会長)
5.出席者 102名
・     (会員59名、近隣三田会8名、医学部塾員1名、近隣稲門会7名、欅友会23名、その他4名)

・目黒先生と戦争神経症の出会いは、1962年、国立国府台(コウノダイ)病院神経科に勤務していた時に一人の戦争神経症患者を受け持ったことから始まったそうです。戦争神経症とは、通常は軍隊内で発生した神経症のことです。前線で発生したものと内地あるいは後方の兵站基地で発生したものを合わせて戦争神経症としています。今回は①日本軍の戦争神経症の実態、②日本の戦争神経症の研究に関わった人々、国府台陸軍病院とその業績、③終戦と戦争神経症、 ④封印された戦争神経症の20年後の予後調査、⑤諸外国の戦争神経症、⓺第二次大戦における米軍に発生した戦争神経症の予後調査について語っていただきました。
・欧米では戦争医学として戦争神経症の研究が進んでいますが、日本人の精神力を強調する軍は戦争神経症については、一般に知らせていませんでした。しかし、現実には第一次大戦の欧米の経験から「戦争神経症」の対応を重要視して国府台陸軍病院を拠点としていました。終戦時、軍は資料の焼却を命じましたが、病院長の故諏訪敬三郎氏はひそかに8千冊の病床日誌を倉庫に残しました。目黒先生はこれを見つけ、戦後20年の時点で104例を対象に郵送と面接で予後の実態調査を行いました。104例のうち25%が治っていないと答え、治ったという人も神経症的傾向が続いていました。面接した主な4症例は次の通りです。「(症例1)軍隊生活への不適応(古参兵による私的制裁を受けた)」、「(症例2)戦闘行動の非人間性に対する不安(何度も討伐に参加。燃えている家に、消せるはずもないのに手桶で水をかける老婆が母親に似ていた)」、「(症例3)「戦闘による消耗(連日強行軍。作戦中に卒倒)」、「(症例4)心因あり、うつ状態(討伐に参加、古参兵の私的制裁、激しい空襲と食料不足、武器を失い、ひどく叱責される。不眠、うつ状態)」。
・目黒先生は故諏訪敬三郎氏から「今後50年間、論文に記した以外は口にするな」とくぎを刺され、封印してきました。調査当時は研究内容に対する世の中の評価は冷たかったそうです。そして調査後50年経った2015年に朝日新聞の取材に応じました(2015年8月18日付け朝刊:封印された「戦争神経症」)。目黒先生は「①真実は一つ。ただ、時代により評価が変わる。いまでは戦争神経症が新聞に取り上げられるようになった。②戦争は勝った側、負けた側どちらにも心の傷が残る。戦争は悲惨。」と言う言葉で講演を締めくくりました。
・小笠原会長の開会挨拶、天野先輩の閉会挨拶にもありましたが、安保法制、憲法改正等国のかたちが議論される中で今回の講演は戦争の悲惨さについて考える絶好の機会になったと思います。特に天野先輩の戦中、戦後を通じての体験から戦争はこりごりだと言う話は説得力がありました。また目黒先生という戦争神経症の研究者が国分寺三田会の先輩にいらっしゃるということは我々の誇りです。目黒先生、貴重なお話をありがとうございました。
講演記録は追ってHP(会員専用頁)に掲載します。ご期待下さい。
・講演会事務局 前原憲一(S45工)、藤枝とし子(S43文)、高橋伸一(S45法)、岩田友一(S45工)
・       古賀良三(S46経)、久保田宏 (S46工)、池田敏夫(S47商)、沼野義樹(S48経)

・   目黒 克己氏プロフィール
1960年       慶應義塾大学医学部精神神経科教室入局
1960年〜1968年 国立国府台病院神経科・国立精神衛生研究所
1966年       『20年後予後調査から見た戦争神経症』の研究で医学博士
1967年〜1968年 米国ハーバード大学医学部精神科研究員
1970年〜1991年 厚生省勤務。生活衛生局長で退官。
1994年から恩賜財団済生会本部理事、  現在、医療法人高仁会顧問

 

講演風景IMG_9289

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